第一部 五話「鬼火」

第五話『鬼火』




 暑さも少しはマシになったものの、外を歩けば汗が噴き出す。まだ八時だというのに太陽は高く、蝉もしつこいくらいに鳴いている。秋はまだ遠そうだ。

誠治せいじ兄さん、今日は帰って来られないんだよね?」

 日曜、自宅でジーナと朝飯をとっていると、ジーナは食パンを齧りながら俺に聞いてきた。

「ああ。たぶん、帰るのも日をまたいでだと思う」

「まだあの……革新怪団だっけ?」

「そう……あ、いや、今回は違うんだ」

 俺はそう言って、首を振る。その慌てように、ジーナはクスクスと笑う。

「自分は別の仕事を任せられてさ。革新怪団の捜索は、将美さんが代わりにやるんだ」

「別の仕事って?」

「当ててみな」

「う……ん」

 ジーナは眉をひそめて、考え込む。無意識に揺らしている牛乳の入ったグラスが、日本人離れした彼女の小麦色の肌に映える。

 ジーナは時に年相応でない理知的な一面を見せることがあるのだ。だから俺も、ついこんな問題をぶつけてしまう。

 こうして考え事をしている姿を見ると、姉の将美さんに似ている。彼女も考えをする時は飲み物を手にし、カップを揺らして中身に渦を作る癖がある。きっとジーナの仕草も、彼女の真似をしているうちに無意識に出るようになったのだろう。

「お隣さんの仕事とは?」

「関係ない」

「羽ちゃんや、天さんとも?」

「関係ないな」

 それだけ聞くとジーナはグラスを回すのを止め、嬉しそうな笑みを浮かべる。

「分かった、前に姉さんが受けた依頼の事でしょ。行方不明だった娘さんが見つかったか、何か進展があったから、兄さんが調べに行くんだ」

「正解」

 やった。と、ジーナは小さくガッツポーズをとる。こんな姿を見ると、この子がまだ小学六年生の子供だと思いだされる。今年で二十三になる俺より賢くしっかり者で、思春期真っ盛りにしては幼すぎるほどに素直な俺の妹分。それがジーナだ。

「将美さんが手掛かりを見つけたらしくて、それで自分と源爺が調べに行くって訳」

 へー……。と、感心したようにジーナは牛乳を飲み。

「どうして姉さんは自分で行かないの?」

 そういうのは下の仕事だからだよ。俺はそう言って苦笑いをする。その答えに納得いかないのか、ジーナは首を捻ってまたグラスを揺らし、白い渦を作りながら呟く。

「でも、姉さんの方が強いのに……」

 姉妹そろって、ホントに容赦ないな。俺はそう言ってうなだれた。




 俺が今回将美さんに任された仕事は一か月前ほど前、たしか八月の初めに依頼されたものだ。

「高校生の娘が誘拐されたんです」

 待ち合わせていた喫茶店で、依頼人の長岡悠真ながおかゆうまは開口一番にそう言った。

 彼の第一印象は、近寄りがたい強面のオヤジ。張り詰めた顔は普段からか、それとも娘の心配からか、ひょっとしたら俺達への不信からかもしれない。

「……誘拐と判断した理由を伺いましょうか」

 顔を見なくても分かる。気乗りしない声で、将美さんは長岡に言った。

「……警察も似たようなことを言いましたよ。家出の可能性もあるってね」

 舌打ちを隠しもせず、吐き捨てるように言う長岡。それでも将美さんは、自分の姿勢を改めない。

「夏休みですしね、その可能性も……」

「そんな訳あるかっ!」

 長岡は立ち上がり、怒りの声をあげた。

「………」

 どうするべきか。俺は将美さんにアイコンタクトで指示を仰いだが、将美さんはこちらを見ようともしない。ただ黙って、見定めるように長岡を見ている。

 その冷やかさに毒気を抜かれたのか、長岡は落ち着きを取り戻し、席に着いた。

「……すいません。冷静じゃあありませんでした」

「いえ、たらい回しにされているのでしょうし、苛立つ気持ちも分かります」

 将美さんは涼しげにそう言い、コーヒーを口に含む。

「事の始まりから、詳しくお話しください。貴方の知る限り」

「……分かりました」

 長岡は頷くと、ゆっくりと語り始めた。

 四日前の八時頃、友人とのカラオケへ行った長岡の娘、長岡夏鈴は、友達と駅で別れた。そして帰宅中、背後から怪しい男達が付いてきているのに気づいたという。

「そのストーカーの詳細は聞きましたか?」

 将美さんの質問に、長岡の顔が強張った。彼は頷いた。

「はい。帰ってきた娘が何度も言ってましたから……たしか、交代で追われた、複数いたとか。あと、服装はバラバラだったから一人ぐらいしかちゃんと覚えていないとか……」

「……すみません」

 将美さんはグラスを揺らし続け、氷とコーヒーの渦を作りながら、長岡の言葉を遮る。

「彼女がストーカー被害にあっていると言いだしたのは、これが初めてですよね?」

「ええ。まぁ……」

「他に似たような話をしたことは?」

「一切ありません」

 長岡は唸るように答えた。

「娘は、そんなはた迷惑なことはしない」

 何のことだろうか。置いてきぼりの俺をよそに、なるほど。と、将美さんは頷き。

「続きを聞かせてください」

 分かりました。と、長岡は話を再開した。

「あの時の私は、夜遊びで帰りが遅いあいつに腹を立てていたんです」

 長岡はそう、切り出した。

 彼は危機感を訴える娘に、まず帰りが遅いことを叱り、さらにそのストーカーもこんな時間まで遊んでいるからだと言ったそうだ。

 この一言により二人は喧嘩に。憤慨した娘の夏鈴は、家を飛び出した。こんなことは日常茶飯事だったらしく、長岡も明日には帰ってくるだろうと高をくくり、それを放っておいた。

 そして彼女は、今も帰ってきていない。ケータイも繋がらないのだと、憔悴した長岡は言う。

「これで家出じゃない、誘拐だって言えるのが不思議よね」

 依頼を受け、長岡と別れた後、俺が運転する車の後部座席で将美さんは言った。ミラーで見てみると、将美さんは先ほどメモした事をチェックしている。酔ったりはしないのだろうか。

「じゃあ、なぜ受けたんですか?」

「興味が湧いていたから」

「興味?」

「……ここ数年、関東では未解決の失踪事件が多いのは知ってた?」

 そんなの一介の市民であるところの俺が知っているはずがない。いいえ。と俺が言うと、知っとけと言うように将美さんが溜息をこぼした。必要とされるレベルが高過ぎる。

「不景気だし、世の中が不安定だと自殺なんかも増える。失踪も当然ね」

 だけどね。と、将美さんは窓の景色を眺めながら話を続ける。

「ここ最近、ストーカーの存在を誰かに告げ、さも誘拐かのように失踪するってのが流行ってるらしいのよ」

「え? 似たような事件が他にも起きてるんですか?」

「ええ。それがネットで話題になってるから、失踪する際に模倣するのがいるそうよ。ようするに構ってちゃんね。元々夏休み、盆休みには家出が多いのも事実だし、警察が長岡を相手にしないのは当然ね」

 おまけに、喧嘩のこともある。長さんはそう言って鼻で笑った。日常的に喧嘩をするくらいなら、親を困らせたくて、誘拐のように見せかけ家出……たしかに、それも充分考えられる。

「それともう一つ、集団ストーカーなんて実際はそうそうないレアケース。平凡な女子高生が、大勢に付け狙わられる理由なんてないでしょ」

 なるほど、ここまでくると、警察が動かないのも当然かとも思えてくる。

「被害妄想を信じてもらえない女子高生が、真実味を持たせようと流行りのやり方で姿をくらませている。そんな風に警察は思ったのでしょうね。恐らく長岡も、警察から娘の精神状態について聞かれたからこそ、ああも苛立ってるんでしょ」

「……じゃあ尚更、なんで受けたんですか?」

「言ったでしょ、未解決の失踪が多すぎるのよ」

「え? いや、それは……」

「ごめんなさい、説明が足りなかったわね」

 将美さんは少しの間、どこかを注視するように睨み、それから言った。

「さっきも言ったように、この誘拐に見せかけた家出は、実際は構ってほしい、探してほしい人によるものだと思われているわ」

 はぁ。と俺は曖昧に頷く。

「でも、そうやって失踪した者の三分の一くらいは、未だ行方知れずになっているの。この辺りじゃあね」

 長岡と顔を突き合わせる前に調べたのだけれどね。そう語る将美さんだが、そんな情報をどこで仕入れてくるのだろうか。同居しているが、そんな気配も見せずにこの人はあらゆる情報を手に入れてくる。

「それが、どうおかしいんですか?」

「見つけてほしい、そう思ってる連中が二年も三年も失踪し続ける訳ないでしょ」

 あ。と俺は声に出した。じゃあその三分の一の中には、本当に被害に被害にあい、そのまま拉致された者もいるかもしれないのか。

「そのうち一割の、さらに何割かは家出先でトラブルに巻き込まれたか」

 将美さんはメモを鞄にしまいながら言った。

「誠治はとりあえず、長岡夏鈴について調べなさい。彼女の友人関係や、関係があるSNSは特に注意して見なさい」

「分かりました」

「家族の下らない喧嘩に、私達がお金をもらって関わっている」

 そうであることを祈りましょう。彼女はそう言って後部座席から身を乗り出し、、メモを俺の背広の胸ポッケに入れた。

 それから俺は、将美さんから革新怪団のモニカ率いるグループの捜索を任せられるまでの二週間、彼女を調べ上げていた。

 しかし、分かったのは彼女が被害妄想の気などなく、彼女の友人の誰もが彼女の行方を知らないということのみであった。




 事態が好転したのはそれから一週間後、逆にモニカ達の捜索が手詰まりになりだした頃。ひょっとしたらもうモニカ達は日本から脱出したのではないかと、疑いだした頃であった。

「確実な情報ではないけど、長岡の件で有益な話を聞けたわ」

 昼頃にふらりとどこかへ出かけ、夜遅くに帰宅した将美さんは、帰ってくるなりそう言った。

「……マジですか?」

 たぶんね。と、将美さんはUSBメモリーを机に置いた。この人はどこまで優秀なのだろうか。

「初めから聞きたい?」

「ぜひ」

「でしょうね。……ジーナは?」

「もう寝ました。あと、源爺も」

 よし。と将美は麦茶を飲んで一服し、口を開いた。

「本当はモニカについて聞きに行ったんだけどね。向こうがそれとは別に売り込んできた情報があったの」

 情報を売る、というニュアンスから、行った先は情報を売り買いする連中、いわゆる情報屋の所か。以前俺も、将美さんに連れられて行ったことがあるが、勝手にイメージしていた事情通、もしくはスパイのようなスマートさは微塵もない。狭い部屋にパソコン一台だけの、不健康そうな女が出てきた。

 彼らは言うなら、井戸端会議の井戸の蛙。道端で見た、同業者から聞いた、ネットで知った、そういった他愛もない情報を有益になる人に売るのが得意な蛙だ。将美さんに売り込んだ情報もきっと、俺達が長岡の件をどこからか知り、知っているからこそ売れると判断したものを口にしたのだろう。

「まぁ、とにかくこれを見てからね」

 将美さんは手早くノートパソコンを立ち上げ、USBメモリーの中身を画面に表示させる。俺は彼女の後ろに立ち、それを覗き込んだ。

 それは、何かのサイトのページをそのまま画像としてコピーしたもののようだ。黒の背景に黄色の文字の、簡素な掲示板。いかにも裏サイト、といったような感じだ。

「……人形の館? これは?」

「会員制の闇サイト。内容は見れば分かるけど、会員が注文した条件に合う人材を探して、さらっているようね」

 ようするにクズの溜まり場よ。そう将美さんはきっぱり言い切り、別の画像も次々と表示させていく。

「一回の犯行ごとにサイトを閉鎖しては作り直しているようだけど、内容は一緒。で、問題はこれ」

 将美さんは一つの画像を拡大し、俺に見せる。

「ほら、この、欲しい人形ってところ」

 恐らく、意味することはターゲット。その詳細は隠語や比喩表現で分かりづらいが……。

「夏鈴と、近いですね」

 夏鈴と直接書かれている訳ではないが、性別や年齢、見た目等が夏鈴と近い。それに実行日も、予定している場所も、ピタリと一致している。

「他にも二十三人、この闇サイトを経営している連中は人攫いをやったそうよ」

 俺は背筋に寒いものを感じた。このふざけた隠語の文面の先に、人の命が消えているのか。

 俺は寒気を抑えながら、これまでの情報で理解できたことを口にする。

「つまり……この特徴の者なら誰でも良かった?」

 そうみたいね。乾いた声で将美さんは言い、別の画像を開く。

「全体を洗ってみて分かったんだけど、計画立案とサイト運営が一人で、他は拉致と運びの為に、定期的に交換される雇われに過ぎないみたいね……ちょっと、大丈夫?」

「はい……平気です」

 強がりに過ぎないが、ここで折れる訳にはいかない。退いてたまるものかと、震える足で立ち続ける。

 そんな様子をじっと見ていた将美さんは、無言でウィンドウを閉じてしまった。

「あ……」

「やめよ。続きは明日」

 そう言って将美さんは、PCの電源も切ってしまう。

「もう寝るわ、お風呂も面倒……」

 そんなことを一人呟きながら、将美さんは自室へ行ってしまう。一人残された俺は、呆然と立ち尽くしていた。失望させてしまったか。

 何をやっているんだ俺は。自己嫌悪に、肩が震える。俺は将美さんの手足だ、その手足が震えてどうする。こんなことでビビってどうする。

 俺はすぐさまPCを再度立ち上げ、将美さんが残したメモリーUSBに入っていた画像をチェックする。この時にはもう、自然と足の震えは消えていた。

 画像に食らいついてるうちに、俺はあることに気づいた。拉致の場所は全国に散らせているが、決行予定には規則性がある。多少の誤差はあるが、大体二カ月置きに犯行に及んでいる。

 そして、書き込みに時折見られる、EVEという単語。

 EVEも喜んでいる。EVEが呼んでいる。そんな風に書かれているから、このグループの中心人物であることは確かなのだが、どうも変だ。EVEの書き込みはないし、犯行の指揮は全てサイトの管理人が行っている。

 闇サイトの管理者であり、犯行グループのリーダー。

 三人の協力者。

 そして、リーダーの背後にいる、EVEの存在。

 サイトに書かれたターゲットも老若男女様々である以上、性的な目的も、臓器売買の線も薄い。そうだとしたら、老人や中年を狙う必要はここまでないだろう。

「やってるな」

 背後からの声。振り返って見てみると、この一家の知識人である厳爺がこちらを見上げていた。

 犬、である。

 より詳しく説明するならば、甲斐犬という犬種であり、狗賓という天狗の一種であり、かつてはとある山の主であったという。俺が知るのは、これくらいか。

 いつ将美さんと出会ったのか、なぜ喋れるのか、その辺りを俺は知らない。将美さんは、他人に過去を語らないのだ。

「将美め、山神をベッドから引きずり降ろしおったわ」

「ああ、そう言えば将美さんのベッドで寝てたっけ」

「代わりにお前のベッドを借りるぞ」

「自分が寝るまではね」

 そうか。厳爺は頷きつつもテーブルに前足を掛け、画面を覗き込む。

「人攫いだったか?」

「そう」

「相も変わらず、人の世は荒んでいるな」

「ああ」

 俺は画面を見ながら、静かに頷いた。

「本当にな」




 十日ほど経ったある日、俺が起きた時にはもう将美さんは出かけていた。そして夕方頃に帰ってくるなり、厳爺と遊んでいた俺に、仏頂面で言った。

「グループのアジト、いえ、拉致した人を運んでいる所が分かったわ。山に建てられた別荘よ」

「えっ?」

「明日そこに行って、全部終わらせてきなさい」

 淡々と、それでいて畳みかけるようにそう言い、その場でメモを書いて俺に押しつけた。

「これね、詳しくは道中で説明を聞きなさい。……じゃ、後はよろしく」

 将美さんはそれだけ言うと、部屋に籠ってしまった。

「……厳爺」

「私にも分からん」

 こうして、将美さんからの説明されないまま一日が過ぎ。翌日の日曜の正午、ジーナに留守を任せ、メモに書かれた集合場所の公園へと車で向かった。

 そこには、意地の悪そうな笑みを浮かべてこちらに手を振る花車さんと、事態を飲み込めていなさそうに困惑した面持ちの長岡がいた。

 俺は窓を開け、身を乗り出す。

「御苦労様、毒島君」

「どうも……いや、どういうことっすか?」

「あー……やっぱり聞いてない?」

「聞いてませんよ……! それに、貴方はともかくとして、クライアントを同行させる気ですかっ!?」

「それが必要だからね」

 花車さんはきっぱりそう言うと、車の助手席へと回ってしまう。長岡は訝しげに俺に囁いた。

「必要なら協力しますが……こっちは素人なんですけど」

「……さぁ? 向こうの方が経験あるんでなんとも……」

 そうかい。と長岡は後部座席の扉を開ける。

「あ、すいません。犬いるんで」

「失礼」

「……え? こいつ喋らなかった?」

「気のせいじゃないすか? 厳爺、おすわり」

「ワン」

 そんな感じで、俺は車を発進させたが。

「……で、どこ行くんですか?」

「とりあえず高速入って。目的地は他県だから……ところで」

 花車は顎で後ろを指し。

「何で彼が? 将美の指示?」

「いえ、山に行くのは知ってましたから、なら便利かなって」

 厳爺は昔、とある山で神と崇められていたという。別の山でも、それなりの働きはしてくれるだろう。

「……なるほどね」

 花車さんは頷き、地図を開く。

 それにしても、まさか花車さんが来るとは思わなかった。押し入るのだからてっきり、あの如月打倒の主戦力だった羽や天が同行するかと思っていた。

 しかし、ということはだ。

「花車さん」

「ええ、本当は如月の出番なんだけどね。そう、お察しの通り……」

 花車さんはこともなげに答えた。

「この件には、人外が絡んでるわ」

 やはりそうか。それに花車さんに頼む以上、力任せではどうにもならない相手なのだろう。

「それにしても、本当に何も聞かされていないの?」

「ええ。何かすげー不機嫌で……何かあったんですか?」

「ちょっとね、協力に条件を付けただけよ。あの過保護には良い薬でしょうよ」

「条件?」

「そ、普段の仕返しね」

 そう言うと、花車さんは話を切ってしまう。

 条件、後ろの長岡のことだろうか。将美さんは、わざわざクライアントを危険な目にあわせないだろう。いや、その前に足手まといと考えて切り捨てるか。

 しかし、なら花車さんはどうして長岡を連れて行こうとしているのだろうか。

「花車さん、どうして彼を?」

「言ったでしょ? 必要になるって」

「その、どう必要だか話してくれません?」

 長岡も、後部座席からそう言う。

「何の説明もなしだと、流石に困るんですが」

「あら? 説明がなければ、娘一人も救えません?」

「え?」

「長岡さん」

 花車さんはまるで長岡を諭すように、力強い声色で話し始めた。

「残念ながら全てを話すことはできません。貴方はただ、娘の心配だけしてれば良いんです。他のことは、こっちが全てやってあげますから」

「………」

 長岡は不服そうだが、それでも納まりがついたようだ。俺はそっと花車さんに耳打ちする。

「で? 何がどうなってこんなことになったんですか? それに、どうして花車さんが俺達の協力を?」

「んー……」

 花車さんは後ろの長岡を気にしているようだが。

「まぁ、別に良いか」

 と、苦笑いとともに肩をすくめ。

「いつからだったかな? 私は将美に調査の協力……というか、使える連中を紹介してくれって頼まれてさ。で、昨日、その知り合いがあのサイトから住所を特定させてね」

「マジですか」

「ええ。私にもちょっと信じられなかったけど、結果としては、どんぴしゃで、捕えることができた訳」

「それで、そいつから彼女の居場所を……」

「そう」

 チラリと、花車さんが横目で長岡を見る。俺もそれに釣られ、ルームミラーで様子を伺ってみた。彼は無表情としか取れぬ顔で、外の景色を眺めている。

「じゃあ、そこでその……アレが絡んでるって知ったんですか?」

 ええ。と、花車さんは答えた。

「大したことを知ってなかったけど、あの口ぶりはまぁ……ね」

「はあ……あ、その男はどうしたんすか?」

「……聞きたい?」

「あ、いえ、遠慮します」

 悪そうな笑みを湛える花車さん。似た笑みをよく浮かべる将美さんと暮らす俺はそれで察し、申し出を断った。




 花車さんのナビで着いた場所は、群馬の山中にある別荘地であった。

 夕暮れ。車から降りた俺達三人と一匹の前に、一戸建ての木造建築がそびえ立つ。シーズン中だと思うのだが、この辺は不気味なほどに静かだ。通り過ぎて行ったリゾート地は、どこも人気があったのに。この辺はアクセスが悪いのだろうか。

「ここが……?」

「聞いた通りの建物だし、まず間違いなくこれね」

「ここに夏鈴が……」

「あ、駄目だ。腹が減ってしまった」

「駄犬、空気読め」

「もう隠す気もないんですね、こいつ」

 俺から言わせれば、数時間でもう驚きもしなくなった長岡の方が問題だ。

「さて……どうします?」

「話によると、リーダー格の男はここに住んでるらしいんだけどね」

 花車さんはそう言って、その場で屈みこむ。

「あの……」

「静かに」

 俺達が黙っている数分の間、花車さんは周りを見たり、聞き耳をたてるように手を耳へやったりしていた。

「……やっぱり、生活音がまるでない」

「留守ってことですか?」

「あそこ、車あるでしょ?」

 花車さんが指さす方を見る。開いたままのガレージには、黒のセダンが停められていた。歩いてコンビニ、なんて場所ではないから、やはり建物内で息をひそめている可能性が高そうだ。

 こうして正面に駐車しているから気づかれても仕方がないか。しかし息をひそめるという事は、何かやましい事があると考えても良いだろう。

「私はこの家をぐるっと回ってみる」

 花車さんは後ろ手で別荘を指し、俺に説明した。

「貴方はここで玄関を見ていて」

「了解です」

「長岡さんは車で待っていてください」

「あ……ああ」

 長岡は頷くと、すごすごと車内に戻って行った。その後姿には、初めて会った時のような威圧感はまるで見られなかった。

「……やっぱ厳爺連れてきたのは失敗っすかね?」

「いえ、これからもっと酷いものを見るかもしれないんだから良いんじゃない? んじゃ、見に行ってくるわね」

 どうでも良さげに言い、花車さんは家の裏へと向かおうとしたが。

「花車」

 と、厳爺がそれを呼び止めた。

「この臭いは何とみる?」

「……それを確かめに行くのよ」

 そう答え、花車さんは行ってしまった。

「臭い?」

「あー、少し待て」

「何を?」

 もうすぐ風下だ。源爺がそう言い終える前に、さぁっと風が吹いた。

 その瞬間、俺は一瞬にして顔が強張った。

「何だ? この臭い……!?」

 思わず鼻を手で覆う。顔をしかめずにはいられないような、強烈な悪臭。普段からこんな臭いがするというのなら、この辺りの客足のなさも納得だ。

 そう、まるで生ごみ……いや、腐臭。

「……厳爺」

「そうだな。で、どうする?」

「……ここは任せた」

 花車さんはあくまで協力者。ここまで人任せにしてはいけない気がする。

「これは、俺の仕事だから」

「……そうか」

 厳爺は憐れむように目を細めた。

「まぁ、覚悟はしていけ」

 俺は頷き、小走りで花車さんを追った。

 家の角を曲がると、物置小屋だろうか、別荘とは別に小屋があった。花車さんは、その小屋の扉の前で何かを調べるようにしゃがんでいた。

「花車さん!」

「毒島君……来ない方が良いわよ」

 それはそうだ。ここまで近寄れば、吐き気さえ覚える。この臭い、間違いなくここに、アレがある。俺はうつむき、口を曲げた。

 しかし、これ以上の醜態は晒せない。人任せのまま、終わりたくはないのだ。

「分かってます。でも、将美さんに頼まれた仕事だから、俺がやらなきゃならない仕事だと思うんです」

「……そう」

 花車は立ち上がり、ポイと手にしていた物を脇へ放った。見れば、それはダイヤル錠だった。

「じゃ、開けるから」

 花車さんは扉を開け放った。

 照明のない薄暗がりに、日の光が伸びる。照らされた部屋の中央には、何か大きなものが大量に積み上げられていた。

 目に飛び込んできたそれは、頭を出す部分を塞がれた、何かが入った寝袋の山である事に俺は気づいた。

 頭の部分を、ガムテープらしきもので封じたそれ。それは下の部分がべっとりと黒ずみ、ハエがたかっている。つまり、この中身が、この中身の山が、この悪臭の元である事を物語っている。

 数えるまでもない、寝袋の数は二十四つ。被害にあった、人数と同じ数。

 まともな思考ができたのはそこまでだった。俺は扉から離れ、背後の別荘の壁に手を付いて胃袋の中身を吐きだした。とにかく、気持ち悪い。足元を起点に世界がグルグルと回っているようだ。目を開けているのか、それとも閉じているのか。それすらも分からない。

 肩を掴まれ、俺はここから離れさせれる。きっと、花車さんだろう。醜態を晒した、そんな感情は湧き上がらない。死体ぐらい想像はしていた、しかしあんな風に、あそこまで冒涜的に人の死体を扱っているとは思えなかった。あれじゃあ、ゴミ袋を積み上げているのと同じじゃあないか。

 気づけば、俺は車まで歩かされていた。顔を上げると、花車さんが俺の瞳を覗き込んでいた。

「落ち着いた?」

「はい……」

「ここにいなさい。分かった?」

「はい……」

「………」

 花車さんは返事を聞くと、あの小屋へと戻って行った。

 俺は呼吸を整えながら、混乱した頭を落ち着かせる。さっきまで気にならなかった蝉の鳴き声が、今はまるで超音波のような不快感を募らせる。

「大丈夫か?」

 声のした方へ顔を向けると、長岡が車から降りて俺を心配そうに見ていた。長岡は俺にペットボトルの水を手渡す。

「すみません」

 俺はそれを一口含み、口をゆすぐ。

「……何を見た?」

「………」

「いや……想像はつくけどさ」

 長岡はそう呟いて、車に背を預ける。

 お互い何も言わずに、ただ時間だけが過ぎていく。遠くで厳爺がこちらの様子をそっと見ていた。

「……まだ、娘さんだったと確認した訳じゃないですから。まだ生きてるって、信じてますから……」

 先に口を開いたのは、俺だった。大して回らない頭で、絞り出た言葉。その言葉に、長岡は首を振った。

「いや、良いんだ。分かってる」

 何をだ。そう言おうとしたが、言葉が喉を詰まらせる。

「……もしかしたら、これで良かったのかもしれない」

 独り言か。長岡は、そう語りだす。

「きっぱりと分かった方が、気が楽だよ。それに、あいつがいなくなってからの一カ月、結構アレだったしな。あいつが家を出てった時も、こんな感じだったなぁ……ハハッ」

 何を言ってるんだ、この男は。俺の体がぶるっと震えた。その台詞は、俺の冷え切った体に火を着けた。

「そうだよな。俺は一人身が似合ってんのかもな。その方が気楽だし、あいつとも喧嘩ばっかで……」

 駄目だ。もう堪えきれない。

「おい」

 俺は一人呟く長岡の胸倉を掴み、叫んだ。

「あんたが……あんたが諦めてどうするっ!?」

 長岡は驚き呆然としていたが、構わず俺は言った。

「あんた父親だろ!? 俺達が諦めても、あんただけは娘のことを思えよ! 長岡夏鈴ってのは、あんたの娘だろ……!」

 分かってはいる。口先だけは熱烈でも、頭の中は言葉を吐きだすほどに冷めていく。自分の子供だからと言って、全ての親が子を愛せる訳じゃない。

 そう、もしそうなら俺も、将美さんやジーナだって、もっと別の人生を歩んでいたはずなのだから。

 こいつに当たったところで、何にもならない。俺の手からはスルスルと力が抜けていき、やがて力なく落ちる。

「すいません……これは、仕事だ」

 俺はそう言って、長岡に背を向けた。

「だがあんたに手を出したこと、謝る気はないです」

 何だろうか、この感覚は。ずっと昔に矯正したものが刺激され、息を吹き返すような。

 俺はこの男に何を見た。誰と重ねた。俺を産んだだけの女か、それを孕ませた顔も思い出せない男か。

 長岡はしばらくの間、何も言いはしなかったが。

「お前、家族……両親は?」

「家族はいる」

 俺は、そうとだけ答え。

「子供は親は選べないけど、家族は自分で選んでいく」

 そしてあの言葉を、俺が長さんに家族のことを聞いた時に言われた言葉を、そのまま、後ろの男に言った。

「貴方は確かに父親だけど……家族はいないんですか?」

 後ろの男は、少しの間だけ黙りこんでいたが。

「俺は……馬鹿だったな」

 長岡がそう呟いた、ちょうどその時、別荘の角から花車さんが飛び出してきた。見れば彼女は腕に一つの寝袋を抱えている。

「か、花車さん……!?」

「生きていた!」

「ええっ!?」

 花車さんは寝袋を地面へと置き、中身を引き出そうとする。俺の脇を長岡は走り抜け、俺も後に続いて花車さんの元へ向かった。

「夏鈴っ! 夏鈴っ!」

 長岡は寝袋から一人の女性を引きずり出し、抱きしめる。彼女が長岡の娘、長岡夏鈴なのだろう。

 そして、これが彼の本当の気持ち、彼の父としての感情なんだろう。

「大丈夫。意識はないけど、生きてるわ」

「花車さん、他に生存者は?」

「彼女だけよ。詳しくは後で話すから、とりあえず彼女を車に」

「分かりました」




 俺と長岡は夏鈴を車の中に寝かし、一息いれた。

 しかし、片付いていない問題がまだある。彼女の事を長岡に頼み、俺は花車さんを探す。俺達に運ぶのを任せ、あの人は何をしているのだろう。

 花車さんは、車から離れた所で電話をしていた。俺が傍に駆け寄るうちに彼女は通話を終えてしまい、俺に向き直った。

「救急車ですか?」

「いえ、まだやることがある」

「……それは、彼女の容体に関係あるんですか?」

 花車さんは頷いた。

 俺は医学に関しては素人も同然だが、夏鈴の様子はそれでもおかしい分かる。何と言うべきか、生きているだけ、反応が全くないのだ。ただ衰弱している、という風には見えない。

 それに、生きている人間をあんな風に放棄するとは思えない。何か、彼女の身に起きているはずだ。

「そう、今の彼女はまだ安全には程遠い。今のあれは、ただの抜け殻。他の死体もそう……魂を抜かれた、生きた肉よ」

「魂を……?」

「そう、だから決して目覚めない。他の死体は皆、目覚めないまま餓死してったんでしょうね」

 やはり、花車さんがいて良かった。俺なら彼女に気づかぬまま、他の寝袋に入れられた者達と同じ道を辿らせていたかもしれない。

 しかし、これではっきりした。拉致の目的は人の魂を手に入れる為であり、犯人は確実に常識を逸した存在なのだということ。あの寝袋は言うならば、卵の殻が詰まったゴミ袋だ。

「今さっき、そういったのに詳しいのを呼び寄せたけど……魂自体はこっちで回収しなきゃならない」

 花車さんはそう言って、別荘の方を睨んだ。

「やっぱり、乗り込むしかなさそうね。あそこに……」

「……ですね」

「魂を奪うか……面白くなってきた」

「え?」

 何でもないわ。花車さんはそう言ってうつむいた。

 垂れた長い髪の合間から見えるその口元は、うっすらと笑みを浮かべていた。




 さて、改めて俺達は別荘の前に立つ。

「厳爺、何か変化は?」

「誰か中にいたぞ」

 厳爺は二階の方を睨んだまま、答えた。

「一瞬だが、二階の窓からこっちを見た」

「……一人はいるってことっすよね」

 そう言って俺は花車さんの様子を伺う。

「じゃあ二階は私が、一階は毒島君に任せて……」

 チラッと花車さんは厳爺を見て。

「貴方はここを見張ってて。で、騒ぎがあればすぐにそっちに駆けつける」

「承知した」

「毒島君」

 花車さんは片手を俺の肩に添え、振り向かせた。

「一気に行くから、もたもたしないようにね。何かあったら大声で呼びなさい」

 俺は黙って頷いた。体が火照っていくのが分かる、いよいよか。

 数段の階段を一気に駆け上がり、花車さんはドアに体ごとぶつかった。ドアは大きな音をたてながら前に倒れた。俺は中に飛び込み、周りを素早く見渡す。誰もいない。中は吹き抜けになっており、正面に階段。右にリビング、そして奥にドアだ。

 花車さんはすぐに起き上がり、階段を早歩きで上っていく。俺はまずリビングに入り、うろうろしながら目ぼしいものを探す。

 特にこれと言ったものはない、俺の家と大して変わらない普通のリビングだ。奥の方の一角がキッチン、その横が浴室になってたが、これも別に変わった点はない。見上げた中二階の廊下も、人影一つない。

 次はあのドアかと移動しようとしたところ、上で騒音があった。物を壁に強く叩きつけたような、暴力の音。例の二階の一人か。

「花車さんっ!?」

 呼びかけても返事はない。尚も続く、物を手当たり次第にひっくり返しているかのような騒音に不安を覚えながらも、俺はそっちへと行くことにした。

 階段を上がると、音は三つある部屋のうちの一番手前の部屋からだと分かった。俺はドアノブに手を掛け開けようとしたが、鍵が掛かっているのか、開かない。花車さんが鍵を掛ける必要性はない、やられた。

「クッソ……クッソクッソクッソ!」

 俺は焦りに半ばパニックになりながらドアを押し引きしたが、どうもこれは鍵によるものではないかと思い始めた。鍵が掛かってるにしても、強く揺すればガチャガチャと音ぐらいするだろう。しかし、このドアは何をやっても張りついているようにビクともしない。拳を叩きつけたが、ドアは微動だにしない。

 妖術や魔術か、なら厳爺を呼ぶしかない。舌打ちし、俺はここを離れ、階段を下りる。

 階段を下りてる最中、騒音はピタリと止まった。まさか、やられたのか。いや、思わず振り返ったが、そうだとしても俺にできることはない。とにかく、厳爺だ。

 玄関から顔を出し、見張りの厳爺に叫ぶ。

「厳爺、来てくれっ!」

「騒音があったが、どうなっている?」

「二階の部屋に花車さんが閉じ込められた。たぶん、妖術だ……!」

 こちらに来た厳爺に説明しながら、俺達は二階に上がる。

「ここだ」

「……念動の類だな」

 部屋は先ほどと打って変わって、不吉なまでに静まり返っている。

「何とかしよう。お前はあの娘の魂の器を探してここへ持って来い」

 分かったと頷き、俺は階段を下りようとしたが、考えてみれば何を探せば良いんだか分からない。

「魂の器って……例えば何だ?」

「何でもありだが、多くは人を模したものだ」

「つまり……」

「人形。もしくは……そう、石や宝石。あと物々しい箱なんかもだ」

 やっぱり何でもありじゃないか。俺は息を整えながら一階へと下りた。

 さて、何から手出しするか。一階唯一の個室であるあのドアには、正直手を出したくない。花車さんの二の舞になりそうだからだ。

 なら、リビングだ。ここなら厳爺も見下ろせる範囲だし、孤立することもない。

 改めて見ると、テーブル、ソファー、調度品、何から何まで高そうな品ばかりだ。きっと金持ちなんだろうな。と、思いながら捜索してみる。

 真っ先に目につくのは、調度品の置物。盆栽のような木の形のブロンズ像と、骨董品の皿。手に触れてみるが、特に変わった点はない。とは言え、俺の判断基準で正否を判定すべきではないだろうが。

 ソファーの下を覗き込んだりもしたが、目ぼしい物はない。しばらくそうやって辺りをうろついていたが、やがてそれも無駄だと気づいた。

 そうだ。魂の器がどんなものか知らないが、それは少なくとも二十個以上あるのだ。どこか、まとめて管理する数量。それに、行き来の激しいリビングにそんな大切なものを置くだろうか。

 結論は、どこかの部屋に保管されている。

 あまり行きたくはなかったが、仕方がない。部屋は全部で四つ。そのうち二階の一室は花車さんのいる所だから、実質は三つだ。二階は花車さんのこともあって危険な気がするから、まずは一階のからか。

 ドアの前に立ち、ゆっくりと呼吸を整える。キッチンの包丁で武装しようかとも思ったが、厳爺の言う念力の前では逆にこっちが刺し突かれかねない。ドアにつっかえ棒をしても外されてしまうだろう。

 ようするに、確実なものは何もない。行き当たりばったりだ。意を決して俺はドアを押し開けた。

「うわ……!」

 目に飛び込んできたのは、人形。書斎風となった部屋の机に、棚に置かれた大量の人形だ。どうやら、一発で当たりを引いたみたいだ。

 用心深く歩きながら、部屋に入る。急にドアが閉まるんじゃないか。背にプレッシャーを感じながら、机に近づく。机には二つの人形と、幾つかの本とノート。完全にホラーの世界だ。

 俺を囲むように配置された、数々の人形達。手芸で作られたような布製の、手より少し大きいくらいの代物だ。精巧とは言えないものの、同じものは一つもない。服も、顔も髪型も、人をそのまま人形にしたかのように個性がある。

 そうして観察していると、俺はあることに気づいた。それは人形の左胸に名札が縫い付けられていることだ。試しに俺は、机の上にあった人形を一つの名札を読もうとした。

「……ん」

 それは名札自体小さく、文字も小さい。裁縫のせいか、小文字の『e』が丸に横線を引いたようになってたりと、とても読みづらい。

「……マリオネット・リョウジ?」

 リョウジ。ファンシーとは言えない、日本的な名前。

 それは十二分に、これがリョウジという男の魂が入った器であることを確信させた。

「………」

 落ち着け、落ち着け、と俺は何度も深呼吸を繰り返した。別に俺が人形にされる訳じゃあない。問題はこの中に女の人形が、長岡夏鈴の魂が入ったものがあるかだ。

 俺は全ての人形を見てみたが、あるのは全て男のもの。長岡夏鈴のものらしき人形はなかった。

 他に手掛かりはないか。魂入りの人形なんて触る勇気もないので、俺は本のタイトルをチェックした。机に置かれたものは洋書で読めなかったが、棚にあるのは全て日本語の、それも多くが医学書だ。治療薬マニュアル、内科学書、自己認識のメカニズム……ひょっとしたら、この別荘の持ち主、主犯は医業に携わる者なのかもしれない。

 他に目についたのは伝奇、そして人形に関する書物だ。人形の作り方、というのもある。これらの人形は手作りなのか。

 じゃあノートだ。ペンの下に置かれたノートを手にし、パラパラとめくってみる。書かれている雑記は外国語や記号、一見しても良く分からない走り書きばかりで使えない。ノートをチェックしながら、日記はないかと探したが、そんな都合の良いものもなかった。

 ただ、ノートに良く書かれた単語、これだけが嫌に印象に残った。それがアンナ、そしてEVE。この二つはセットで書かれていることが多く、アンナの方はANNAと英語で書かれたりもする。恐らく、この二人が事件の中心。人の魂を人形に入れるという狂気の発端だ。

 この事件の根は深そうだ。しかし、まずは夏鈴の魂だ。俺はこの部屋を後にしようと出口へ首を向けた。

 ドアには、見知らぬ男が立っていた。チェック柄のシャツにジーンズと身なりは良いが、刃物を持っている。

「……ぅおっ!?」

 俺の声を切っ掛けに、男は無言で俺に襲いかかった。大ぶりのナイフを腰だめに構え、突っ込んでくる。

 俺は手にしたノートを男の顔面へと投げつけ、さらに机のものを端から手に掛け、ばら撒くように放る。

 この反撃に男は思わず静止する。そのままナイフを奪おうと思ったが、牽制するように男はナイフを振る。出鼻を挫かれた男と、手出しできなかった俺、睨み合ってじりじりと相手の様子を伺う。

 参った。殴り合いなら経験があるが、それは喧嘩だ。昔の俺にとって刃物は、脅しの道具。こちらが逆に行けば、脅そうとした奴は刃物の先を明後日の方へと逸らす。鈍器の方が使う側に抵抗が少ないから、むしろそっちの方が危険だとさえ考えていた。

 だが、相手が殺す気であるのなら考えは真逆のものとなる。突きつけられた刃物は、それ以上進めないという意味。崖の淵に立たされたような気分だ。

 その断崖絶壁は、ゆっくりと迫ってきた。肩で息をし、目を大きく見開きながら、男は俺に近づいてくる。

 どうする、どうすればいい。考えようにも窓から差し込む日の光に煌めくナイフから目が離せず、思考が停止する。殺しのプロという訳ではない男の、噴出される等身大の殺意に当てられ身動きできずにいる。だが、このままでは死ぬ。死ぬ。どうする、どうすればいい。

 背中にドンと何かがぶつかる。飛び上がって振り返れば、ただの窓だ。知らず知らずのうちにここまで引いていた。だが、もう後はない。

 息が詰まる。もうすぐだ、もう目の前。こうならば、戦うしかない。しかし、どうやって……。

「貴様、何をしている?」

 その時だ。低く、それでいて耳に響く声がした。男はゆっくりと振り返るのを確認してから、出入口を見る。そこにいたのは厳爺だ。牙をむき出しにして、唸っている。

「……犬?」

「誠治よ、窓だ」

 そう言って身を強張らせたその直後、厳爺の体が膨らんだ。そして膨らんだかと思うと、厳爺は口を開け天を仰いだ。

 厳爺の口から、轟音が弾ける。雷鳴のような吠え声だ。音が体にぶつかっているのが分かる。

 男は怯み、尻餅を着いた。俺はその隙に窓を開け、上半身を突っ込んでそのままごろりと外へと落ちた。

 ここは玄関のちょうど裏側、あの忌まわしい倉庫の前だ。俺はすぐに立ち上がり、玄関へと走る。人間相手に滅多なことはないとは思うが、厳爺は戦闘に特化した奴じゃあない。万が一、ということもありえる。

 走りながら、室内の怒声を耳にする。この声、長岡だ。まさか、車から出たのか。

 玄関から別荘へ駆け込む。正面の開いたドアには誰もいない。どこに行ったと横をむいたら、厳爺と長岡がキッチンの方にいるのが見えた。俺が駆け寄ると、厳爺がこちらに気づき。

「おう、無事だったか」

「ああ、助かったよ……さっきの奴は?」

「ここに逃げた」

 長岡はそう言って、下を指さす。見るとキッチンの前のマットが隅へ捨てられ、床には正方形の穴がポッカリと開いていた。

「大きな音がしたからよ。俺が来てみたら、すぐにここに逃げ込みやがった」

「こんな所があったのか……」

 その場にしゃがみ込み、穴を覗き込む。数メートルの梯子の下からは奥へと道ができており、ここからじゃあ地下の全体は分からない。

「……厳爺、花車さんは?」

「まだ閉じ込められたままだ。物音一つせん」

「分かった。……厳爺は花車さんを頼む、あの人がこっちの切り札だ」

 照明はありそうだが、向こうにスイッチを切られても大丈夫なようにライトが必要か。俺は立ち上がり、車に戻る。厳爺はそんな俺に声を掛けた。

「降りる気か?」

「まだ彼女の人形が見つかってない。まだ人形にして間もないだろうから、手元に置いてあると思うんだ」

 俺はそう答えると別荘から出て、駆け足で車へと向かった。後ろに積んであったバックからライトを取り出していると。

「俺の分も頼む」

 そう言って、長岡は俺の肩を掴んだ。

「良くは分からんが、今のままじゃあ娘は助からないんだろ?」

「……依頼者を危険に晒す訳にはいかないんですけどね」

「なら依頼は破棄だ」

 上等。俺は頷き、ライトを手渡した。




 花車さんは厳爺に任せ、俺と長岡は地下へ降りていく。

 念動相手だから刃物は使うなという厳爺の助言により、片手にライト、もう片手はリビングにあったブロンズ像で武装する。長岡の手にはガラス製の灰皿が握られていた。サスペンス劇場でもやる気だろうか、俺達は。

 薄暗く微かに傾斜となった、下にブルーシートを敷かれた道を進む。数メートル先の突き当りの角からは、鉄骨の階段。

 階段を下りると、そこからは空間が広がっていた。上の吹き抜けのリビングほどの、大きな部屋。少量の照明に照らされたその部屋いっぱいに、赤いバラが敷き詰められている。

 あまりの光景に息を飲みながら、俺達は階段を下りきった。そこで俺は気づく。この幻像的なバラは全て造花であり、そして向こうに人影があることに。

 素早くライトで照らす。照らし出されたのは大きな椅子に腰かけられた、人の等身大ほどある、豪奢なドレスに身を包んだ女の人形。そしてその隣に召使いのように立つ、先ほどの男。

 令嬢のように静かに下を向いた、同じ布製だが上のものとは明らかに一線を越えた気配のする人形。この暗がりだと、朽ちた死体のようにも見える。直観だが、分かる。こいつがEVEだ。

「……ここは、私の箱庭だ」

 僅かに聞こえる空調の音の中、ぞっとするほど低い声が囁かれる。

「肉を持つ者は、去れ」

 これは、あの人形の言葉なのだろうか。俺は首を横に振った。

「帰ってほしけりゃ、長岡夏鈴を返せ。この男と一緒に、家に帰せ……!」

 そう言って、俺はバラ園に足を踏み入れた。

 その途端、EVEのうな垂れた頭が起き上がりこちらを見る。バラが俺を拒絶するようにザァっと揺れた。

「長岡夏鈴……あの娘か?」

 小さな声だが部屋全体から発声されているような、その耳障りな声でEVEは言った。

「あれはもう私の家族。この箱庭の住人だ」

 私のものだ。その声と同時に、部屋全体のバラがざわざわと揺れる。よく見れば所々に、女の人形がバラ園の中にちょこんと座っているのが見える。じゃあ、この中に長岡夏鈴のものもあるのか。

「私のものだ。私の家族だ……!」

「……父親の前でふざけたこと言ってんじゃねー」

 俺の横を通り過ぎ、肩を怒らせながら長岡が呻いた。

「娘は返してもらうぞ。化け物め」

「私のものだ……! 私のものだ……!」

 バラのざわめきが強まる。まったく、俺だって戦うはあるが、果たしてこんな怪物に勝てるのだろうか。

「偽物が、ずいぶんとほざくわね」

 二人が言い合う中、鼻で笑ったような声をあげながら、花車さんが階段をこつこつと下りてきた。

「……よ、良かった。無事でしたか」

「いっぱいいっぱい、って顔ね。あいつがこっちに矛先を向けたお蔭で、部屋の力が弱まったのよ」

 EVEは花車に気づき、声をあげた。

「お前……殺したはずだ」

「見えもしないまま部屋のものをひっくり返したくらいで、よく人を殺せた気でいるわね」

 花車さんは、呆れたように肩をすくめた。

「だからちょっと動かないでいれば、簡単に死んだものと思う。騙される」

 それに。そう言って、花車さんはニヤリと笑って言葉を区切り。

「今度はあんたが殺される番よ」

 その言葉を皮切りに、突如上から火が階段を駆け下りるように溢れ落ちた。

 上から下へ、炎はあり得ない動きで荒々しく燃え広がり、花車さんの背中から俺達を避けるように左右に伸びていく。

「……さっき、人形に閉じ込められた者の肉体を焼いてきた。一階の人形は全てこの火で焼いた」

 炎を背に、花車さんは楽しげに言った。

「お前の家族ごっこに命を弄ばれた鬼火が、己が魂を取り戻しに来たぞ」

 炎は広がる。造花、偽物のバラが燃え上がり、人形が焼かれる。EVEは甲高い悲鳴を上げた。

「やめろ! やめろ!」

「もう私でも止められない」

 堪らなく愉快。と言ったように、花車さんは肩を震わせながら首を振った。

「これはもう、私の炎じゃあないからね。次はお前が彼らに弄ばれる番だっ!」

「やめろおぉぉぉぉっ!」

 EVEの脇に控えていた男が絶叫し、花車さんに突っ込む。その手には先ほどのナイフが握られていた。

「花車さんっ!」

 俺の声に、心配するなとでも言うように手をひらひらと振った。

 男のナイフを、花車さんは寸でのところで身を翻し、ナイフを持つ男の腕を両手で掴む。

「お前も焼かれろ……!」

 花車さんがそう言うと、彼女の両腕から青い火が噴きだし、男の腕に燃え移る。男は悲鳴を上げてもがいたが、花車さんは腕を離さない。

 将美さんに聞いたことがある。火車の炎は命だけを焼く炎、だから花車さんの炎には決して触るなと。

 男はみるみるうちに全身を焼かれ、すぐに形を保たなくなる。そして服だけがふわりと宙に舞った。周りのバラにも、青い火は燃え移らない。その中で平然と笑みを浮かべる花車さんは、美しくも確かに妖の者。怪物に見えた。

 それを確認した長岡は、EVEへ一直線に駆け出した。

「娘を返せぇっ!」

 長岡はそう叫び、EVEを殴りつける。EVEは椅子ごとひっくり返った。俺は呆気にとられてしまったが、すぐにそちらに駆けつける。

「娘はどこだっ!? どこへやった!?」

 倒れたEVEに長岡は叫んでいたが、EVEの座っていた椅子がふわりと浮き、長岡へと飛んだ。足元のEVEを見ていた長岡はそれに気づかず、横合いからの攻撃を頭に食らい倒れた。

 EVEはケタケタと笑い、不自然な挙動で身を起こす。EVEも呻く長岡にしか目がない。チャンスだ。

「死ね! 死ねぇ!! お前はもう誰も必要としないっ!」

「死ぬのはてめえだぁっ!」

 俺はそう叫び、転がっていた椅子をEVEに投げつける。椅子はEVEの胴体を巻き込み、そのまま炎へと入った。

 EVEの絶叫が、部屋いっぱいに響き渡る。

 俺は長岡の腕を肩に回し、立たせる。後はこの男の娘だ。

 辺りを見渡すと、不自然に火が回っていない所を見つけた。そしてそこに、まだ火に焼かれていない人形がある。

 あれだ。俺が近づこうとする前に、花車さんはそれを拾ってくれた。そしてこちらへと微笑みかける。

「さ、出ましょうか」

 見れば、出口の炎はもうなくなっていた。

 長岡の傷は思ったより深く、こめかみの辺りが痛々しく裂けていたが、意識はしっかりとしていた。

 長岡を支えながら、俺達は何とか屋外へと脱出する。外はもう夕暮れ時であった。外で待っていた厳爺が、俺達に駆け寄る。

 夏の湿気た空気が、これほど美味く感じたのは初めてだ。咳き込み、息を吸い、また咳き込む。肺に溜まった煙を外に吐き出し、新鮮な酸素を取り入れる。

「急いで逃げるわよ」

 急かすように大声をあげ、花車さんは言った。

「取り締まりに付き合う気はない」

 見れば開いた玄関から、煙がもうもうと吹き出ている。俺と花車さんは長岡を車の後部座席に寝かし、エンジンを着けた。私が運転すると運転席に座ったので、俺は補助席に乗り込む。

「見ろ!」

 車外で別荘を見ていた厳爺が叫ぶ。

 別荘はバキバキと音を立てながら崩壊していき、やがて下へ下へと飲み込まれていく。あの広大な地下へすっぽりと建物が落ちていく。

 血のような夕焼けの中での聞く光景、そして壊れゆくその音は、あの人形の断末魔に似ていた気がした。




「ねぇ、今回の仕事、釈然としない結末だと思わない?」

 正午。そろそろ出かけようと車のキーを手にした矢先、将美さんが俺に聞いてきた。テーブルに頬杖をつき、雑誌の裏にボールペンで本人にしか分からないような文字で何かを書いている。

「……まぁ、分からないことも多過ぎますし、表向きにはただの火事で終わってしまいましたしね」

「それにあいつ……」

 グリグリと子供のように何かを書き殴りながら、将美さんは不満をたらす。

「協力の報酬はいらないって言ってきたのよ。なんか良い物を手に入れたし、とか言ってたけど……心当たりある?」

「……良い物?」

 花車さんとは別行動が多かったから、何か持ち帰っても分からなかっただろう。しかし、あの別荘で盗めるような物はあっただろうか。調度品に高価な物でもあったのだろうか。

「……ま、今日の飲み会で口を割らせてやるか」

「そう上手くいくか?」

 窓際で日向ぼっこをした厳爺が、口を挿んだ。

「奴は酒の席で女王だったのだろう? 酒の飲めぬお前が、どうとできる相手では思えんが……」

 何とかするわよ。口を尖らせて将美さんはそう嘯き、ペンの先をコンコンと叩きながら俺に聞いてきた。

「それと……死んだ別荘の持ち主、身元が分かったわよ」

「あの男ですか?」

 ええ。と将美さんは頷き、何を見る訳でもなく将美さんはペラペラと話し出した。

「篠原穀、四十二歳。内科医だったらしいんだけど、七年前に辞めてる。旅行先で出会ったアンナ・エッテノイラムって言うイギリス人を連れて帰国、その数年後に医師を辞めてあの別荘を買い、隠遁生活を送ってたみたいね。彼を知ってる人は、今回の火事はやっぱり変な連中との付き合いの結果なんじゃないかって思ってるらしいわ」

「アンナって、彼の奥さんだったんですか?」

 別荘にあった医学書から医療関係者であることは読めていたが、アンナもEVEと同じ、人形だと思っていた。

「……実際のところは、どうだったか分からないけどね」

「えっと、子供とかは……」

「連絡を取っていた友人には、イヴって子が産まれたと報告していたらしいわよ」

「え……?」

 あれがあの男の子供だと言うのか。いや、そんなはずはない。あれは確かに人形だった。

「……死んだ子の代わりとか、でしょうか?」

「いえ、それどころか住民登録では、彼は独身よ」

「そんな……じゃあ、アンナは?」

 話は変わるけど。と、有無を言わせない鋭い目つきで将美さんは俺に言った。

「例の人形が保管されていた部屋に、鏡はあった?」

「……いえ」

「じゃあ、EVEに名札はあった? 他の人形みたいに」

 ……どうだろう。状況が状況だったから細かく見てはいないし、そんな覚えもない。

 分からないと首を振ると、将美さんは真剣な表情で黙り込んでしまった。

「……EVEだけが、意識があって動いていたのよね?」

「あ、はい。そうでした」

「きっとその名札に縫い付けられた名前も、左右対称だったんでしょうね?」

「はぁ……え?」

 左右対称なんて話、今までで出てきただろうか。俺が首を傾げていると。

「ほら、こんな風に書かれていたんでしょ?」

 将美さんはそう言って、チラシの裏を見せる。書かれたMarionetteの文字、それはあの時に見たあの何とか読める程度の下手な文字とそっくりだった。

「確かに似てますけど、別に左右対称じゃあ……」

「文章がじゃなくて、一文字一文字が左右対称なの」

「あ……」

 確かにそうだ。大文字の『M』や『i』はもちろんのこと、左右が繋がっていない丸の中央に線を入れたような小文字の『e』も、言われてみれば左右対称だ。

「……きっと、アンナとその娘、二人が魂を持って動けたのは、鏡を見てそれが自分だと認識できたからでしょうね」

「それって、どういう意味ですか?」

「………」

 将美さんは何も言わず、チラシの裏にこう書いた。

 Marionette・Anna

 annA・ettenoiraM

 俺はそれを見た途端、寒気がした。じゃあ、EVEもつまり……。

「……人と人形が恋をし、人形が人形を産む……なんて、鬼を倒したこの私でも信じられないけどね」

 そう茶化す将美さんの目は、まるで笑っていなかった。

 俺は何も言わずにチラシを手に取り、それをくしゃくしゃと丸めた。

「もう終わったんですよ」

 自分に言い聞かせる為にも俺は声に出してそう言いつけ、丸めた紙をゴミ箱に放り捨てた。

「EVEもあの男も、もう炎に巻かれて死にましたから」

「……そうね」

 将美さんはそう呟き、ペンの先を引っ込めた。

「じゃあ、仕上げもしときなさい。和尚は昨日のうちに仕事を済ませたみたいだから、そろそろでしょ?」

 貴方が引き留めたんですけどね。口にも出さないが、俺は肩をすくめて玄関に向かう。

「あ、帰りにスーパー寄りますけど、今日は飯はいらないんですよね?」

「ええ。最悪、迎えも頼むかも」

 勘弁してください。俺はそう言って笑い、靴の紐を結んだ。

「じゃあ、行ってきます」

 いってらっしゃい。気怠そうな声が、扉を開ける俺の背に掛けられた。




 あれから六日。二十人余りの人間を自分と同じ人形に変え、家族にしてしまうという狂気じみた事件。その全ては表に明かされず、ただの火災事故として片づけられた。

 物置小屋にあった死体の山も、骨すら見つからなかったと聞いている。あの炎は加害者も被害者も全てを焼き尽くし、闇に葬ってしまった。

 あの炎は一体何だったのか。俺は昨日、事後処理の合間に花車さんに聞いてみた。

「あれは鬼火、人の念そのものが燃えていたのよ」

「念ですか。でも、魂は人形の方にあったんじゃあ……」

「そう。だから歪な炎は自分の魂を取り戻し、自分をこんなにした連中を焼き殺すだろうって……ふふ」

 花車さんはここで言葉を切り、おかしそうに笑った。

「そう思っていたんだけどね。死んだ連中、相当人が良かったみたいね」

 彼女はそれから何も語りはしなかったが、ここからは俺でも分かる。俺は長岡、そしてその娘の夏鈴が入院している市の病院に訪れた。

「わざわざ見舞いに来なくったって、誰にも語りはしないよ」

 長岡は俺の来訪に苦笑して、そう言った。リハビリで院内の散歩に付き合い、俺は彼を補助しながら先を行く。

「だと助かります。怪我の具合はどうなんですか?」

「傷跡は残りそうだけど、もう一週間も立たず退院できるってよ」

 長岡は、小さなガーゼを当てられただけとなった傷口をそっと撫でた。

「頭だから精密検査なりで、結構長引いたくらいだ」

「それは良かった」

 俺が頷く。夏の力強い日差しの入る、だがクーラーのお蔭で涼しい白い廊下。怪我人と歩くせいか、目的地まで嫌に長い。

 快活に喋っていた長岡だが、やがて深刻そうな面持ちで黙り込み。

「娘は、まだ意識を取り戻してはいないんだってな……」

「………」

「医者も、原因が分からないって言ってたよ」

 この男も変わった。ぶん殴ってやろうとも思ったあの男が、随分とマシになったものだ。強面も、しょぼくれて見える。

 しかし俺はもう、その小さな声に隠れた、父親として感情を見逃さない。いや、隠す必要もないだけか。

「アレが何をしたかは知らないけど、あんた達もプロなんだろ? どうにかしてやれねぇか? 金なら何とか……」

「ここですね」

 俺は長岡の言葉を遮り、立ち止まる。

 ここは長岡夏鈴の個室。長岡は今まで気づかなかったように、声を上げる。

「夏鈴……?」

「結構苦労したんですよ? 専門の人呼んだりして、しかも処法も手探りなんだから」

「夏鈴……!?」

 俺は笑顔を向けて説明するが、長岡の耳には届いていないようだ。

「夏鈴……帰ってきてくれたのか?」

 長岡は、震える手でゆっくりと扉を開けた。

 説明する必要はないようだ。俺は長岡に一礼して、ここを後にする。

 そう、これが結末。俺や将美さん達、そして炎として蘇った者達が望んだもの。

 それはささやかな、父と娘のハッピーエンドだ。

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