第一部 四話「化け狸」
第四話『化け狸』
急に雲行きが悪くなり、風に運ばれるようにして降り始めたにわか雨。駅前のコンビニで買った傘の出費は、最近仕事を辞めた私には痛い。
ムラマサの住むマンションは駅から歩いて十分ほど。この雨では、家に着く頃には足元はグチャグチャだ。私はげんなりしながら、それでも足は止めることなく道を進む。
ムラマサ達が例の妖怪達とどこで戦っているかは聞いていないが、この雨だと苦労しているだろう。苦労するのは、精々この雨の中であくせくと戦わなければならないということだけだ。私はさほど、この戦いに心配は感じていない。
邪視は呪いの分野では中々に希少で、且つ即効性の強いものが多い。しかしムラマサは呪いの類には強い耐性を持っているし、如月に至ってはそんなものに遅れを取るようでは、彼の千年はとうに潰えている。
そんな事を考えているうちに、ムラマサのマンションへと着いてしまった。
入って階段を登っていると、数枚の濡れた葉っぱが段の中央にちらほらと落ちている事に私は気づいた。何の葉かは分からないが、枯れ葉ではなく、まだ青々とした葉である事に不信感を抱き足が止まる。
周りを見回しても、それらしい木はない。花束などから偶然落ちたとしては、うっかり踏んでしまいそうなこの配置に作為的なものを感じる。
そうだ、確か天狗や山神の中に、こんな罠を使う連中がいたか。だとすればこれはムラマサの隣に住む、将美のところの狗賓の仕業だろう。
私はその葉を踏まぬよう注意しながら階段を上がる。しかし、これがあの犬の仕業だとすれば、彼女も今回の件に関わっているのだろうか。
ならば一応、その隣の将美にも声を掛けておくべきか。少しばかり、私はムラマサ宅の玄関の前で迷っていたが、迷ったままインターホンを押してしまう。
「はいはい……遅いじゃない花車、人の家の前で何してたのよ」
そう言って玄関を開けたのは清ではなく、隣人の将美だった。
「……何でいるのよ?」
「如月に電話されてね。それに、こういうのはお隣に頼んだ方が早いでしょ」
つまり、ムラマサが私に清の世話を頼んだ一方で、如月も将美に清のことを頼んでいたのか。
「清は?」
「だいぶマシになったみたい。向こうで何かしたんじゃない? 別に誰かがここへ来る気配もないし、大した連中じゃあないんでしょ」
私は溜息をつき、うな垂れた。つまり、私が来る必要はなかった訳だ。とんだ徒労だ。どうしてあの二人はこうも連携が取れていないのだろう。集団行動や情報共有という考えが、あの二人にはまるでないのだ。
「とにかく上がったら? それと、あの葉っぱだけが罠だと思わないように」
将美が含みのある笑みを浮かべ、私に言う。気づかなかったな、ざまぁみろ。とでも言いたいのだろう。ハッタリか本当かは知らないが、本当に良い性格だ、この女は。
そうね。私は将美に噛みつくように詰め寄り。
「あんたに任せるのも癪だしね」
私はそう言って彼女の横を通り過ぎ、靴を脱いだ。
清はいつもより元気がなかったが、別に命に関わるような様子でもなさそうだった。
「あー……ハナ、いらっしゃい。ごめんね、こんな時間に」
「暇だし良いって」
「今や職なしだしね」
「ぶっ飛ばすぞ将美」
将美はソファーでくつろぎながら、クスクスと笑う。清はそんな私達のやり取りを見て、肩をすくめる。
しかし、こうして清の食べようとしている炒飯に横槍を入れる子供じみた将美を見ると、大した女が何の気構えもなく目の前にいるものだと思う。
ここ数世紀で唯一、如月童子を負かした人間。
若干十八歳、何の力も持たない少女がその異名を勝ち取ってから十年経つ。鬼殺し。将美はそのビックネームを傘に、これまでこの妖怪社会を生き残ってきた。
いや、一人ではないか。彼女の周りには仲間が、損得もなしに彼女に味方となる数人の仲間がいた。その数人と共に鬼を打ち破って、そして鬼の仲間である妖刀、そう、ムラマサの隣人としてあの鬼に守られている。
あの鬼とどんな交渉をしたかは知らないが、今や二人は裏で緩やかな協力関係を持つ仲となっている。恐らく如月も、彼女の実力を相当買っているのだろう。でなければ人妖共生の大黒柱であるあの鬼が、自分に黒星を付けたこの女を見逃しておくはずがない。その証拠に如月は今、喧嘩を吹っかけてきた三下さえ見過ごすことなく潰しに行っている。
「ところでさ、ハナは次の仕事どうするの?」
清は炒飯を頬張りながら、私に聞いた。
「ちょっとやってみたい仕事があってね、今はその勉強中」
「やってみたい仕事って?」
「まだ内緒」
えー。と清は不満気に口を尖らす。その顔に、私は笑みをこぼした。
そういえば。考えてみればこの清も単身、この世界に足を踏み入れた妖怪だったか。
清は上京しようとまともに資金も持たず愛媛から出て、この町を通ったそうだ。そしてムラマサと出会ったのが一年前、あの人食い事件の只中だった。
妖怪による人食いなど人里離れた所では日常茶飯事だが、その妖怪達が町に来て人を食い散らかしたのがこの事件の始まりであった。結果は関わった妖怪全ての粛清という、ここ数年で一番記憶に残る凄惨な事件。
しかし、それに巻き込まれた清はそれでもムラマサのそばを選んだ。将美のような才は感じられないが、それでも中々の肝を持っているようだ。それとも、無鉄砲なだけだろうか。
そして……あのムラマサに恋人ができるとは、彼と長い付き合いである私には何とも複雑な気持ちではある。
複雑ではあるが、別に取られた、何て気分でもない。寧ろその逆、何もなかったあの男もここまできたかという驚きと、親心にも似た感情だ。
「……結局、私は何の役にも立てなかった訳」
ほとんど聞いてはないなかったが、清は今回の一件を自分の目線から話し、そう結論付けた。
清は時折、私達に自分が如何に無力か、ムラマサに守られてばかりかを口にする。今日は自分がこんなことになっているから、その荒れようはいつも以上だ。
「空回りしてんだよねぇ……走ったり、努力はしてるつもりなんだけど。つもりで終わってんのかな?」
こういう時、清は普段とは打って変わってネガティブの化身となる。これで素面なのか。と、隣で将美が小さな声で呟いた。
「今回だって、私が変に突っかかったからこうなったんだし。こんなんじゃケン君の隣に立つ前に死んじゃうよ」
「あの男とはタイプが違うんだから」
将美は肩をすくめ、諭すように言った。
「何も隣にいなければ役に立たない、なんて事はないんだから。刀は刀の、化け狸には化け狸の戦い方があるのよ」
「私じゃあ、ケン君にはついて行けないってこと?」
「殺し合いではね。あんな古強者と一緒にいるってだけで危険なのよ。それは今回、身に染みて分かったでしょう?」
「でも、長さんは如月さんに喧嘩で勝ったんでしょ?」
それは……。と、将美は口篭もり、視線こそ動かさなかったが私のことを一瞬意識したようだった。
思わず口元がニヤつく。彼女がどうやって如月童子から勝ったのかは、雑多な噂ばかりで、真実は誰一人語ろうとはしない。私も真実を知るムラマサから聞き出そうとしたが、口を割ろうとはしなかった。
昔ながらの鬼が策謀に弱いのは多くの者が知るところだが、あの如月童子を討つほどの秘策だ。誰にも教えない限り、彼女のオンリーワンは守られる。如月童子打倒の伝説、そのヴェールこそが将美の生命線なのだ。
「まぁ、私のことは置いておいて……」
そう逃げた将美は、私を顎で軽く指す。
「恋愛のテクニックなら、こいつが一番でしょ。元ナンバーワンキャバ嬢なんて、そうそうお近づきになれないわよ?」
「うっせえ三十路」
「まだ二十代よ。そもそもあんたみたいな三百路超えの化物が、人の年齢を語んな」
確かに。歳をどうこう言うには、私は長く生き過ぎている。しかし、ただ歳ばかりを食ったところで賢くなれる訳ではない。精々、賢く見えるだけだ。百年前の私が今の私を見れば、その成長のなさに悲鳴さえ上げかねない。
「お師匠様、どうかお知恵を」
清はそう言って立ち上がり、私にすがりついてきた。
「そう言われてもね……」
頭を掻きながら、私は壁に掛けられた時計を見る。まだ三時を少し過ぎたばかり。あの馬鹿どもが帰ってくるのがいつ頃かは知らないが、それまではこんな調子が続くのか。まったく、酒の一杯でも飲みたくなってきた。
「……まだ彼らに警備させているの?」
清が三度目の腹痛の間に、私は長に聞いた。
「いい加減、警戒するのもアホらしくなってこない?」
「終わるまでは徹底する。それが負けないコツよ」
「ふぅん……」
それにしても。と、私はあくびを噛み殺しながら将美に言う。
「さっき言ってたの、本当にやるの? こんなの、試すまでもないじゃない」
「さあ、どうかしらね。ま、私ら飲むだけだし、良いじゃない」
それが問題なのだ。この女といい清といい、酒との相性が馬鹿のように悪いのだ。酒に潰れた二人の世話を押しつけられるこちらの身にもなってほしい。
「ならせめて、毒島君も連れて行きなさいよ」
「女三人の中に部下の男を連れていける? ……あ、そうそう」
話は変わるけど。と、将美は私にこう言った。
「今度ちょっと仕事付き合ってくれない? 分け前はちゃんと出すから」
「仕事?」
彼女は今、敬遠されたり、相手にされないようなオカルト染みた事件を専門とする探偵業をやっている。
しかし他人任せを嫌う将美が、この私に何かを頼むとは珍しい。大方、人を紹介してほしいとか、そんなところだろう。そうでなければ、きっと火車の私にしか頼めない、死臭漂う仕事か。
「そう、仕事。それも、清との前に」
「……ムラマサとかじゃ駄目なの?」
「貴方じゃなければね、意味がないのよ」
「……なら、問題次第ね」
「じゃあ、必要になったら連絡する」
「今話さないの?」
「それこそ無意味よ」
そんなことを話していると、将美のバックから着信音らしき音が鳴った。将美はケータイを取り出し、確認する。
「ムラマサから?」
「残念、その鬼上司から」
覗き込もうとすると、将美は手を突きだし頭を押さえてきた。将美は二回、誰かへとメールを送り、ケータイをバックにしまう。
「向こうは終わったみたいね。清の腹痛もほっとけば治るそうよ」
「そう……相手はどうなったって?」
「五体満足な状態にはしてやったそうよ」
殺しはしなかったか。てっきろ私は、今後こんな真似をする者が現れぬよう、徹底した対処をするだろうと思っていたのだが。
「……え? 終わったの?」
清が用事を済ませ、こちらに戻ってきた。
「ええ。呪いも直に解けるって。んじゃあ、もう解散としますか」
流石に眠いわ。と将美は玄関に向かい。
「花車はさっきの話、忘れないようにね」
「はいはい、暇にしておきますよっと」
「それじゃあ。清、何かあったらすぐ駆け込みなさい?」
「うん。ありがとう」
将美は頷き、自宅である隣の部屋へと消えていった。
「……ハナ、さっきの話って」
「ん? ああ、気にしなくて良いって」
「また仲間外れっすか?」
清はそう言って、拗ねたように唸る。コメディ風に茶化したものだが、内心、かなり気にしていることは分かっている。
「そうじゃなくて、ムラマサや如月さんに知られたくないからよ」
「私が喋らないって言っても?」
「私だけで事足りるのに、清を巻き込む必要はない。そう考えるのが将美でしょ?」
私は違うけれどね。私は心の中だけで、そう付けたし。
「清が必要なら、私には何も言わずにいたと思うよ」
「……うわぁ、頼られる人になろう、私」
「必要とされてるって」
少なくとも、あのムラマサには。いや、確実に。
清達と別れ、一人家路に着く。雨はすでに上がっていた。
こうして蒸し暑い夜道を手放しで歩けば、勝手に昔の事が記憶の底から湧き上がってくる。あの日もこんな夜だったか、あの日はどうだったか……と。
そうして最後に思い出すのは、決まって最悪の思い出。
過去とは亡霊だ、そう私は考えている。思い出してもどうしようもない。省みてもしかたがない。そう分かっていても、不意に私を苦しめる。その過去が悔恨の糸口であっても、失ったものは還ってこないのだ。
ただのムラマサ、幕末の時にそう名乗っていた彼は、復讐に囚われていた。記憶を失っても尚も恨み、なぜかも誰かも知らないまま幕府相手に刀を振るう。傍から見れば狂気そのものだが、私にはそれが酷く哀れに見えた。
私と彼の仲は……多くを語る必要はないだろう。今と変わらない。腐れ縁、それ以外の何物でもない。
ムラマサは今、如月という友に出会い、清という女に出会い、この町でしっかりと生きている。あの当時を知る私だから分かる。ムラマサにはあの清が必要なのだ。死なせる訳にはいかない。それに彼女に、私も少なからず惹かれている。
……我ながら、奇妙な間柄を持ったものだ。私は苦笑し、また傘を清の所に忘れてしまった事を後悔しつつ、いつものように暗い夜道を歩いた。
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