第一部 一話「垢舐め」

第一部 一話『垢舐め』




 夏。空に伸びる堂々とした入道雲は、見ていて気持ちが良い。

 ただ、暑い。雨上がりで外はサウナと化している。それに今日は日曜で、バイトも入っていないし、同居人の遠山清も不在だ。だからクーラーをつけて多少だらけていても、誰も文句は言えまい。

 そんな結論から、俺は昼間っからゲームに勤しんでいた。

 夕暮れ時、床に置いていたケータイがバイブ音と共に震える。電話だ。

 清からかと、ちゃんと表示された名前を見ずに俺は電話を取った。

 表示された名前を見なかった、表示された名前を見なかった。そう、それがいけなかった。

「おう、俺だ。今空いてるか? 空いてるよな」

 そう、本当に相手が悪かった。

 数分の通話後、俺は渋々と居間を片付け。そしてお茶をとヤカンに火を掛けた時、玄関のチャイムが鳴った。本人が指定した時間より、だいぶ早い来訪だ。時間も守らぬ奴に出す茶はないか。俺はコンロの火を消してから、玄関に向かう。

 それにしても、こんな猛暑にことをやらかす奴だ。また面倒なのに決まっている。力なくドアを開けると、先ほど電話した如月さんが上着を肩に担ぎ立っていた。この暑さでも、この男はスーツ姿だ。その手の服に縁のない俺には、見ているだけで暑苦しい。

「すまん、暑いから早くきた」

「いや、分かるけどさ。大人は時間守れよ、大人は」

「妖怪に大人も糞もねぇよ」

「あるだろ……じゃあその、暑苦しい格好をどうにかしてくれよ」

「仕事だからな。身だしなみくらいキチンとしなきゃ駄目だろ」

 ええい、さっさと入れろ。と如月さんは革靴を脱いで、さっさと中に入ってしまう。俺は溜息をつき、ドアを締めてしっかりと施錠した。

 紹介が遅れた。俺の名はムラマサ。妖刀として有名な銘刀、村正の九十九神。

 より簡潔に言ってしまえば、そう、妖怪である。




 生き返ると叫んで上着を椅子に掛け、如月さんはネクタイを緩める。

 この唐突な来訪者は如月鬼乾坊きさらぎきかんぼう、鬼である。

 人間相手には個人営業の不動産屋で通し、裏では関東地区を統べる大妖怪。そしてかつては如月童子と呼ばれた、最強の鬼としても名高い。

 人間と争うことなく人間社会に妖怪を溶け込ませるという、今の妖怪事情を作り上げた第一人者でもあるらしいが、俺も詳しいところは知らない。

 見た目は長身の精悍な大男、中身は妖怪の住民票さえ作らせている社会派な鬼。それが如月さんだ。

「さて、今回の仕事だが……」

 そして如月さんは、妖怪が人間社会に起こしたトラブルを妖怪だけで処理させている。俺はその手伝いをして日々生活している。今回の訪問もそう言ったトラブルに関する事だ。

「……おい、清はどうした? あの愛され狸娘はどこ行った?」

「バイト」

「ふぅん。んじゃ、今回は俺達だけでやるか」

 如月さんはそう言って、鞄から書類を三枚引き抜き、無造作にテーブルに放った。一枚はプリントアウトされた地図、それと男の写真を数枚貼り付けたものと、文字だけのものだ。

「垢舐めは知っているよな?」

 俺は黙って頷いた。

 垢舐め、もちろん知っている。不衛生な風呂場の垢を舐めて生きるという妖怪だ。最近の垢舐めは風呂屋などの清掃員として暮らし、こっそりと垢を舐めて暮らしていると聞いたことがある。

「最近ここいらで、同一犯らしい空き巣が毎日のように起こっている」

 如月さんはそう話を切り出し、俺に地図を示した。この町のいたる所にバツ印や日付が書かれてある。俺の家のすぐ近くにもバツ印が付けられていた。

「それが垢舐めの仕業だって、なぜ分かるんだ?」

 俺の質問に、如月さんは笑いながら煙草をポケットから取り出し、台所へ行こうと立ち上がる。俺はすかさず言った。

「何度も言ってるだろ。清が嫌いだから、ここは禁煙だって」

「一息ついたら吸う。癖みてえなもんなんだよ……」

 如月さんはテーブルに煙草を転がし、またどっかりと腰を下ろす。

「印がある場所は全て、空き巣に入られた形跡はあるのに金目の物は取られちゃいなかった」

 だがな、と如月さんは指でテーブル上の煙草を転がしながら続ける。

「ただ一つ、残り湯が張ってあるはずの風呂場の栓が抜かれていたそうだ。被害のあったのも一軒家のみで、侵入経路も多くは風呂場の窓から……口がさみしいな、何かあるか?」

 ガムは切らしている。席を立って冷蔵庫を開けてみて、魚肉ソーセージを見つける。

 如月さんは魚肉ソーセージを手渡されると、左右にある金属の金具を片方摘み、一気に引っ張ってぶちりと引きちぎった。

 鬼の怪力。しかし、やってる事はとても文明的とは呼べない。

「赤いとこから引っ張りゃ良いのに……」

「あれ失敗するとストレス溜まんだろ」

「確かに……で? まさかこの猛暑の中、この町の垢舐めを片っ端から調べ上げる訳?」

「安心しろ」

 如月さんはちぎった所から、まるでバナナの皮を剥くようにビニールを取る。そしてソーセージをくわえて言った。

「俺がそんな馬鹿に見えるか」

「少なくとも無駄な禁煙にチャレンジおっさんには見える」

 ふん。と如月さんは鼻を鳴らして一口噛み切り。

「こっちまで疑われたかねぇって身内から告発されててな、もうどこのどいつだか分かってる」

 如月さんは残っていた二枚の書類をこっちに滑らせる。

 大小様々な写真を乱雑に貼りつけたものと、写真の男の名前等が書かれた用紙。写真に写る男は、何と言うべきか、見るに堪えないほど汚れた男だ。垢舐めと言えど、ここまで見すぼらしい姿の者は今時珍しいだろう。

弁太べんた。苗字はない」

 如月さんはソーセージの残りを口に放り、またモゴモゴ。

「怠慢、不平……ま、要するに性格に難があるらしくてな。ここいらの垢舐めのコミュニティから外され、今は住所不定……まぁ、見ての通りだ」

「こんな目立つ奴だったら、すぐ警察に捕まりそうだな」

「そこなんだよな。この程度じゃ流石に妖怪退治に勤しむ人間らは動かんだろうが、普通の警察がお縄に掛けるのは時間の問題だろうぜ。そういう訳でだ」

 ビニール包装を台所前のゴミ箱に投げ捨て、如月さんは写真をトントンと指で叩く。

「俺達はこいつを人間達より先にとっ捕まえ、どこか地方に飛ばす。ま、内容としちゃいつもと変わらん仕事だ」

「……何かもう暑いのと、この見た目でやる気なくなったんだけど」

「ぐだぐだ言うな。寝床は分かってんだ、楽な仕事さ」

「いや、そうかもしれないけどさぁ……」

「……じゃあ」

 一向に首を縦に振らない俺に、如月さんはすっと指を伸ばす。

「いつもの給与に加え、焼肉を奢る。清の分もだ」

「マジか」

「マジだ。何より俺が食いてぇんだが、一人で焼肉はどうも抵抗がある」

 それが本音か。しかし、この待遇なら望むところだ。俺は、乗った、と立ち上がる。

「最近食ってなかったからな、スタミナ付けにでも行きますか」

「出不精のナマクラが肉食っても意味ねえだろ」

「うっせえ」

 今日は夜通しになりそうだ。俺は同居人の清宛てに、チラシで書き置きをし、さっさと外に出る。

 ドアを開けた瞬間に、日が目に飛び込む。焼かれたような感覚に、思わず俺は顔を歪ませた。

 見れば、ようやく日が西の空に傾いている。いわゆる、逢魔が時というやつだ。直射日光がなけりゃいくらかマシだ、早く沈みきってもらいたい。

 相手が夜に生きる妖怪なら、なおさらその方が良いだろう。




 妖怪が人間から隠れて生きるようになったのは、いつ頃からか。

 俺も、流石にそんな昔から生きてはいないが、如月さん曰く、鬼が人に敗れた辺りからだそうだ。

 妖の頂点に立ち、人を食らい、鬼の国を創ろうとした朱点童子。彼の首がはねられた時から、妖怪は右肩下がりになった。そう如月さんは語る。

 それからの繁栄と開墾で、人間は、妖怪と人間との生きる境界線を曖昧にしていった。敗れた妖怪は、隠れる場所さえ失ったのだ。

 それから千年。妖怪は二種類に分けられた。人間社会に生きる妖怪と、残り少ない無法の土地に生きる妖怪とに。

 しかし、人間社会に溶け込めた妖怪にも、安息はなかった。人の世は移ろいやすく、ほんの数年で環境は一変する。

 例えば、そう、一世帯につき一つの風呂場が当たり前となったり。




 午後九時半。急な坂に面したこの辺りの住宅地は、昔からの一軒家が多くを占める。そしてこの坂を下りきったところにある公園はこの時期、池を発生源に大量の蚊を世に送り出す。

 俺と如月さんは坂のてっぺんに建てられた、周辺では珍しい新築のアパートの屋上に忍び込み、この坂を見下ろしていた。

 ファミリーカーが一台、坂を下っていく。家族連れで食事にでも行くのだろうか。本当なら今頃、清と夕食でも食っていただろう。こんなコンビニのおにぎりじゃなく、もっとまともな……それに、蚊に食われることだってなかっただろう。

「……車で張り込まないのは、弁太に見つかることなく奴を見つける為だ」

 俺の顔に何か書いてあったのか。下り坂にある公園の様子を伺っていた如月さんは、俺にそう言った。

 そうは言うけど……。と、俺は如月さんに倣い公園を見た。単純な遠さに加え、この暗さだ。とても公園内の様子など見えやしない。

「こんな風に待ち構えなくとも、直接出向いて捕まえれば良いだろ」

「夜目には自信があるが、奴のホームじゃな。こっちが気づく前に逃げられでもしたら終わりだ。この町から逃げられる」

「俺はそれでも良いと思うけどね」

「俺はそれじゃ駄目なんだ」




 どうしてこんな所に来たか。話は二時間ほど前に遡る。

 俺達は如月さんの車で、どこかへと向かっていた。どこへ向かうかは、まだ説明されていなかったが、俺は助手席でただ漠然と、垢舐め自宅か何かだろうなと思っていた。

 余談になるが、如月さんの愛車はランボルギーニ・ガヤルドのスパイダー。俗に言う、スーパーカーと言うやつだ。滑るように移動する感覚と、オープンカー特有の吹き抜ける風。そしてやたら響くエンジン音。俺が昔乗っていたオンボロ車とは大違いだ。

「さっきから気になってんだけどさ、どこに向かってんだ?」

「一から説明するとな。弁太は住所不定の浮浪者、俺に告発した垢舐め達も奴の正確な居場所までは知らなかった」

 ただな。如月さんはそう言い加え。

「垢舐めは人工的な不衛生さのある、且つ湿気のある環境を好む。ネズミと一緒だ。人の手が掛かっていない環境は、奴にとっては居心地の悪い場所なんだ」

 なるほど。人間も、魑魅魍魎も、自分にとって居心地の良い場所に住みたがる。人間が眉をひそめるゴミ山を楽園と見る妖怪もいる。

 そして……俺は溜息をついた。俺達がこれから向かう場所は、俺にとって最悪の環境だろうことが、この情報で確定してしまった。

「んで、弁太に金はない。それに不法侵入しようと金も取らないくらいに善人で臆病者だ。金もなく、誰にも迷惑がかからなく、垢舐めにとって住みやすい環境……地図と睨めっこしたら、すぐに見つかった」

 ほら。と、如月さんは顎で車外の看板を指す。自然公園、この先十キロだそうだ。

「この坂を下りきった所にあるんだが、行ったことあるか?」

「いや、ないな。遠いし」

「結構でかい公園でな、あまり整備されてない森林に広場、きったねぇ池もある。極めつけに、夜は立ち入り禁止だ。って言っても、柵越えりゃあ簡単に侵入できるから、この時期はアベック共の人気スポットになってるらしいがな」

 如月さんはそこまで説明し、ふと思い出したようにこう付け加えた。

「今度お前、清を連れてってやれよ。喜ぶぞ、あいつ」

「いいよ、別に。でもさ、夜間も人がいるなら、寝ぐらにはできないだろ」

「情報屋の藤井、知ってるだろ? あいつから聞いたんだよ」

「……夜中、一人でうろつく変な奴がいる?」

 ドンピシャだろ。如月さんは自慢げに言って、国道から脇道に車を切った。しかし、まだ坂を下ってはいない。

「お、おい。どこ行くんだよ」

「ここか? ……良し、ここだな」

 如月さんはそう言って、車を有料駐車場に入ってしまった。

「さーて、さてさて……」

 そう言いながら、車を駐車させた如月さんは俺を見て。

「こっからは歩きだ」

「え、ちょ、マジで?」

「マジで、だ」

「何で?」

「しかたねぇだろ。公園の駐車場は夜使えねえし、かと言って放置できるような車でもねえ」

 荒らされたらどうする。と如月さんはそう言って勝手に歩き出す。俺もその後に続いた。

「それにな、勘違いしてるようだがお前、園内で待つ訳じゃないぞ」

「え? じゃあ……」

「さて、コンビニ行くぞ、コンビニ。こっからは暑さとの戦いだ」




 こうして、俺達は虫除けや制汗スプレー、食料、飲み物を近場のコンビニで買い、坂のてっぺんから公園を監視している。

「あー、もうヤダ、帰りたい」

「夜はこれからだぜぇ、ムラマサ」

 顔を手で覆って現実をシャットアウトしようとする俺を、如月さんは憎たらしい猫なで声と煙草の紫煙で現実に引き戻す。

「蚊ぁいすぎだろ。虫除けなんて何も役に立たねぇ……」

「なー、煙草も吸ってんのにな」

 ふぅー。と如月さんは飛ぶ蚊に煙を吹きつけ、蚊を撃墜し。

「……あ、そうそう。知ってるか? 花車の奴、キャバクラの仕事辞めたんだってよ」

「花車が? 聞いてないんだけど」

「聞かせる話でもねえだろ。もったいねえよなぁ。小さな店とは言え、女王様だったんだろ? あいつ」

「元々フラフラした奴だから。今回は適職過ぎて長続きしただけで、いつもと変わんないだろ」

「いっそ、俺らと仕事してくれたら助かるんだがな。ムラマサ、お前説得できねえか? 古い知人からって事で」

「無理。あいつを説得できる気がしない」

「そこを何とか頼むぜ。あいつは顔が広いからな、俺を嫌う妖怪らにも好感を持たれてんだ。それに力もある」

「いや、花車とつるんだってあんたの評判は良くなんねぇよ……」

「分かんねぇだろ……って、おい。あれ弁太じゃねぇか?」

 如月さんは会話を切り、グッと屋上から外へと身を乗り出して目を細める。俺も見るが、暗闇から何も見つける事はできない。鬼の目には、あの暗闇から人影を見ているのか。五感の鈍い刀である俺には、とても信じられない。

「……間違いないな」

 如月さんは一人頷き、煙草を携帯灰皿に入れる。ようやくここから出られるのか。俺はコンビニで買った物やゴミ何かをレジ袋に乱雑に入れる。

「んじゃ、行くぞ」

「ちょっと待て……って、おい!?」

 俺の有無を聞かず、如月さんは屋上から飛び降りた。そのまま、飛び降りたのだ。直後、火薬が弾けたようなもの凄い音がここまで響き渡る。

 思わず身を乗り出し、下を見るが。如月さんは地面に潰れてはおらず、それどころかありえない速度で公園へと走っていった。

「……あぁもう! 付いていけねぇよ、あんたには!」

 もう聞こえてはいないだろうが、俺は苛立ちまぎれにそう叫び。階段へと向かった。




 壁をよじ登って公園内に侵入したは良いが、如月さんの姿がない。もう弁太と接触しているのだろうか。

 探そうと園内を走ってると、喧騒、そして水しぶきが立つ音が聞こえた。それを頼りに来てみれば、ことの全てが終わっていた。

「遅いぞムラマサ」

「あんたが速いんだよ」

 水際からずるずると、弁太らしき男を引き上げながら文句を言う如月さんは、息さえ切れてない。化物じみた、いや、鬼なんだから文字通り化物なのだろう。

「いいや、お前体力落ちてんだろ。運動しろよ、運動」

「清と同じこと言うなよ。それより弁太は? 生きてんのか?」

「ほら」

 如月さんは地面に横たえた、濡れたボロ雑巾のような男を指差す。見るからに弱っている。

「何したんだよ……?」

「逃げるからよ、襟元掴んで池に張り倒してやった」

 見れば街灯に照らされる池の水面は酷く濁っていた。なるほど、先ほどの音はこれか。

「死んだらどうすんだよ」

「加減はした」

 呆気からんと如月さんはそう告げ、弁太へと視線を移した。

「……で? 俺達がどういう連中か、理解はできてんだろう。 垢舐めの弁太」

「………」

 弁太は答えず、ブルブルと震えている。こうなると妙に可哀想になってきた。俺と如月さんは顔を見合わせ、如月さんは肩をすくめる。

「どうしてこんな目にあってるか、まさか分かんねえ訳じゃあねえよな?」

「……どうしてだ?」

「あ?」

「どうしてこんな目に合わなきゃいけないんだ?」

 弁太は身を震わすように絶叫し、堰を切ったように語り始めた。その汚れた頬からポタポタと涙を地面にこぼして。

「こんな生活に追い込まれて! 生きる為にしたくない事をし! じゃあ俺に死ねって言うのかっ!?」

 生きる為に、罪を犯さなくてはならない。そんな時に、いったいどれだけの者が死ぬ事を選ぶだろう。この垢舐めは、生きる道を選んだ。

「こんな社会のせいで! 人間どものせいで俺は、こんな……! こんな……!」

 人間社会からの拒絶。

 今や妖怪は当たり前のように人間社会に溶け込んでいるが、それでも種族によっては馴染めず、迫害され、そして絶滅した妖怪も確実に存在する。

 俺達はそれを、ただ見ていることしかできなかった。環境に適応できなかった者の末路を変えることなんて、誰にもできない。

 垢舐めの弁太。この男もまた、そんな人間至上な今の世の中の犠牲者なのだろう。俺はこの男に、何もしてやれない。

 じゃあ如月さんは。俺は隣で黙る如月さんを見た。

「……てめえ」

 そこには、仁王のような顔をした男がいた。

「優しく問いてみりゃあ、舐めた口聞きやがって……!」

 如月さんは低い声でそう言い、泣きじゃくる弁太の胸ぐらを掴み。

「俺ぁなあ、そういう言葉が一番……ムカつくんだっ!!」

 投げた。ボールでも投げるように、大の男を池に投げ飛ばしたのだ。凄まじい音と、水しぶきが夜に爆ぜる。

「ぶぇっく!? ウェッ!」

 弁太が水面から体を起こし、えづく。唖然とする俺をそのままに如月さんはスーツが汚れるのもお構いましに池に入って弁太に近づく。

「さっきからてめえ、ずいぶんと社会の弱者気取りじゃあねえか」

 体をビクつかせている弁太の胸ぐらを掴んで無理やり目線を合わせ、如月さんは噛みつくように叫ぶ。

「社会が悪いなんて言い訳、誰も聞いちゃくれねぇんだっ!! それは人間も妖怪も同じだ! チャンスならあったはずだ! 俺がそういう町にしてきたからだ! てめぇらみたいな妖怪を救う為にだっ!!」

 そうだ。人の世に潜むという、今の妖怪の現状を作ったのはこの鬼だ。

 そして今も、人間に殺される前に、妖怪の起こしたトラブルを内々で片付けている。それは全て、俺達妖怪の為だ。

「なのにてめえは、今更自分の怠慢を俺のせいにする気かっオラァァァッ!!」

 またもや如月さんは、振り下ろすように勢いを付けて、弁太を水に叩き込む。酷い有様だが、俺は特に声をあげることなく、黙ってそれを見守っていた。

「立てえ! 立ってやり直せ弁太ぁっ!」

 如月さんはぐったりとした弁太を持ち上げ、尚も吠えたてる。

「こっからだ! こっからやり直せ! 社会のせいにするな! 悔しくないのか! 悔しかったらてめえの足で立って、幸せになってみせろ垢舐めの弁太っ!」

 垢舐めはうめき声をあげた。気のせいだろうか。いや、違う。垢舐めはその時、確かに足に力を入れていた。

 如月さんの力なしに、立っていたのだ。




「それで? 結局どうした、弁太は?」

 隣の清が石焼ビビンバに夢中になっているのを機に、俺は如月さんにそう切り出した。

 あの蒸し暑い夜から、もう四日経つ。俺と清は今晩、約束の焼肉を奢ってもらっている。夏休みのせいか、俺の家から歩いて十分ほどの小さな焼肉屋は平日にも関わらずなかなかの繁盛ぷりだ。

 如月さんはビールジョッキを片手に、箸で網の上の肉を突っつきながら答える。

「ああ、この町から出てったよ。今は岡山でホテルの清掃やってる」

「岡山って事は、魔法様の所か」

「そうそう」

「ここはまだ警察が探しているから、しょうがないか……ってちょっと、塩タンひっくり返すなよ。薬味こぼれてる」

「ない方が好きなんだよ。……それもあるけどな、あいつの希望だ。知らない街でゼロからやり直したいんだとよ」

「ふーん、良かったじゃん」

「けっ、俺から言わせりゃ、これも無責任な話だ」

 俺の感想と違い、如月さんは不服げにビールをあおる。

「ゼロからって、今までやってきた事から逃げてって訳だろ。俺にはどうも、虫が良すぎる気がするんだよ……」

 内々で片づけているのは、あんたじゃないか。そう言おうとしたが、よそう。返事は分かりきっている。如月さんの言っているのは精神論、ケジメも着けずに、ということだろうから。

 それに俺も、無責任に逃げてやり直した身だ。彼を責める気はない。

「……岡山には」

「ん?」

「岡山にはあいつの居場所、あるかな?」

 居場所をなくした垢舐め、町をさ迷っていた彼の、安住の地。

「はん。んなもん、あるわきゃねえだろ」

 如月さんは俺の言葉を一蹴して、ジョッキを空けた。それから、グチグチと俺に説教する。

「自分の居場所ってのは、どこかにあるもんじゃねえ。どこでも良いから、自分で作るもんなんだよ」

「………」

「初めからある、あるべき居場所ってのは親の下だけだ。奴は何も分かってねえ、分かってねえんだ……」

 俺達は少しの間、黙々と食べる。俺達の話を聞いていた清のビビンバを、俺は奪った。

 清の抗議を無視してビビンバを食べながら、どう話すべきか考えた。だが、これ以上弁太について、俺達がどうこう言う必要がない事に俺は気づいた。やるべき事はやった。後は他人に迷惑をかけぬ程度に、勝手にやればいいさ。

「何にせよ、さ。俺達の仕事はやり遂げたじゃん。後はあいつ次第だろ」

「……ま、そういうことだな」

 如月さんはそう言って笑い、ビールをもう一杯注文した。

 そんなこんなで数十分後、俺達は店を後にした。

 古来から化け狸は酒好きだが弱いときている。酔い潰れた清に肩を貸し、夜の町を歩く。如月さんとはすでに別れ、今は酔っ払いを適当にあしらいながら帰路についている。

 ふと、町の景観に目を止める。道路と街路樹、歩道と畑、自然と人工物が分別された、不気味なまでに清楚な町。きっと汚いものは全部、見えない所へと追いやられたのだろう。

 そんなこともふと考えてみたが、それを考えるのは如月さんの役割かと考えをやめてしまう。

 世界を憂い、世界を変える。俺はそんな大層なことができる刀ではないし、その大層なことをやってきた鬼を、友人を知っている。

 俺にできることは精々、あの鬼と仕事をし、そしてこの女を家に運んだりすることくらいだ。

 そしてそれが、俺の手に入れた居場所、安住の地なのだから。

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