第9話 スタンドバイミー ④

 机の上にあった祖母の本が、突然宙に浮いた。バラバラと凄まじい勢いでページがめくられ、同時にページの隙間から莫大な量の漆黒の影が泡立ちながら溢れ出した。


 ボコボコと溢れ出した影は本を内側にして人の形に固まっていく。やがて本が完全に覆われ、本からの影の噴出が止まった時、漆黒の影はそれと同じ色のドレスを着た、邪悪な微笑みをたたえた可憐なたたずまいの少女となっていた。一見してにじみでるその邪悪さと可憐さは、互いを引き立て合い壮絶なものとなっていた。


 石神さんは今、おそらくこの少女の事を終野黒枝ついのくろえと呼んだ。ではこの少女がこの世界における私の祖母なのだろうか?


 私の知っている祖母の若い頃はこのような容姿だったのかもしれない。だが、表情と雰囲気がどうしても祖母のものとは思えなかった。


 少女は私に見向きもしない。


 絹のような長い黒髪が揺れる。確かに年齢や性別は私と同じかもしれないが、それ以外は私には似ていないはずだ。私より母に似ているな、と思った。


 石神さんが笑顔のまま言う。


「お久し振りです、終野黒枝。お変わりないようで何よりです」


「初めて見る顔がそこそこあるわね」


 その少女は石神さんの挨拶を無視して、私と石神さんしかいないはずの部屋を見渡しながらそう言った。声もまた、鈴の鳴るような可憐な声だった。


 ただし、その喋る内容は可憐さとは対極にあった。



「目障りだからとりあえず殺すわ」



 少女は人差し指を前に出し、軽く払い除けるような動作をした。


 何かが爆発した。そう思うほどの光と衝撃波が、少女を中心に巻き起こった。それはこの部屋を跡形もなく消し飛ばした。すぐ真後ろにいた私は、紙屑のように吹き飛んだ。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



 何十メートルも飛ばされたようだが、私は生きていた。


 先程の光で眩んでいた眼は少しずつ回復してきたが、衝撃波でまだ頭がとても痛い。ガンガンする。鼓膜はかろうじて破れていないようだ。


 多分私にはあの謎の攻撃は当たっていない。近すぎて当たらなかったのだろう。私が食らったのは攻撃の余波だ。それだけでこの威力。


 気がつくと私はワイヤーフレームで構成された、黒い線と白い面だけの世界にいた。祖母の家にあった、ダンジョンRPGのレトロゲームを連想したが、それとは比較にならないほどとにかく広い。そして、辺りには先程までいた応接室の『空間の残骸』が散らばっていた。うまく表現しづらいが、物理的な物ではなく、部屋のあった空間自体が破壊されて散らばっているのだ。


 石神さんはどうなった?


「防いだの?生意気ね。まあこんなので死なれても逆に困るんだけど」


「相変わらず負け惜しみがお上手ですね」


 この空間全体から響くように、石神さんの声がした。どこから声が出ているのかはわからないが、とりあえず無事なようだ。


「はあ?たかが一発防いだだけの事で何調子に乗ってるの?」


「そうですか。ではなぜ正面から堂々と攻めてこなかったんですか?正面から戦うと負けるからですか?」


「馬鹿じゃないの?たまたま気が向いたから潰しに来ただけ。ただのお遊びよ」


「そうですか。やっぱり負け惜しみがお上手ですね」


 少女が眼を血走らせ顔を真っ赤にして、先程までの可憐さをかなぐり捨てたかのような表情で反論しようとしたのと同時に。


 何の比喩でもなく床が消え、無限の奈落となっていた。巨大な『隙間』に飲み込まれるような感覚。私はなすすべなく落ちていくが、少女は何事もなく立っている。


「ああ、いたのね。忘れてたわ」


 そこでやっと、少女は私を見た。感情の全くこもっていない冷たい眼。少女は私を一瞥いちべつしただけで、すぐに興味無さげに眼を反らした。


 私は奈落の中に落ちていった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



 奈落を抜けると、そこは簡素な部屋だった。


 部屋の真ん中には都合良くトランポリンが置かれており、私はそこに落下した。トランポリンは異常なバウンド力を発揮し、私は怪我一つ負う事はなかった。


 部屋には既に1人の人物がいた。


常磐木ときわぎさん……?」


「はいどーも。皆大好き常磐木さんだよ!ちょーっと待っててね」


 常磐木さんは壁に向かって刀を構えていた。軽口を叩いてはいるが、全身から張り詰めた気迫を発しており、その構えに隙は全くなかった。そして次の瞬間。


 一呼吸の間に壁を8回斬り付けた。

私の眼で追えるのが8回だっただけで実際はもっと多いのかもしれない。だが、斬られた壁には傷一つついていない。壁には円型の紋様が描かれていた。祖母に教わった事がある。あれは魔法陣だ。あれがどういう効果のものかは分からない。


 常磐木さんは壁に刀を構えたまま言う。


「ごめんね、戦いながら話すけど気にしないで。さて、作戦会議をしよう」


 言い終わった直後に、石神さんが部屋の天井から落ちてきた。


 部屋の真ん中には都合良くトランポリンが置かれており、石神さんはそこに落下した。トランポリンは異常なバウンド力を発揮し、石神さんは怪我一つ負う事はなかった。


「どうだった?」「どうでした?」


 常磐木さんと石神さんは互いに同時に訊いた。


「じゃ俺から。『気が向いたから潰しに来た』の下りは嘘。登場の仕方も明らかに変。多分一定条件下で自動発動。黒枝の人格及び魔法をそれなりの精度で模倣・再現してる。何より。以上」


「了解しました。現在こちらが一見優勢に見えますが、全力を出さずに適当にやり過ごしながらだらだら遅延戦闘を続けている────平たく言えば『遊ばれている』といった感じでしょうか。さらに対象の出現と同時に『塔』に対するハッキングを受けています。既に約0.0000004%も権限を奪われました。このまま戦闘が続けば遠からず敗北するでしょう。しかしながら、対象はと結論付けます。以上です」


「そっか。まずいね」「まずいですね」


 互いに今の説明で納得したようだった。(常磐木さんは会話中何十回も魔法陣を斬っていた)


 私には話の内容はよくわからなかったが、とにかく私が本を持ってきたせいで少女と戦いになり、まずい事になっているという事は理解できた。


 だから謝った。


「すみませんでした。私にできる事があればなんでもします」


「謝るな。どう考えてもこの世界の終野黒枝の責任だし、君への被害に対処できなかったのはこっちの責任だ。済まなかった」


 常磐木さんがこちらに向き直り、まくし立てるように一気に即答した。やや怒っているようにも見えた。


「悪いがその件は一端脇に置いてもらって、君に提案────というか頼みたい事がある」


「常磐木さん、それについては私から」


 石神さんが咎めるような声で常磐木さんに言った。


「いいよ、俺から言う。石神ちゃんはどちらかといえば反対でしょ?

 さて、終野澄香ついのすみかさん。君の安全はできるだけ優先する。防御ガード援護サポートももちろんする。嫌なら無理強いはしない。その場合はその場合でなんとかする。俺達の話を全て聞いてから引き受けるかどうか判断しろ」


「な、何を……ですか?」


 常磐木さんは真っ直ぐに私の眼を見て、真顔で言った。


「君にはおとりになってもらいたい」

 


 

 


 


 

 

 

 

 



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