第4話 風邪をひいたサンタ
連休にあわせてやってくる台風。
寝坊した朝に、見つからない鍵。
大事な時に限ってなくなる充電。
よりによって!と思わず叫びたくなることは、意外と多い。それは、宝くじなんかよりもずっと高い確率で、僕らを待ち構えている。
よりによって!
今朝から、何回そう心の中で叫んだだろう。
幸いにも、仕事はひと区切りついている。
幸いにも、昨日のうちに食料を買い込んであるから、買い物もしなくていい。
幸いにも、インフルエンザではなかった。
そんなことはどうでもいい。
僕のクリスマスをかえせ。
入社三年目の安い給料で、なんとか借りてる1DK(ユニットバス付き)。
朝いちばんで駆け込んだ病院から帰ってきて、僕は着替えもそこそこにベッドへと倒れ込んだ。
昨日の夜から下がらない熱、猛烈な身体のだるさ。
神様、僕は何か悪いことをしましたか?
この非情な天の
よりによって、どうして今日なんですか?
残業につぐ残業。
心あたりなら山ほどある。
先月くらいからの仕事の疲れが、ここにきて限界に達したということだろう。
ドミノ倒しのように倒れていく同僚を尻目に、僕だけは体調を崩すことなく健康を誇っていたというのに。
まさか僕が、最後のドミノだったなんて。
中森憲太、一生の不覚っ!
この半年、ずっと今日のことばかり考えてきた。
念入りに計画を立て、雰囲気のいい(かつ値段もそれほど高くない)レストランを予約し、夜景の見える展望台やホテルのバーを探し歩いた。
そしてプレゼントその他必要なものをそろえて、指折り数えてこの日を待った。
それなのに、それなのに、それなのにっ!
――どうして、よりによってクリスマスイブに風邪なんてひくんだ!
※
時計の針は、昼の十二時を過ぎた。
なんとか起きあがるとスマホを取り出して、そこから先へ進めない。
今日のデートは、どう考えてもキャンセルするしかない。それなのに、もう少ししたら熱が下がるかも、なんてありえないことをうだうだと考えている。
つきあって二年になる僕の彼女、野沢和泉は、出版社で編集の仕事をしている。
児童文学を主に取り扱う、書店でもよく見かける名前の会社だ。そこで和泉は、同い年の僕よりも、はるかに忙しく働いている。
だから、彼女の都合でデートがキャンセルになることも多い。もちろんお互い社会人、そんなことは承知の上でつきあっている。
しかも彼女は、そのへんの物わかりがいい。滅多なことじゃ感情的にならないし、むしろ物わかりが良すぎて怖くなるくらいだ。
ただ今回は、前々から期待させるような事を言ってきた手前、僕からキャンセルというのは、どうも言いづらかった。
連絡するなら、なるべく早い方がいい。
お昼休みを逃したら、ますます電話しづらくなる。
僕は大きく深呼吸をすると、覚悟を決めた。
――かけたくない電話にかぎって、ワンコールで相手につながるのはなぜだろう。
「ごめん、和泉。風邪ひいた」
挨拶もそこそこに、単刀直入。
一瞬の沈黙、聞こえてくるオフィスの雑音。
「……え、ちょっと本当? 大丈夫?」
「たぶん。熱があって、だるくて力がはいらないけど」
「それ、大丈夫って言わなくない?」
「医者はインフルエンザじゃないって。だから寝てりゃ治ると思う」
「そう。それはよかったけど」
「だから悪いんだけどさ。……今日、無理」
「当たり前でしょ。しっかり寝て、ちゃんとそれ治さないと」
「マジですまん。いろいろ楽しみにさせておいて……」
「それは、気にしなくていいから。憲太の身体の方が大事だよ」
「……ん」
それから和泉は、母親が言いそうな言葉をいくつか並べると、
「ごめん、憲太。担当の先生から電話入っちゃった。また後でかけるから」
そう言って電話を切ってしまった。
ごろりとベッドに仰向けになる。
予想通りというか、和泉らしいというか。
キャンセルしたことよりも、僕の身体の方を気
それはもちろん嬉しいんだけど、そういう和泉が好きなんだけど。ちょっとくらい、がっかりしてくれてもいいのになぁ、なんて思ってしまう。
勝手に僕がひとりで盛りあがってただけなのかな。
和泉も調子をあわせてくれてただけで。
和泉は、どちらかというと派手できらびやかなものが苦手な方だ。だから、ロマンチックなクリスマスデートなんて、興味がなかったのかもしれない。
……なんて、変な勘ぐりをしてしまう。
もちろん、本当はわかっている。
本気で心配してくれただけなんだって。
和泉は、ウソが苦手だ。それどころか、さらっと本音を言ってしまうところがあって、周囲をひやひやさせる。
僕としては、駆け引きなんてされても困るし、嫌なら嫌だとはっきり言ってくれる方が助かる。だけど、そういうのが苦手な人もいるだろうし、思わぬ敵だって作ってしまうだろうと、心配でもある。
だから、そんな和泉が気にしないと言うなら、それは本当なのだろう。むしろ、気にしているのは僕の方なのだ。
あーあ、今年のクリスマスは特別なものにしたかったんだけどな……。
そこまで考えて、僕は泥沼に沈んでいくような眠気に身を任せた。
※
「どうして、ジングルベルが歌えないんだ!」
サウナの中で、マッチョなサンタにそんな説教をされる夢をみた。
汗だくで目を覚ます。
枕元で、スマホが陽気にジングルベルを鳴らしていた。
和泉からの着信だった。
「調子はどう?」
「んー、よくわからん。今、何時?」
「四時過ぎ。ごめん起こしちゃった?」
「嫌な夢みてたから、むしろ助かった……」
夢の内容を話すと、和泉はぜひとも続きが知りたいと笑った。冗談じゃない。
「ちゃんと食べてる?」
「食欲ないし、あとで適当に食っとくよ」
「……ちゃんと食べないと、治るものも治らないよ」
「ん、わかってる」
「仕事、早めに切りあげてそっち行くから」
「え? いや、でも、ほら……風邪うつると悪い」
「大丈夫。それより、何か食べたいものある?」
「んー、そう言われても」
「うどんは? 味噌煮込みうどんとか」
「それなら食べられそう。あ、それとプリンが食べたい。コンビニで売ってる安いやつ」
「了解。じゃ、また後で」
「……ありがと。待ってる」
少し眠ったせいで、だるさは少し消えていた。
汗をかいた服を着替えると、加湿器のスイッチをいれて、ヨーグルトとみかんを胃にいれる。
それから、部屋を簡単に片づけた。
隅に積まれた雑誌が――どれもデートスポット特集だ――今となっては、むなしい。
カーテンを開けると、窓は真っ白に曇っていた。
濡れた窓を指で拭くと、外は重たそうな雪がしんしんと降っていた。
そういや、午後から雪になるって言ってたな。
そうか、ホワイトクリスマスか。
……よりによって。
※
――今からそっちへ向かうね。
そんな電話があったのは、五時を少し過ぎた頃。
それからまた眠っていたらしい。部屋に冷たい風が入ってきて目を覚ますと、ちょうど和泉が玄関先で雪のついたブーツを脱いでいるところだった。
「外ね、すっごい雪だよー」
ちょっと曇ったメガネ越しに、和泉の細い目が嬉しそうにきゅっと弧を描く。もし僕が元気なら、明日は一緒に雪だるまをつくろうなんて言いそうな表情だ。
「相変わらず、重そうな荷物だな」
ブーツと格闘する
「春に出版予定の本が何冊か重なっちゃっててね。あとでゆっくり家で読もうと思って、資料とかもいれちゃったから」
「よくまぁ、それを担いで歩けるもんだ」
その細い身体の、どこにそんな力があるのやら。
「それでさっきね、駅で男の人とぶつかっちゃって。このカバンがもろに直撃。平気そうな顔してたけど、悪いことしちゃった」
これをぶつけられたら、かなり痛かっただろう。かわいそうに。
「もう、私おなかぺっこぺこ。すぐ食事の支度するから、憲太は寝てて」
僕の背を押し、半ば無理やりベッドに横にさせる。それから和泉は腕まくりをして台所に立った。
かすかな鼻歌と、やがて聞こえてくるグツグツとお湯の沸く音。手際よく支度をする和泉の背中で、ひとまとめにした黒髪がゆらゆらと揺れる。
僕はその細いシルエットを、後ろからぎゅーっとしたい欲求にかられた。
長い黒髪も、やせぎみな細い身体も。
化粧っ気がないことも、しっかりとした眉も、細い目も。
そして、愛用のメガネも。
全部、好きだ。
でもそれを言葉にすることはあまりない。
和泉は、自分の外見や容姿にコンプレックスを感じているようだった。
今までに、よほど心無い言葉を投げかけられてきたのだろうか。外見や服装、その他見た目のことに関しては、
だから僕は、和泉のこと以外でも、そういった話題はなるべく避けるようにしている。僕にも似たような経験があるから、触れなくていい傷なら、そっとしておきたいと思う。
うとうととしていると、やがて台所から味噌の香りが漂ってきた。口の中にじゅっと
「はい、おまたせ」
テーブルの上に並んだ、ふたつのどんぶり。
僕は、のそのそとベッドからはい出る。
「んじゃ、いただきま……熱っち!」
「うどんは逃げないから。ゆっくりどうぞ」
「うぃ」
ああ、味噌煮込みうどんの、なんて輝いて見えることだろう!
※
窓の外、しんしんと降り積もる雪。
コンポの電源を入れると、ラジオからは定番のクリスマスソングが流れ出した。
たっぷり食べたせいか、身体の調子は思ったより軽い。僕はベッドには戻らずに、毛布を引っ張りだしてくるまった。
「憲太は、サンタさんっていくつまで信じてた?」
台所で洗い物をしながら、和泉は言った。
「んー、幼稚園か小学校低学年か……よく覚えてないな」
「お昼にね、担当してる作家さんから電話があったんだけど。その人、娘さんにサンタさんはいるの?って聞かれて困ってて」
「なに、それで和泉に電話してきたわけ?」
「そうなの。いい知恵はないかって」
「それで? 和泉はなんて答えたの?」
「それって作家さんのお仕事でしょ?って言っておいた」
さらりとそう言う。
「うわ、そりゃ厳しいなぁ」
「でも、そうでしょ?」
相手が相手なら気を悪くしそうだけど、大丈夫だったんだろうか。僕が取引先相手にそんな態度を取ろうものなら、始末書ものなんだけどな。
「それで結局、娘さんにはなんて答えたんだろう」
「今度、聞いてみるね」
さて自分なら、と考えてみる。
思い浮かんだのは、結局あいまいにして逃げ切る案くらいだった。
「はい、おーしまい」
洗い物を終えて、和泉は僕の隣にぺたりと座った。
その膝にも毛布をかけてやると、自然とふたりで身を寄せあう。
「なぁ、和泉」
「んー?」
「ごめんな」
「何が?」
「……風邪ひいちゃってさ」
「ううん」
和泉は、ぶんぶんと首を横にふる。
「本当なら、今頃レストランで……」
「憲太の方が未練たっぷり」
「だってさ。……いや、そりゃあね」
「クリスマスは、来年だってあるよ」
未練たっぷりなのは事実だけど。
そういうことじゃないんだ、と言おうとしてやめた。
「はい、メリークリスマス!」
押し黙った僕の顔を覗き込んで、和泉は膝の上に細長い箱を置いた。
「いいのみつけちゃったんだー。私とおそろいだよ」
そう言うと、胸元から、アルファベットの「Ⅰ」をかたどったペンダントトップを出してみせる。
「一応、本物のダイヤ。ちっちゃいけどね」
箱を開けて、中から細い銀色のチェーンを取り出す。その先端で僕のイニシャルの「K」が光っていた。
「ダイヤかぁ。やっぱ、キレイだな」
最近知ったのだが、米粒ぐらいの大きさのダイヤでさえ、結構な値段がするのだ。
「このデザインなら、男の人でも大丈夫かなって思って」
「ありがと。こういうのしたことないんだけど……大事にするよ」
「今度会うときに、忘れずつけてきてね」
「ん、わかった……」
まずは、なくさないようにしないとな。
アクセサリーなんて持ちなれないから、それがいちばん怖い。
「ところで、僕のプレゼントなんだけど……」
どうしようか、悩む。
「もしかして、レストランの食事をご馳走してくれるつもりだったとか?」
黙った僕に、和泉が言葉をはさむ。
「……え? ん、まぁそんな感じ」
「今度、そのお店連れてってよ。別にクリスマスじゃなくていいから」
「わかった。約束する」
「うん。楽しみにしてる」
他愛のない話も尽きて、夜の九時。
そろそろ起きているのがつらくなって、ベッドにもぐりこんだ。
「ねえ、憲太」
「ん?」
「私はね、こういうクリスマスで満足だよ」
和泉が枕元に頬杖をついて、柔らかく微笑む。
「憲太も経験あるかな? 子どもってプレゼントをもらうと、待ちきれなくて包装紙をやぶいちゃうでしょ?」
視線を向けると、真剣な表情の和泉。
「きっとね、子どもはちゃんとわかってるんだと思う。いちばん大事なのは、包装紙でもリボンでもなくて、箱の中身だって……」
和泉はそう言って僕の
「それ、冷たくて気持ちいいな……」
「じゃあ、これは?」
首筋に手をつっこまれて、思わず声をあげた。
「こうやって憲太と一緒にいられて、私は嬉しいよ」
「……うん」
「どこに行くかとか、何をするかよりも、相手と一緒に同じ時間を過ごすってことが大切なんだと思う」
そう言うと和泉は、ふっと額に吐息と柔らかな感触を残して立ちあがった。
「さ、少し寝たら?」
ちょっぴり照れくさそうな表情。
「……和泉は? 帰るのか?」
「明日、有給取ることにした」
「いいの?」
「うん。それに資料を読むだけなら、ここでもできるから……」
「ありがとな。けど、ちゃんと寝てくれよ」
「うん、ありがと。ちゃんと適当なところで寝るから大丈夫」
「そっか。……ん、わかった」
ほっと安心した僕は、やがて重たい眠りへと沈んでいった。
※
喉が渇いて、目を覚ました。
時計を見ると、ちょうど午前〇時。
窓の外では、相変わらずしんしんと雪が降り続けている。
和泉は、来客用のふとんにくるまって眠っていた。
テーブルの上には、分厚い資料の束とメガネ。
カーテンの隙間から差し込む雪明りが、和泉の寝顔をかすかに照らしていた。
本当に残念なことだけど。
他人の外見について、とやかく言いたがる連中っていうのも世の中にたくさんいる。そんなの余計なお世話だし、だからなんだと言うのだろう。
――大事なのは、箱の中身。
心の中でそうつぶやいて、僕は用意しておいた小箱を取り出した。
和泉へのクリスマスプレゼント。
どうして僕が、今年のクリスマスを特別なものにしたかったのか。箱の中を見れば、和泉も気づいてくれるだろう。
予定では、夜景の見えるバーで渡す予定だった。
その時に言う言葉も、考えてあった。
『楽しいことは倍に、つらいことは半分に。
僕は和泉と一緒に、未来を作っていきたい』
真剣にそう思っているけど。
何十年か後にふたりで思い出して、あれはキザだったねと笑いあいたいとも思っている。
リボンに結んだメッセージカードにも、同じ言葉が書いてある。それを読んで、和泉はどんな顔をするだろう。
クリスマスに風邪をひいてしまった、間抜けなサンタからの一生に一度の特別なクリスマスプレゼント。
受け取ってくれるだろうか。
リボンでも、色鮮やかな包装紙でもなくて、
肩書きや容姿、服装や持ち物でもなくて、
その中にあるもの、最後に残るもの。
僕は和泉のそれを、一生愛したい。
勝算はある。
ちょっぴり不安もある。
願いを込めて、和泉の枕元にそっとそれを置く。
そして僕は、まるでクリスマスプレゼントを待つ子どもの気分で、もう一度眠りについた。
※
カーテン越しの光に、目を覚ます。
覗き込む笑顔。
その薬指で、何かがキラッと光る。
和泉は、震える声で言った。
――おはよう、サンタさん。
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