第2話 サンタの約束
走ってる。
みぞれ混じりの冷たい雨を浴びながら、走ってる。
まるで走れメロスみたいだ。
作者は……えっと、太宰治だ。
でも僕を、つまり後藤春生を待っているのは、親友ではなくて落し物。
あれだけ迷って、何度もためらって、なけなしの勇気を出して買ったのに。それが、この冬の冷たい雨に濡れて、ぐしゃぐしゃに汚れて、もしかしたらゴミみたいに捨てられているかもしれないなんて、最悪だ。
大きなくしゃみを一発。
背中をぶるぶるっと寒気が走る。
このまま雨に濡れていれば、きっと明日には風邪をひくだろう。
さっきまで晴れていたのに。
天気予報くらい見ておくんだった。
来年の高校受験まで、もうあんまり日がないってのに、バカだよな。
とにかく、最近の僕は何かがおかしい。
受験勉強のしすぎだろうか。
家族ならまだしも、どうして赤の他人にクリスマスプレゼントを贈ろうなんて思ったのか。僕はそれが不思議でならない。
もらえるものなら、遠慮なくもらう。
だけど、誰かに何かあげようなんて真剣に思ったのは、これが初めてだ。
部活をやってる友達は、後輩にジュースをおごったりするらしい。そんな話を聞いても正直、自分が損するだけなのになぁ、なんて思ってた。
ところが、その僕が、後輩でも友達でも同じ学校の人でもない相手……それも女の子に、クリスマスプレゼントを贈ろうなんて考えている。
何度も自分を説得した。その女の子とは、別につきあっているわけでもないし、その気があるわけでもないのだ。
でも、どうしても止められなかった。
例えるなら、授業中に襲ってくるあの猛烈な眠気くらい、どうにもならなかった。
※
僕が通っている塾は、個人経営の小さな学習塾。
アットホームな雰囲気だけど、生徒が過去に何人か有名な高校に合格した実績もあって、地域でもわりと評判の塾だ。
その女の子というのは、そこで同じクラスというだけの関係だ。
彼女の名前は上野つかさ。
もちろん
僕のいるクラスは、生徒が全部で六人。
僕と上野の他は、無口でまじめな女の子が一人と、いつもパソコンの話ばっかりしてる三人組。だから、なんとなく取り残された者同士、軽く会話するようになった。
帰り道も一緒だ。
彼女は駅から電車、僕は駅の反対側の住宅地まで。
はじめの頃は、なんとなくその場の流れで一緒に帰る、という感じだった。
ところが、しばらくして担当の先生が「おまえ、ボディーガードな」とからかい、彼女も笑って「よろしくね」なんて答えてからは、必ず一緒に帰るようになった。
ボディーガードなんて言っても、駅までの道には商店街もあるし、夜でも人通りが多い。大学が近くにあるせいで、夜の八時くらいなら、まだまだにぎやかだ。
だから、特に心配はいらないと思うんだけど。
僕としては、ちょっとばかり使命感に燃えちゃったりもしていた。
彼女とは学校も違えば、住んでいる街も違う。
だから、一緒に歩いているところを見られても、上野が学校でうわさされる心配はないだろう。
僕はどうかというと、もしかしたら何か言われているのかもしれないけど、僕の耳に届かないんだから、たいして気にもしていない。
上野は、長い髪をいつもさらさらさせていて、黙っていれば高飛車なお嬢様みたいな雰囲気があった。もし学校で同じクラスだったら、敬遠して話しかけたりなんてしないタイプ。
ところが、実際に話してみると印象はかなり違っていて、庶民的というか、とても気さくで話しやすい女の子だった。
帰り道、ふたりでコンビニで買い食いしたり、参考書を見るという口実で本屋に寄り道したり。上野と歩く駅までの時間を、僕はいつも楽しみにしていた。
塾に通う動機の半分、とは言わないまでも、結構な部分を占めていた。
※
落とし物を探しながら、商店街まで戻ってきた。
濡れた前髪がぺたりと貼りついて、かじかんだ足先はじんじんと痛い。着古したお気に入りのダウンジャケットも、そろそろ浸水しそうだ。
わざわざ店員さんに頼んで、プレゼント用の派手な包装紙に金のリボンまでつけてもらった。落ちていれば、目立つからすぐにわかるはず。
そう思いながら、僕は本屋やゲーセン、コンビニと、帰りに立ち寄った場所を順番に探していった。
でも、見つからなかった。
誰かに拾われてしまったのかもしれない。
すぐにクリスマスプレゼントだってわかる紙袋だ。落ちていれば、拾ってみる人もいるだろう。
それで中を開けてみて、なんだタオルかちょうどいいな、なんて……自分のものにしちゃう人だっているかもしれない。
僕は最後の望みを賭けて、家までの道をもう一度探してみることにした。
その途中で、そういえば近道をしたんだっけ、と思い出して公園に立ち寄る。
すると、視界に見覚えのある包装紙が映った。
色や形、大きさも似ていて……いや、たぶん間違いない。
僕は意を決して、それを手に持ってキョロキョロしているおじさんに駆け寄った。
「あの、すいません。それ……」
※
それは、間違いなく僕が探していたものだった。
少し湿ってはいるが、気になるほどでもない。
おじさんからそれを手渡されて、僕はほっと息を吐いた。
「あの、ありがとうござ……はあっくしょん!」
ところが、そう言いかけて、くしゃみを連発。
背筋を寒気がぶるっと走る。
あー、これ、かなりヤバイやつだ。
「おいおい、傘はどうした? 風邪ひくぞ」
おじさんはそう言って、傘を傾けてくれる。
「あ、はい。たぶん、だいじょう……くしゅっ!」
ダメだ、くしゃみと震えが止まらない。
「ちっとも大丈夫じゃねえなぁ。ちょっと熱いもんでも飲んだほうがいい」
おじさんは近くの自販機で熱い缶コーヒーを買うと、ひとつを僕の手に押し込んだ。
「ありが……はっくしゅっ!」
「いいから飲む」
うなずいて、ひとくち飲む。冷えた身体の中を、コーヒーが流れていくのがわかった。いつもなら苦くて飲めないけど、今はその熱さがありがたかった。
「あ、もしかして……」
おじさんはそう言って首をかしげながら、くしゃくしゃのハンカチで僕の濡れた髪を
「……はい?」
「毎朝、俺ん家の前をダッシュで走っていくの君だろ?」
僕の顔を覗き込み、おじさんはニッと笑う。
まるで絵本に出てくる熊みたいな、
「……あ」
言われてみれば、その顔に見覚えがあった。
学校へ行く途中でよく見かける、小さな女の子を連れた近所のおじさんだ。
みぞれ混じりの雨はいよいよ勢いを増して、ときどき雪も混じりはじめる。
せっかく温まった身体も、濡れたままではすぐに冷えてしまう。
僕はおじさんの傘にいれてもらって、歩きなれた道を急いだ。
「もしかして、それ、彼女へのプレゼント?」
ふと沈黙をやぶって、おじさんが言った。
「あ、えっと」
どう説明しようか。
寒さで頭がまわらずに困っていると、
「あー、ごめんごめん。今のなし。気にしないでくれ」
おじさんはあわてた様子でそう言った。
「別に、彼女とかじゃないです」
とりあえず、誤解は解いておこう。
「そっか」
「友達ってほどじゃないですけど、仲はいいです。でも、どうしてプレゼントなんてしようと思ったのか、自分でもよくわからないっていうか」
「他人にプレゼントするとか思ったの初めてなんで……よく、わかんないんですけど。相手も、いきなりプレゼントされて困るかなーとか。やっぱ、困りますよね?」
説明のつもりが、相談になってしまった。
「すいません。いきなりそんなこと聞かれたって、わかりませんよね……」
見ず知らず、でもないけど。
知らない人に、いきなり相談なんかされたって困るよな。
「まあ、事情はわからんが、そう思ったんなら、そうした方がいいだろうなぁ。やらなかった後悔ってのは、あとあとまでひきずったりするから」
「やらなかった後悔」
たしかにそれは、とても嫌な後悔だ。
「せっかく買ったんだしさ」
「そうですよね」
思いがけず励まされて、嬉しくなった。
※
夜の八時を少し過ぎて、塾を出る頃には本格的な雪になっていた。
外に出ると、空から白い塊が音もなく降ってくる。
空を見あげていると、まるで自分が空を飛んでいくような感覚になって、面白い。
道路はうっすらと白くなっている。
きっと、明日は一面の銀世界だろう。
マフラーをきつく巻くと、身を縮めて上野を待つ。
しばらくして上野は、あったかそうな紺のダッフルコートを着て、タータンチェックのマフラーに顔をうずめるようにして外に出てきた。
「大雪だね」
「ん、うん……」
すべりやすくなった道を、傘を並べて慎重に歩く。
いつでも取り出せるように、プレゼントはカバンのいちばん上にいれてある。
駅までの道のりは、あっという間だ。どのタイミングで渡そうか、さっきからそればっかり考えている。
「もうすぐ、受験なんだよね」
「ん、うん……」
「あっという間だったね」
「ん、うん……」
「さっきから同じ返事ばっかり」
「ん、うん……え? そう?」
あわてて上野を見ると、ぷいっと顔をそらされてしまった。
「後藤くんは、一月の講習出るんだよね?」
「うん、出るよ」
前にも同じような話をした。上野は来年一月の冬期講習には出ないで、家庭教師を頼むんだとか。
その話を聞いて、上野って本当にお嬢様なのかもしれない、と思った覚えがある。
「あーあ。私も家庭教師やめて、講習に出ようかな」
そう言って、ちらっと僕を見る。
なんて答えたらいいかわからず黙っていると、それっきり上野も黙ってしまった。
「あと何回、受験すればいいんだろ」
しばらくして、ぼそっと上野がつぶやく。
「……大学行くなら、あと二回」
「わかってるよ。そんな冷静に言わないで」
「上野は、中学から受験なんだっけ?」
「ううん。小学校も受験した……ダメだったけど。だから今度で三回目」
上野は大学まで行くつもりなのかな。たぶん、頭いいから行くんだろうな。
大学かぁ。
ちょうど居酒屋さんから、大学生らしいグループが出てくる。そして店の前で肩を組んで「クリスマスがなんだーっ」と大声をあげた。
なんだか楽しそう。
塾の帰りに、大学生が騒いでいるのをよく見かける。
そのせいか、大学生というとお酒飲んで騒いでるってイメージしかない。
ただ、そのイメージは、上野にはちょっと似合わないな、なんて思う。
僕はどうだろう。
大学なんて、そんなことまだ考えたこともない。
だけど、もし大学へ行くなら、相当勉強しないといけないだろう。
正直、僕はこの受験勉強ってやつを、かなり甘く考えていた。
学校の勉強をちょっと頑張ればいい、くらいに思っていたのだ。まさか、こんなに必死にならないと点数があがらないものだとは思わなかった。
「受験勉強とか、この先なんの役に立つんだろう」
今さらだけど、ふと上野の考えを聞いてみたくなって、そうつぶやいた。
「じゃあ反対にさ、役に立つことってなんだと思う?」
「……え?」
ところが、思いがけず聞き返されてしまった。
「ま、それがわかれば苦労しないか」
「上野はわかるの?」
「ううん、わかんない」
あっけらかんとそう言って、上野は笑った。
※
結局、どこにも寄り道をしないまま駅に着いてしまった。
帰宅を急ぐ人たちに逆って、僕らは改札へ向かう。
「上野、あのさ……」
「ん? なに?」
改札まであと少しというところで、ようやく声をしぼりだす。
さっき言われた「やらなかった後悔」という言葉が、背中を押してくれた。
「その、これ……なんだけど」
「なあに、これ?」
「ぷ、プレゼント!」
声がうらがえる。
「私に?」
うなずく。
「あ、ありがと……」
上野はおそるおそる手を伸ばして、それを受け取ってくれた。
ほっと息を吐く。
いらないって言われる可能性もあったんだと、今さら気づいてぞっとした。
「これって、クリスマスプレゼントだよね」
「まぁ、一応……」
「でも、どうして?」
「その、単なる気まぐれっていうか。だから、別に気にしなくていいよ」
「……ふぅん」
なんとなく不満そうな感じの上野。やっぱり、プレゼントとか迷惑だったのかな。
「ね、開けてもいい?」
うなずく。
「――わぁ、かわいい!」
丁寧に袋を開けた上野は、まるで小さな子どもみたいな声をあげた。
一瞬、周囲の視線が集まる。
「前にほら、上野が好きって言ってから。アイリッシュセッターっていうんだっけ、その犬? たまたま、お店で見つけてさ」
ハンドタオルに刺繍された犬の絵柄は、リアルな感じだけどいい表情をしていた。
「でも後藤くんからプレゼントもらうなんて、びっくり。全然、思ってもみなかった」
「僕も、なんかよくわかんないけど、なんとなく……」
そう言いかけて、ようやく自分の気持ちがわかった。
本当は、なんとなくじゃなかった。
この受験が終わってしまえば、きっと上野と会うことはもうないだろう。
僕は、このまま上野と「じゃあ、さよなら」なんて、あっけなく別れたくなかった。受験が終わってからも、僕は上野ともっともっといろんな話をしたかった。
「あのさ、上野……」
「それじゃ、来年は私の番だね」
「え?」
「……やっぱ、お返ししないと悪いから」
「い、いいよ。全然気にしないでいいって。それだって気に入らなかったら、捨てちゃっていいし」
思ってもいないことが、ぺらぺらと口に出る。
しっかりしろよ、自分!
「ううん、大切にするよ」
タオルを胸に抱きしめるようにして、上野は言う。
「来年は、私がサンタになるってことで、私が後藤くんに何かプレゼントするね」
手袋を脱いで、すっと差し出された小指。
その意味がすぐにはわからなくて、すごく細い指だなぁなんて見つめてしまう。
「約束するから。ゆびきり、しよ」
ぎこちなくからまる、指と指。
上野の指はひんやりと冷たくて、さらさらしていた。
「後藤くんは、何が欲しい?」
「別になんでも」
「じゃあ、来年までに考えておいて」
「わかった」
「約束だからね」
彼女はからめた指にきゅっと力を入れて、手を離した。
※
「……番号、教えてくれる?」
上野はそう言って、カバンからスマホを取り出す。
「え? あ、ああ……いいよ」
あわててスマホを取り出して、連絡先を教える。すると上野からの着信でスマホがブルッと震えて、なぜか僕はドキッとした。
「受験が終わったら、連絡ちょうだいね」
「わかった」
「約束だよ」
受験まで、残り一ヶ月とちょっと。
それまでは、電話やメールをする暇なんてないだろう。
特に、上野の場合は。
「お互い、がんばろうね」
「ああ」
「絶対、絶対に連絡してね」
「ああ」
「クリスマスのことも、ちゃんと覚えててね。約束だよ」
「わかった」
上野が何度も口にした「約束」という言葉が、なぜか耳の奥にいつまでも残った。
受験のことばかりで、その先のことなんて考えてもいなかったけど。
真っ白な未来に、書き込まれた一つの約束。
来年のクリスマスなんて、なんだか遠い未来のことのようだ。
僕は予言者でも予知能力者でもないから、未来のことなんて、何ひとつわからない。何が役に立って、何が役に立たないのかも、だから確率の問題でしかない。
もしかしたら、そうやって役に立つとか立たないとか考えることが、いちばん役に立たないこと……だったりして。
「ありがとね」
「ああ」
「それじゃ、またね」
改札口を抜けると、上野はふりかえって言った。
「……メリークリスマス!」
「あ、うん。メリークリスマス」
僕の返事に上野は照れくさそうに笑うと、今度はふりかえらずに去っていった。
プレゼントを贈ろう、なんて思わなければ、上野とはこれでお別れになっていたかもしれない。
そうならなくてよかった。
上野の背中を見送りながら、僕はそう思った。
受験の結果が出るのは、正直怖い。
だけど、その先に楽しみなことも待っている。
結果が出たら、すぐにこの番号へ電話をしよう。
電話をして、それでどうなるかなんてわからない。
わかるはずないから、今は考えない。
どうせ、その時になればわかる。
情けない報告をしないためにも、まずは受験勉強を頑張ろう。
なんだか動機が不純だけど。
ま、いいか。
この雪みたいに、未来は真っ白だ。
それは、すごく不安でもあるけど。
たぶん未来は「どうなるか」じゃなくて、「どうするか」なんだろう。
そんなことを思った。
真っ白な未来に記された、来年のクリスマスの約束。
その時、僕はどんなことを考えているだろう。
明日を迎えることが、ほんの少しだけ楽しみになった。
「……さあて、もうひと頑張り!」
そうつぶやいて、軽くスキップ。
小指の感触が、いつまでもいつまでも残っていた。
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