第9話


 医者に言われた期間はメイクをしないという約束をきっちり守ってから眼帯をとった。薔薇の形の模様が刻まれた手鏡で目の様子を確認すると、くっきりとした一本線の刻まれた、自然な二重の目が完成していた。

 今の自分が普段の私であれば、嬉々として手持ちの化粧品を手を替え品を替え試してみたはずだった。一重のときには似合わなかったボルドーのドーリーメイクも、きっと今の目の形ならしっくりくるだろうから。


—それなのに、私がずっと欲しがっていたものをこうして手に入れたはずなのに、どうして、こんなにも心が沈むのだろう。


 一人きりのこの部屋は、一人で住むにはもう少し大きすぎる。麻琴と喧嘩したあの日からもう2週間が経過していた。私の水色の毛布からはもう、彼女のつけていた香水のつんとしたレモンの匂いはしなくなっていた。


「ねえ、一人?かわいいね」


 新宿の東口を出てすぐに、声をかけてきた男を一瞥する。見るからに軽そうなナンパなヤクザ風の男だった。長髪のピアスだらけの男の瞳に映っているのは、もうかつての私ではない。


 金曜日の新宿は、好きか嫌いかといえば嫌いだった。東口のニューデイズの前では自分の待ち人を探して目を皿のようにしている人で溢れているし、歌舞伎町を歩けば品定めするように人の顔を見つめる黒服の男たちの視線が身体にまとわりついてくる。

 人の視線。私が最も気にしてしまうもので、最も苦手なもの。

 沢山の視線にさらされて、それでも尚選ばれない自分を自覚させられるもの。


 二重にしただけで、道行く人が振り返るなんていう魔法のような出来事は起こらなかったけれど、それでも私の気持ちはふわふわと宙に浮いた。自分の容姿を誰かに認められることは、私に勇気をくれた。これから行こうとしている場所に向かう足は、少だけ震えていたから。


「あ、この前来た子ね。そこ、座ったら」


 長い髪を腰まで垂らした女店主は、カシューナッツの入った小皿を私の前に置いて言った。

 「カシスオレンジ、ください」と小さく口にする。

 ひどく緊張していたのか、喉がからからに乾いていた。赤とオレンジが混じった液体を飲み干して氷だけになったグラスをカウンターに置くと、店主は少し驚いたような顔をして笑った。


「あなた、顔変えたね。目のとこ、切ったでしょう。別に、そんなに身構えなくたっていいよ、批判してるわけじゃないから」

「麻琴は、来てますか」

「麻琴か。うん、ちょくちょく来てるよ」

「今日は」

「今日は、まだみたいだね。いつも来るのは、バイト終わりがけだから遅いの。あなた、もしかして聞いてないの」


 嫌な予感がして、矢継ぎ早に質問を返す。


「何をですか」

「麻琴、もう次の彼女いるよ。ほら、あそこに座ってる子」


 女店主は赤いランプの下に座っている女を指差した。黒髪を肩のあたりで切りそろえている。ガリガリに痩せている細い身体。ふわっとしたシフォン地のワンピースを身にまとった、弱々しい印象のする清純そうな女だった。歳は10代後半から20代前半といったところだろうか。

 ボーイッシュな女と楽しそうに話している彼女の横顔をしばらく見つめてから、カウンターに向き直る。二杯目のカクテルを手にする自分の指が、カタカタと震えていることにやっと気づく。

 女店主が気の毒そうに私を見つめながら話しかけてくる気配に、うつむいた顔をあげる。女店主の首筋には、三連のほくろがあった。


「麻琴は、節操がないからさ。月替りで女を替える、そういう女なんだよ。あんたに非があったわけじゃないと思うよ」


 注がれたライムサワーの表層に浮かぶ泡がパチパチとはじけて消える。麻琴と過ごした日々。私は大抵、何もかもが終わってしまってから、大切だったということに気づく。

 グラスの下に敷かれたビーズ編みのコースターに視線を向けながら、尋ねる。


「あの、私、かわいいですか」

「うん。あんたはかわいいよ」


 上目遣いに女を見上げると、絡まり合ってねぶり合う、視線。

 目だけで全てを伝えあい、私はそれを了承した。

 深夜三時、私はその女店主の家のベッドの上で裸で横になっていた。


 そのセックスは、麻琴のときとは全然違う、事務的な匂いがした。例えるとすれば、母親が毎日のように洗濯をしていた、父親の灰色の作業着。工場の鉄の匂いのする、簡潔で清潔で、情緒のない衣類のような肉体のふれあい。

 実用性だけを追い求めたそのフォルムを見るたびに、大人として生きる生活のつまらなさに絶望していた中学生の私。サキコさんという女に触れられれば触れられるほど、くすぶるような煙の匂いを私は思い出してしまった。


 さっきまで私の中にあった人差し指と中指でタバコを吹かしているサキコさんのひどく疲れた表情を見ながら、私はしわくちゃになった白いシーツにくるまって眠りについた。

 一人じゃない夜なのに、ただ虚しさが胸を突き上げてくる。窓の外を見ながらだらしなく立っているスリップ姿の彼女もまた、同じような気持ちを抱えているはずだという確信に似た直感を抱きながら、私は泣きべそをかいた。泣き声は聞こえているはずなのに、サキコさんはこちらを見向きもしなかった。それが悲しくて寂しくて、また泣けた。


 誰でもいいわけではなかった。相手がサキコさんじゃなくとも、どんな男でも女でも、私は等しく物足りなさを感じたはずだった。

 私はアルコールも好きじゃないし、タバコもシンナーもしないけど、必要な人にとってはなくてはならない、嗜好品のようなもの。マコトが私に与えてくれるセックスは、そういうものによく似ていた。

 窓から見えるまるい満月の光が、埃のたまったがらんどうの部屋を白く照らす。


 起きてから軽くシャワーを浴びて生乾きの頭のまま、サキコさんが目覚める前に部屋を出た。もう二度と会うことはないだろうと思う。




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