第8話
「どうしたの」
バイトから帰ってくるなり、麻琴は呆然と荷物を取り落とした。麻酔が切れてきたのか、切開したまぶたに強烈な痛みが加えられ始めている。
目の前には普段出会わない生き物に突如出くわした時のようなぎょっとしたような目つきで私を見つめる麻琴の顔があった。大好きな彼女の反応は期待していたものとは少し違っていた。いつもなら欠かさず真っ先にしてくれるおかえりのキスすら忘れられている。
黙ったままじっと私を見つめている麻琴の妙な雰囲気に気持ちが焦り、言い訳のような言葉を連ねる。
「ちょっと、二重にしてみたの。今はメイクとかできないけど、数週間したらくっきりした二重になるみたいだから、待っててね」
「は・・・」
「どうしたの、そんなにびっくりした顔して。CMに出てた二重のアイドル、かわいいねって言ってたよね」
「ちょっと待って」
「麻琴は、喜んでくれるでしょ?」
そっと手を伸ばして麻琴の手のひらに触れようとすると、振り払われる。ぱちん、と軽く叩かれてじんじんと痛む自分の手の甲に目を落とした。どうして?とつぶやくように尋ねると、返ってきたのは遠慮がちに口の端を歪めた薄ら笑いだけだった。
その晩、麻琴は私を抱かなかった。せめてもの償いとでもいうように、麻琴は朝が明けるまでずっと、ベッドの横に置いてあるピンクのマカロンの形をした座椅子に座っていた。そうして、毛布に隠れてこの世の終わりとばかりに泣きじゃぐる私の側に居てくれた。
—私は間違っていただろうか。
私は、彼女に拒否されるようなことをしたのだろうか。
眠れない夜に、答えのない問いが、ぐるぐると頭の中を回る。ぐるぐると途切れなく、回り続ける。
「それは、できない」
三度目の私の心から頼みを鎮痛な面持ちできっぱりと拒否されて、どうして、と追いすがる。問題が深刻化していることに薄々気づいていたけれど、止められない。気持ちが焦るあまり、さっきから上手く息を吐くことができない。行き場を失った空気が胃の中に溜まり続けている。
「二丁目の連中と、縁を切ってほしい」
私がそう口にしたときの、麻琴の硬い表情が私の首を絞めていく。
ピンクと白の淡色でベッドカバーやカーテン家具の色を統一して、水玉や花柄をちりばめた私の完璧な王国が、壊れていく音が聞こえる。
黙ってスルーするのがいい女のやることだと自分の言い聞かせても、高ぶる感情のコントロールは効かなかった。私の爆発は誰にも止められない。
ゆりという女について問い詰めはじめてから、もう小一時間が経っていた。私と麻琴の間で繰り広げられる抗争は混迷を極め、私は麻琴に彼女のような女と縁を切るように迫るほかなくなっていた。
「亜弓ちゃんは、おかしいよ」
ゴキブリを見るような目つきだった。私はそんな麻琴の目つきに苛立って、次から次へと言葉の爆弾を彼女に放った。自分の言う通りに行動することができない女が憎かった。私はこんなに女のことが好きなのに、好きだという気持ちを行動で示しているのに、何も返してくれない、それどころか私の心を弄んで楽しんでいるように見える目の前の女が憎かった。
*
気がつくと一人だった。
部屋は泥棒が入った後のように荒らされていた。水玉の毛布や、リボンの結ばれたテディベア。私の大切にしているもの一つ一つが、床に散乱している。
片付けなきゃという自分の声が頭の中で聞こえる。クマのぬいぐるみに手を伸ばすと、「おそろいで使おうね」とあの子に買ってきた百均のいちご柄の割れたグラスの破片が足に刺さった。
「気持ち悪い」それは私があの子に言ってしまった言葉のひとつだった。
麻琴は気持ち悪い、女が好きなんて気持ち悪い、男ぎらいなんて気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪いきもちわるい。呪いにもなるそんな言葉の数々を、口にしたのは紛れもなく私だった。
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