りんごを、持ち上げてみたり
夏みかん
佳苗さんは、とりあえずなんでも片付けたがるから
僕はりんごを、持ち上げることにした。
かなえさんはどたばたと洗濯物を取り入れては畳んでいた最中で、僕がりんごを持ち上げるのを見て、あ、と声を上げ、口元を抑えた。
それから、たっと逃げ出した。
玄関をつっかけ履いて出て行く佳苗さんのエプロン姿を見て、僕は静かにりんごを下ろした。
佳苗さんは、数ヶ月前、家に来た。
女一つの身で、僕の面倒を見てくれるという。
僕はいつもどおり畳に正座しながらお茶を飲み、あいわかりましたと丁寧に頭を下げる佳苗さんに習って頭を下げた。
佳苗さんはいつも朝早起きしては僕の寝床に緑茶を置いてくれ、僕は前の人と違い温かな緑茶を飲めることを心から喜んだ。
叔父叔母がやってきて、僕の始末をどうするか決めている最中も、佳苗さんはじっと黙って話を聞いていた。
佳苗さんは僕の知らない従姉妹だった。僕より十四も下だ。
僕の母の兄弟の子だということで、この叔父叔母の子供だそうだ。
前々から、叔父叔母は残された僕をどうするか決めかねている様子だった。
佳苗さんはそこに、古民家マニアらしくカメラを引っさげて現れ、家の中に毎日花を飾っては照明を替えたりして、実に明るい我が家にしてくれた。
僕のことも、大切に扱ってくれた。
いつも僕の寝床を綺麗にして、何も言わず見ている僕に慈愛の満ちた目で新しいお菓子と抹茶のご飯を置いてくれる。
ある日、佳苗さんが、猫をもらってきた。
行くあてのない猫、まずは一匹目。
おっかなびっくり僕を見るので、僕は「にゃーおう」と鳴いてよちよち、と手を出してみたが、猫はするりと僕の手をすり抜けてしまう。
「よーしよし」
佳苗さんが猫を抱き上げ、しばらくぶーらぶーらと揺らし、ハワイアンボサノバをラジオで掛けてそこら辺を歩きまわった。
広いリビング、猫の小屋の前、おもちゃを手に取り、ふんふんと匂いをかがせた。
猫はしばらく2階や庭を行ったり来たりされた後、ようやく気を許して、にゃーおと佳苗さんをぺろぺろ舐めた。
佳苗さんはそれから、猫と僕と、1年目の冬を越した。
次に来たのは、老犬だった。
優しげな、悲しげな目をしたゴールデンレトリバーを、まず佳苗さんは風呂に入れた。
温かなお湯で泡を立てて、寝転ぶ老犬をごしごし洗ってやった。
猫を放して、犬に擦り寄らせながら、ゆっくり丁寧にブローした後、やがて大きな籐カゴに入れて、ゆっくりと揺らしてあげた。猫も一緒に。
犬は、ふーっと息を吐いて、静かに眠った。
ご飯はゴボウと白菜、人参を煮たのをミキサーで潰して、冷ましてからあげていた。
うっかり僕のご飯もそれになったのには佳苗さん、不覚なり、と思った。
しかしよく、頑張っている。
佳苗さんはその夜は何も食べずに、ぐっすりと眠った。
2階に若い佳苗さんの豊かな生活を盗み見に来ていた親戚のちよ坊も、この様子を階段から盗み見て、ほっとしてベランダの扉をパタンと閉め、頑丈な鍵を付けておいてくれた。
翌日佳苗さんはその鍵を見て、はてな、という顔をしてから、ちよ坊が駐車場をうろうろするのを見てうっすらと笑い、ねーえ、朝ごはん食べない?と声を掛けた。
ちよ坊は嬉しそうに、これから仕事でんがな!と叫び返し、車に乗って行ってしまった。
次に、佳苗さんは駅前に出掛けて、広くて長い掛け布団を編み始めた。
赤色の、赤とんぼの色。
僕は最近緑茶が粉茶に変わったのを見て、はて、文明とは斯くも進化するものか、美味いのかねと思い舌鼓を打ったら、結構深い味がしてほうっとため息を吐き、佳苗さんを見やった。
犬の向きを色々と買えるのに忙しく、佳苗さんは「これ以上は飼えないわね」と残念そうに呟いた。
老犬は、ジャーニー、という。猫はおセンチのセンチだ。センチメンタル・ジャーニー。
猫が犬に懐いて、ずっとすりすりしている。
犬はふーうと猫を舐めて、やれやれとあくびした。
佳苗さんはブログでセンチとジャーニーの写真をアップしては、二匹のブラッシングに余年が無い。
お陰でセンチは銀色に、ジャーニーは金色に輝いている。
僕のお椀もいつも洗ってくれるので、佳苗さんに未来の恋人になる人を引っ張って連れてきたら、僕の引いた赤い糸をぷつりと切って、佳苗さんはその人を追い返してしまった。
ちよ坊と叔父叔母が、その様を見て「あららー」と溜息ついた。
佳苗さんは永遠の純潔を守るらしい。
ある日、ジャーニーが立ち上がった。
ゆったりと、立ち上がり、わふう、と吠えた。
佳苗さんは僕と食べていたりんごを落として、ジャーニー!と叫んだ。
それからジャーニーはどうっと床に落ち、事切れた。
センチがにゃーにゃー鳴いて、さも悲しそうだった。
佳苗さんは、ジャーニーをちよ坊に燃やしてもらい、灰を持って帰ってきて、家の植物にたくさん撒いた。
ジャーニーは生きて行くのよ、とセンチを抱いて佳苗さんは言った。
センチはニャーニャー鳴いて、ジャーニーを探し続けた。佳苗さんが抱いていても、僕がジャーニーが2階を走り回っていることを伝えても、センチにはわからなかった。猫は人間語を介さない。
センチはにゃーにゃー鳴き続け、そうして後を追うようにどこかへ行ってしまった。
後で庭のチューリップの下で眠っているのを佳苗さんが見つけ、その体を抱き上げ、タオルで拭いて僕の前に置き、しばらく顎に手をやって眺めた。
それから、「生き物は、みんな死んでしまうわね」と言った。
僕は「仕方ないさ、悲しくとも、続いていくんだ」と言った。
佳苗さんは初めてタバコ買ってきて、僕にも勧めた。僕は一本手にとって、吸ってみた。
ラークの一ミリ、ロングだった。
それからは佳苗さんは植物と魚に凝った。
餌をぱくぱくと食べる魚を見て、佳苗さんは「増えるのは嫌だけれど」と言って水槽を増やし、様々なところに飾った。
いつか花を咲かせるさ、と僕は珍しく脇に立って言った。寝床を離れるのは、なかなか勇気のいることだ。
それから、佳苗さんのところに、僕は一人の老人を招いた。
一人で過ごすやり方がわからなくなり、すっかり呆けてしまっている。
佳苗さんはまず、お茶を淹れ、ようこそおいで下さいました、と挨拶した。老人はあい、あい、とにべもない。最早帰る家すらわからない。
それから佳苗さんは、老人の世話を見た。
僕はただ見ていた。
老人がテレビと話す様、魚をじーっと見る様子、水草を見て、なんにもいないんですかー?と探す様子。
ええ、草を育てているんですよ、と佳苗さんは話しながら、老人を美容室に連れて行き、髪を綺麗にしてもらった。
不思議とその時、老人がしゃきりとして、あれやこれや注文を付けた。立派な男前が出来上がり、帰りましょうか、と佳苗さんはその人と腕を組んで帰った。
帰る前に、また猫を拾った。箱入りの子猫だ。
ああ、猫ですなあ、と老人がまだ戻るかどちらかの境で言い、佳苗さんはしばらく見てから、拾いましょうか、と言った。そうしましょう、老人が言った。
猫をブローしながら、あなたの名前は、なんですか、と佳苗さんが聞いた。老人は、石原五郎といいます、とタバコを吸いながら返した。
ご飯ですよ、と呼ぶ頃には、はあい、と元に戻っていた。五郎さんと呼ぶと、僕を振り返って、しっかり食べなさいよ、と言うと、はあいと返した。
それから五郎さんも亡くなり、寺に引き取ってもらいながら、佳苗さんはやはり、死ぬのね、と言った。
ああ、死ぬよ、それでも続けていくんだろう?と僕が言うと、佳苗さんは、ええ、そうよ、と言って猫を頬ずりした。
ある日、ちよ坊が来て、おい佳苗、いいかげんにしろ!と怒鳴った。猫を奪って去っていった。
僕はそれもありだと思った。
佳苗さんが途端、物をすごい勢いで片付け始めた。意味が無い、意味が無いと言って、泣きながら片付けるのだ。
ジャーニーの籐カゴも燃やしてしまった。
魚もみんな流そうとするので、やめろ、と僕は叫んだ。
何よ、死人の癖に!と佳苗さんが叫んだ。
魚は流されてしまった。
佳苗さんが自分勝手に生きようとするので、僕は仕方なく、りんごを持ち上げた。
僕の持ち上げたりんごを見て、佳苗さんは、あ、と言って逃げ出し、それからその先で転んで、わあわあ泣いた。
それから五郎さんの家族に拾われて、その家でお世話になり、また戻ってきた。
死人に口なしと、まだ言う気かい、と僕が問うと、佳苗さんはどこ?と僕を探した。
この家には、佳苗さんのかつて飼ったジャーニー、センチ、魚達、五郎さんと僕が暮らしている。
佳苗さんはそれも知らず、今は料理に腕を振るって、また新しく飼いはじめた猫と一緒に暮らしている。
前みたいに迷子の犬を買い、ブログでもらってくれる人を募っては、新しく引き渡している。
生き物はみんな死んでしまうのよ、それでも良い?佳苗さんは必ずそう聞く。
その上で皆貰われていくのだ。
しかたなく、りんごを持ち上げた手が、うっすらと消えている。
昇天の日は近いと、僕は母の写真を見上げた。
りんごを、持ち上げてみたり 夏みかん @hiropon8n
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