第10話
教室の中はピリピリした雰囲気が漂っていた。山中さんは廊下側の席にひとりぽつんと腰掛けていて、明るくて賑やかな彼女の声が聞こえない。休憩時間になっても、誰ひとりとして山中さんに話しかけようとしないのは、富永愛理たちによる、男子生徒を巻き込んだ大きないじめが開始されようとしていることの証だと理解する。
彼女の背中がいつもより小さく見えるのはたぶん気のせいじゃない。授業中もずっと、目の合わない彼女の後ろ姿を盗み見てしまう。誰かの笑い声が聞こえるたび、身体を揺らす山中さんの姿を見ると胸が苦しくなった。
昼休みの屋上で、私は赤い水玉模様のふろしきをふたつ膝に抱えていた。いつも甘ったるい菓子パンをかじって野菜ジュースを口に含む山中さんを思い浮かべて、今朝つくってきてしまった二人分のお弁当。
いつもよりずっとカラフルな色をしているそれは、ハンバーグに唐揚げにウインナー、卵焼きに鮭、彼女の好きなものばかり詰め込んでみたおもちゃ箱のようだった。
しかし、いくら待っても、山中さんは屋上に来なかった。休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響いたあと教室に戻ると、山中さんの姿はそこにはない。
「ねえ、聞いた?山中さん、しめられてるって。」
「あ!さっきに富永さんたちに連れて行かれるのみたんだけど!やばくない?」
当事者のことなんて微塵も心配していなさそうな外野の声に心がさざめく。
こんなの、笑っちゃうくらいありきたりな出来事だ。グループからはねられて、大した理由もなく周囲から無視される。どんな場所でも、誰にでも起こりうるふつうの出来事。
普段だったら、かわいそうだなんて思わないだろう。なのに、今この瞬間も、山中さんが傷つけられているかもしれない、その事実だけで私は。
気づくと、彼女の肩に手を置いていた。
「どこ。」
「え?何、相模さん。」
「どこ行ったの、山中さん。」
3階の女子トイレ。足が自動的に彼女のいる場所へ向かった。ざわついている人だかりをかき分けて、山中さんの姿を探す。
「あー、本当ウザい、その顔。ぶん殴りたくなるわ」
「ユーコ、もう部活やめたら?誰からも求められてないって」
「そーそー。あ、でも男子バレー部の奴らはがっかりするかもね。ゆーこの顔と胸がいいって噂してたの聞いた」
「えー?どこが?ありえないでしょ、こんなモサくてダサい奴。趣味悪すぎー」
きゃはは、といやらしく笑う声に拳を握り締める。
人の柔らかい部分を傷つけようとして放たれる言葉は、どれもこれも脈絡がなくて的外れだ。ゲーム感覚で富永たちが息を吐くように交わす言葉たちは表層的で深みがない。
後先考えず敵をつくって鬱憤を晴らすことでしか自分の存在を確かめられないような、低能で退屈な奴らの言うことなんて聞く必要なんてない。そう言って山中さんの手を引いてこの場所から出て行きたいのに、黙って俯いている山中さんの表情がよく見えなかった。
ぽとん、と湖に落ちる雫の音。山中さんは泣いていた。山中さんの涙を見た瞬間、私の足はすくんだ。勢いづいていた気持ちがしゅるしゅるとしぼんでいくのが分かる。
「うわ、来たよ。ゲージュツカさん。」
富永愛理の射るような視線を頬に感じて、目線を落としてしまう。私は嫌になるほど弱い人間だった。誰にどう思われるかばかり気にして何も行動できない私は、自分がいじめられることを気にもしないで私と一緒にいたいと言ってのけた山中さんよりもずっと、ずっと弱くてダサくて、かっこ悪くてズルい。
—どうして私の足は動かないんだろう。どうして私の手は、山中さんの手を取れないんだろう。
涙に濡れた瞳で、私を見上げる山中さんを安心させたかった。渇いた口を開こうとした瞬間、顔に向けられたホースから水が噴射される。
反射的に顔をひねるが、富永愛理の笑顔が私の動きを封じた。水は私の制服をたちまちネズミ色に変え、水を吸った制服は肌に張り付く。呆然と立ち尽くす私を見て、涙を流しながら笑う富永愛理の表情は化粧でごまかされていて素顔がよく分からない。怖い、と思った。
「傑作だわ。何その顔。ユーコにもやったげるよ、コレ」
緑色のホースが山中さんに向けられた瞬間、私は富永愛理の頬を打っていた。人をぶったのは、人生で生まれて初めての経験だった。
にぶくしびれる手のひらに、富永愛理の頬の感触が残る。アホ面をしたいじめっ子三人組を残して、私は山中さんの細い手首をとって走って逃げた。
まとわりつく周囲の視線や、向けられる奇異の目を無視して、足を前に出す。気持ち良い。生きている。私は今この瞬間を生きている、と思った。
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