第2話


「相模さん、あなた、顔色が悪いけど大丈夫?」


 私を見下ろして心配そうな表情をつくっているのは担任の女教師の飯坂早苗だった。さなえちゃん、と呼ばれているこの教師は「若い女性の先生」ということになっていて、男子生徒から特に人気が高い。ブスではないけど可愛くもない飯坂早苗が生きていく手段は、男に媚びつつ、女に弾かれないポーズをつくること。社会から遮断されている学校という環境の中で、飯坂早苗は求められるままに自分の役割を全うしているのかもしれない。


「別に、大丈夫です。」

「飯坂さん。先生、休み時間や教室移動の時間に一人ぼっちで行動するのはよくないと思う。もっと自分からみんなに話しかけないと、孤立しちゃうかもしれないから。」


—もうすでに孤立している。

 

 そう言いたかったけれど、不良になりきれない私は無言で頷いた。空気のような扱われ方に慣れようとしているところなのに、何てピントのずれたアドバイスだろう。それでも飯坂は満足したようににっこり笑い、「それじゃ、また明日ね」と馴れ馴れしく言った。

 


 

 コバルトブルーの水彩絵の具のチューブをパレットに押し出すと、画材特有のツンとした匂いが鼻をくすぐる。

 キャンバスやデッサン人形であふれている混沌とした美術室で黙々と筆を動かしていると、次第に心が安らいでいく。



 学校でも家庭でも居場所のない私が、唯一自分で居られる場所がこの美術室だった。それまでいた部員は昨年度に卒業したらしく、たった一人の新入部員である私は、幸運なことにこの部屋を独占することができる。


 入部してから描いているのは、水の中に沈んでいる女の子の絵だった。少女の着ているセーラー服のひだに陰影をつけていると後ろから視線を感じて、振り向く。鯨井先生が私の絵をじっと観察していた。


「そのまま、続けてください」


 美術部の顧問教師の鯨井先生は美大出身の元画家である。

 家に置いてある美術手帖のバックナンバーをパラパラとめくっていると、先生の作品が大きく載っていたので驚いた。


 それは曇り空一面に広がった蜘蛛の巣を描く絵で、一言で表すと「不気味」。クラスのつまらなくて退屈な女の子たちなら「キモい」と一笑して終わるんだろうけど、私は見た瞬間、その絵のことも、先生のことも好きになってしまった。絵の知識も教養もない私でさえ、この絵は本物だとまっすぐに感じてしまうような絵だったから。


 だけど、先生が生徒の指導以外に筆を折っているところを見たことがない。もう絵は描かないのか、絵を描かないのは何故なのか、という問いを先生にぶつけることもできなかった。

 土足で人の大事な部分に踏み入ってしまうようなことは避けたかったから。


「今描いている絵は、春の県コンクールに出しましょうか。相模さんらしい、素敵な絵に仕上がってきましたね。」

「ありがとうございます。ここの部分の色がきれいに出てほっとしてます。」


 先生の声には、人を攻撃したり、見下したりするようなトーンが一切ない。自分の立ち位置が他人よりも上か下か、決めてからでなければ安心できないクラスメイトとは違う。先生は私という存在ときちんと向き合ってくれていると思った。

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