第5話 マガ

 マガの寿命の14日目になってしまった。


 その日も僕はいつも通り、塾が終わった後に廃アパートを訪れる。


「野辻。最後の食べ物はなんだ」


「雪、だよ」


 廃アパートの中で、野辻はマガを可愛がりながら事もなげにそういった。


「雪? また難しいな。ちょっと前まではこっちでも降ってたけど」


「大丈夫」


 野辻は、アパートの中にあるふすまを開けた。すると昨日まではなかったはずのクーラーボックスが出てくるではないか。


「前にふった雪をね、ちゃんと取っておいたの。だから大丈夫」


「……そっか。なぁ」


「やめないよ」


 間髪をいれずに、野辻はそう言った。僕は言葉もなく俯く。


 その横をマガが元気に通り過ぎた。三つの瞳をぱちくりとさせ、元気いっぱいにとび跳ねる。


「……なぁ。今日が寿命って言ってたけど、全然元気に見えるんだけどさ。もしかして」


「うん。マガの寿命は、この雪を食べた時」


「マガを殺すのか」


「違う。食べて初めてマガは意味を持つ。禍兎は、存在そのものが呪いだから。だから、ここで雪を食べなくても日を跨げばマガは死ぬ。でも少なくとも、雪を食べればマガは正しい存在として死ねる」


「呪いが正しい存在なのか」


「それが禍兎の寿命なんだよ。……私たちがよぼよぼになって、見ず知らずの人に介護されて、無理やり永く生かされて、機械の中で死んでいくのよりずっとハッキリしてていいと思わない? それに、死ぬことで何か意味を持つのなら、それは正しいと思う」


 僕は野辻の言ったその言葉がむちゃくちゃだと思った。それと同時に、少しだけ本心が透けて見えてきたような気がする。


 だから。


「そんなこと、思ってもないくせにベラベラベラベラ何言ってんだ」


 叫んでやった。ここが廃アパートで、声を潜めなくちゃいけないことも度外視して。


「お前、そうやってわけわかんない理屈で、納得したいだけじゃんかよ」


「違う。ともかく私は願いを、叶えなくちゃいけないの」


「やっと分かった。お前の殺したいやつ。……お前、自分を殺す気だろ」


「え」


「野辻の事情は、よく分からないよ。でも、今お前は死ぬことに、必死に意味を見出そうとしてる。だったらそれは、誰かがふいに死んだ時か、自分がこれから死ぬ時ぐらいだろうが」


「……だから、何? そうしたほうが良い時だってあるでしょ」


「ない。あると思ったなら、それはお前の限界だ」


「限界? そうだよ。限界だよ。本当は事情、おじいちゃんから聞いてるんでしょ。知ってるよ。二階からでも、話し声は聞こえるから」


「ああ、聞いてる」


「7年も憎んでたのに、全部嘘だった。だからお父さんに、何度も謝りに行こうとした。たまに届いた手紙を読まずに燃やしたことを、たまに掛ってくる電話に酷いこと言って切ったことを、町で偶然会った時にも無視したことを! でも、出来ない。怖くて、怖くて」


「ああ」


「マガを拾って、禍兎の力を知った時、最初はお母さんを殺そうって思った。でもすぐにその考えは出来なくなっちゃった。だってお母さんだもん」


「……」


「ねぇ、私どうすればよかったの? ちゃんと勉強もしてきたよ? 喧嘩だってしなかったよ? 悪いことだってしてない。なのに、なんで私ばっかり嫌な思いをしなくちゃいけないの。死んだ方がずっと、ずっと」


「野辻、お前」


「だから! お父さんに会おうと思ったけど結局会いに行けなかったあの日に、マガに会えたのは、きっと、私を、あの子に殺してもらうために」


「……いっぱい我慢してきたんだ。毎日、必死に生きて」


「やめて。そんな報うようなことを言わなくてもいい。そんなことしたって」


「そうしなくちゃ、お前、本当に取り返しがつかなくなるだろう」


「取り返しなんて」


「お前がマガを殺したら、今度こそ本当に報われなくなるんだよ!」


「だから、報いなんて」


「お前、誰よりマガが好きじゃんかよ!」


 野辻は、マガが雛野林道にいることを僕よりも早く気付いて到着していた。


 それはつまり、彼女が僕以上にマガという兎に良く似ているか、それともマガの考えなんてお見通しと言わんばかりに、マガのことが好きだからか。或いはその両方であるか。


 そうでなくてはあんなに早く気付けないはずだと、少なくとも僕は思った。


 野辻は、押し黙る。動きもなく、吐息もなく。そんな様子を心配したのか、マガは野辻の足元に寄って野辻を見上げた。


 マガの頬に、雫が落ちる。マガはそれに驚いて、ふすまの方へ走り去ってゆく。


「好きだよ……友達だもの……」




 月が浮かぶアパートの窓ガラス。その下で、僕と野辻は隣同士で座りあっていた。畳の上で元気に走り回っていたマガも、今は野辻の足元で体を丸めていた。


 あと5分で明日になる。そうなったとき、マガは恐らく死ぬ。呪いとして生まれて、誰も呪わず死んでいく。


「もうすぐ、終わるね」


「ああ」


「那須君、私、頑張ってみる」


 野辻の言葉には、もう震えはない。力強さすら窺えた。


「なら僕は、野辻が頑張ってるのを見てるよ。出来るなら、野辻の頑張りを報いてやる。野辻が休む時には、僕が全力で休めるように頑張る」


「私のためだけにそんなにしなくてもいいよ」


「いや、決めたんだ。だって僕は……いや、まぁ。いいや」

 これは、まだ言わなくていいことだ。今は、マガを少しでも長く。


「……マガ、眠いのかい?」


 僕は雪のように白い君に、そう声を掛けた。



 春先の寒さを感じて、僕はまだマフラーは手放せないなと思った。無事受験も終わり、その日は高校の説明会の帰り道である。


 その帰り道で、僕は例の廃アパートが四月には取り壊されることを知った。

どう知ったかといえば、まさにその場所を通りすがった時に、その旨が書かれた立て札が立っていたからである。


 少しセンチメンタルな気分にでもなるかと思ったが、意外とそうでもない。そんなもんだと受け止めることが、僕には出来ていた。


 僕は廃アパートを横目に見ながら、先を急ぐ。待ち合わせをしているのだ。メールで、彼女の試みが成功したということは聞いたが、直接口から聞くのは初めてだったりする。


 そして僕も、今日初めて彼女に言わなくちゃいけないことがあった。マフラーをはためかせ、心の底の怯えを隠すようにずんずんと歩く。


 足元をひゅるりと冷たい風が通り過ぎた。今はいない友達が、僕の背中を押してくれたのかもしれない。そうだといいと、思う。




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禍(マガ) モズク @Mozukuku

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