第3話 恨

「その時、慌ててその子ウサギを連れて帰って来たのは、ただ可哀そうだったから。でも目が三つある兎なんておかしいでしょ。用意したご飯も全然食べないし、そう思って少し調べてみたら禍兎のことが出てきたの」

 

 僕の前で手を腰の後ろで組みながら、月を見上げて野辻はそう語る。


「偶然の出会いだったけど、私は神様からのプレゼントなのかもしれないってちょっと思ってたりするんだ」


「プレゼント?」


「うん。マガと会ってから楽しいことばっかりだもん」


 ネットで禍兎について知った時は野辻も半信半疑であった。


 しかし用意したミルクをまるで飲もうとしてくれないので、縋るような思いで試してみることにしたのである。

 

 最初の餌は、塩であった。そんなものを食べるわけがないと野辻の疑念は深まるばかりであったが、試しにマガの目の前にぱらぱらと塩を撒いてみる。

 

 するとどうだろう、さきほどまで衰弱し元気のなかった子ウサギが勢力的に塩を舐め始め出したのだ。

 

 床にまいた塩では足りなかったようで、野辻の足元に近寄ると「もっともっと」と言わんばかりに脛を頬でこすりはじめる。

 

 野辻は変な笑いが出そうになるのを堪え、そして自分の部屋の床に塩をぶちまけてやった。子ウサギは床を踊る塩が嬉しいのか、はしゃぐように跳ねるとまた塩を舐めはじめた。


「その時は本当に驚いた。だって塩を食べる兎なんて聞いたことないから。でも次の日はあんなに欲しがってた塩を食べることはなかった。次の日の餌は塩じゃなくて、油だったからね」


「本当、食にわがままなやつだよな」


「そうだね。好き嫌いってわけじゃないから、ちょっと我儘とは話しが違うのかもしれないけど」


 その時、その日一番の冷たい風が吹く。流石の野辻も少し、肌寒そうな表情を浮かべた。


「もう帰ろうか」


「うん、そうだね。ありがとう、那須君。話し付き合ってくれて」


「あ、ああ!」


 その時の野辻の『ありがとう』こそ、僕が欲しかった『ありがとう』だったんだと思う。さっきのと何が違うのか答えるのは難しいけど、今が幸せだということは間違いなかった。




 それから僕らは毎日、塾が終わった後に廃アパートで落ち合う。野辻とは、塾のクラスは同じだが学校は違うので、そこでしか会うことはない。


 非常に限られた時間だが、僕は自然とその時間が、もっとも楽しみな時間になっていた。


 それに塾も学校もない土日でも、マガはお構いなしで餌を欲しがってくれるので、毎日野辻とは顔を合わせることが出来る。

 

 マガも僕の顔も覚えてくれたようで、僕が部屋を訪れると足元まで駆け寄ってくれた。


「おぉ、マガ。元気かぁ」


 僕は屈めてマガの首の後ろを撫でてやる。するとマガは気持よさそうに身をよじる。

 

 僕もこいつのツボが分かってきたのだ。僕がマガを撫でれば撫でるほど、気持よさそうにとろけてゆく。それが嬉しくて僕はもっとマガを撫でくり回してやるのだ。


「お、もっとか。もっとかこいつ」


 もう僕がマガに対して、最初の頃のような気味悪さを感じることはなくなっていた。


「那須君」


 そう後ろから声を掛けられて、僕とマガ


 今日も、そんな日曜日だった。僕が野辻と会ってちょうど一週間経った時である。アパートには昼下がりの陽光が降りていた。


「どうしたの、野辻」


 僕がちょうどアパートの扉を開けて、目に入ったのが彼女の狼狽した様子だったのでそう声をかける。


「那須君? どうしよう、マガが餌を食べてくれないの」


「餌? 今日の餌はなんだよ」


「お金。でも、食べてくれないの」


「お金? 相変わらず怪獣みたいなやつだな……」


 アパートの中央にはマガと、小銭と札がまばらに置かれていた。


 しかしマガは、転がる現金にはまるで興味を示さず、そっぽを向いて自分の腕を舐めることに専念している。


「今日は別の餌だったんじゃないの?」


「ううん、それも何度も確認した。でも、確かに今日はお金の日って書いてあったし……。もし違うとしたら、何を食べさせればいいのか分らないよ」


 殆ど泣きそうな顔で野辻はそう言う。なんとかしなければと僕は思い、じっとマガとお金を見つめた。その時、ふと僕の脳裏に閃きが走る。


「これ、日本のお金だから駄目ってことはないかな?」


「……え?」


「いや、元々マガって中国の兎なんでしょ。ほら、今までマガに食べさせてきたのは日本も中国も共通のものだったけどお金は製造方法とか考えると、違うのかなって」


「……つまり、外国のお金ならだいじょぶってこと?」


「う、うん、多分」


 野辻の涙目がやや官能的で、僕は頭を掻きながらそっぽを向く。野辻は袖で目元を拭うと「良かった」と呟いた。


「で、でも中国のお金なんて、僕は持ってないし……」


「それは大丈夫。私のおじいちゃんがそういうの、いっぱい持ってるから」


「そうなんだ」


 そう言うと野辻は、マガの頭を撫でる。そして立ち上がると、アパートの出口へ向かう。


「これからおじいちゃん家に行って、取ってくる」


「分ったじゃあ僕はマガと」


「那須君、一緒に来てくれないの?」


「え、でも僕、行っていいのかなって」


「うん」


 やたらマガが跳びはねたのは、僕の代わりに喜んでくれたからなのかもしれない。



 

 野辻のおじいちゃんは、同じ市内に住んでいて市の中心部からは外れた過疎区に住んでいる。

 

 静かな住宅街の中で、庭先に柿の木が伸びている家が野辻のおじいちゃんの家だ。


「夏目ちゃんがまさか、友達を家に連れてくるとは思わなかったなぁ」


 炬燵で寛いでいると、暖かそうなフリースを着た、野辻のおじいちゃんが僕にお茶を淹れてくれた。


「ありがとうございます」


「いやいや」


 野辻は今、この家の2階にある倉庫でおじいちゃんのお金を探している。

野辻が一人でやっているのは、僕らの言葉も聞かずに一人でやると言い切ったからだ。


 多分、これからもマガに餌をあげることが出来るというのが分かって、嬉しいのだと思う。


「あの子、気難しいだろう」


「え、あはは。まぁ」


「もともとは、もう少し明るい子だったんだがね。学校のクラスメートかい?」


「いえ、塾のクラスメートです」


「おお、そうか。そろそろ受験が始まる。大変な時期だよなぁ」


「ええ、そうですね。……あの、聞きたいことがあるんですけど」


 僕の聞きたいこと。それは、野辻が最初に言っていた願いのことだ。


「野辻さんって、こう。誰かをすごく嫌いだったりします?」


  誰かを殺す。それが彼女の願いだった。彼女と過ごす日々は、楽しくて仕方がなかったのだが、それがずっと心残りだったのである。


「嫌い、か。……最近まである一人を心の底から嫌っていたよ」


「誰です」


「あの子の父親だ。……だが、今は違うのかもしれない」


「どういうことです?」


 僕は生唾を飲み込んだ。


「夏目ちゃんは、幼稚園の頃に両親が離婚をしてな。夏目ちゃんは母方、つまり私の娘に引き取られた。どうやらその時に、離婚の原因や不幸を全て父のせいだとそそのかされたみたいでな。長い間、父を恨んでいた。でも最近、そのすべてが誤解であると知ってしまってね……」


「誤解?」


「離婚の原因は、夏目ちゃんのお母さん。つまり私の娘が他の男の人を好きになってしまったことが一番大きな理由だったんだ。でも、そんなことがバレたら夏目ちゃんに嫌われると思ったんだろう。だから私の娘は夏目ちゃんに嘘をついた。でもそんな嘘、些細な切っ掛けで分かっちゃうものだろう」


 僕は重く、頷く。


「仲直りをするために、らしくない手編みのセーターなんて作ってたけれど……それで夏目ちゃんが納得したとも思えない。だから。だから、ひょっとすれば、今一番恨んでいるのは母親かもしれない」


 何かを言おうと僕は思うが、決して言葉は出てくれない。


「何故、僕にそこまで教えてくれるんです?」


「誰かに話したかったんだろう。少し私も疲れているようだ。……君は、こんな情けない大人になっちゃダメだよ。そしてどうか、あの子を支えてあげて欲しい」

 

 やがて、野辻が物を見つけて一階へ降りてきたところで、この話の腰は折られることになった。


 野辻のおじいちゃん家からの帰り道で、おもいがけないサプライズに見舞われた。

 

 雪である。等間隔で並ぶ電灯に光が灯り、降る雪を妖しく照らした。

 

 閑静な田舎道であれども、その光景は幻想的にすら映る。


「朝から寒いと思ってたけど……まさか降っちゃうとはね」

 白い吐息と一緒に野辻はそう言う。


「ちょうど良かった」


「え?」


「ううん、なんでもない。……那須君」


「ん?」


「ありがと。色々と」


「いや。僕は。……なぁ野辻。誰かを殺したいって言ってたろ。それって、誰のことなんだ」


 確かめたかった。


 本当はこんな質問はしちゃいけないんだろうけれど、あの話を聞いた後では我慢出来なかったのである。


「……。那須君。その質問はしないで。悪いけど」


「でも。殺すってなると、それって」


「そういう質問をするなら、もうあのアパートにも来ちゃダメ」


「でも」


「分かってる。那須君には助けられているから、願いを叶える権利は那須君にあげるよ。その時になったら呼ぶから」


「そういうことじゃない。そういうことじゃないけど……」


「那須君は何も考えなくていい。なにも知らなくていい。……マガと一緒に、私の傍にいてくれたらそれでいいから。……ごめん」


「いや」


 僕は、彼女のこの小さな背中をどうすることも出来ない。何か言葉を送るには経験が足りず、何か行動を起こすには頭が足りない。


 その瞬間、僕は自分の無力を心の底から実感する。


 無事、マガは野辻が取ってきたお金を食べてくれたのだが、その日のまとわりつくような釈然としない気持ちは、重く僕にのしかかったままだった。


 それから引っかかりはあれども、意外なほどに野辻とマガとの日々に変わりはなかった。


 部屋の中でいなくなったマガを探したり、突然やってきた不動産業者に見つからないよう二人と一匹で息を潜めたりと多少のハプニングにも見舞われたが、順調なままでもある。






 だがそうしていられない瞬間が訪れた。マガが部屋の中でなく、部屋そのものから忽然と姿を消してしまったのである。





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