第2話 名前をつけよう


「この子は六日前に生まれたばかりなの。ゴミ捨て場の死体の中から」


「え」


「知らない? 雛野林道近くのゴミ捨て場。やたら動物の死体が捨てられているさ。駅の小汚いペットショップの人が、売れなくなった動物を捨てているんじゃないかって話だけどね。……那須君は、この子のこと知りたい? ネットで調べた情報だけど、今のところ間違いはないから多分あっていると思うよ」


 僕は、ぎこちなく頷いた。思うところは色々あれども、何も言えなかったのは饒舌に何かを語る野辻に圧倒されたからかもしれない。


 そして野辻は、兎の頭を撫でながら得意げに説明を始める。

 

 その兎は、禍々しい兎と書いて、禍兎(カト)と呼ばれる生き物らしい。

中国から伝わる空想上の生き物で、三つの瞳は、それぞれ過去未来現在を見通すと言われている。


 禍兎は、存在そのものが呪いであり、普通に生まれてくることはまずない。

生まれるのは決まって、孕んだまま死んだ兎の腹の中からだ。


 さてそんな禍兎だが、この生き物は実は14日間しか生きることが出来ないという。そして寿命を終えた禍兎は、ある現象を引き起こす。それは。


 「一人を殺して、一つの願いを叶える」

 

 野辻は神妙な顔してそう言った。


「それは、どういうこと?」


「寿命まで育ててくれた人の願いを、誰か一人を犠牲にすることで叶えてくれるの」


「野辻には、何か叶えたい願いがあるってことか」


「うん、世界征服」


「……それ、マジで言ってんのか」


「半分冗談。願いがなにも思いつかなかったらそうするよ」


「は?」


「私の望みは、ある一人を殺すことだから。なんでも叶えてくれるほうの望みは、副産物って感じかな」


 野辻の望みに、僕は言葉を失う。否定しなくちゃいけないのかもしれないが、事情を知らないで否定するのは嫌だった。


「そうなんだ」


 だからそうやって無難に言葉を返す。


「うん。なんだったら、那須君のお願いを叶えてあげようか」


 野辻の申し出に、僕は動揺した。「いいの」と聞くと間髪いれずに答えが返ってくる。


「うん、いいよ。その代わり、ちゃんと手伝ってくれればね」


「具体的には何をすればいいんだ?」


「まず説明しておきたいのは、禍兎を育てるにはルールがあるってこと。例えば寿命までの14日間毎日食べるものが違うの。ある日は塩だったり、ある日は油であったり。それで今日は、これ」


 野辻は、ポケットからシャープペンシルを取り出した。彼女は無心に芯を出し続ける。暗い部屋にカチカチという音が響き、ついにペン先から伸びる芯はライターほどの長さまで到達する。


 野辻はその伸びた芯を、兎の口先に持っていく。すると兎は、ためらいなく芯を食べ始めた。


「シャー芯、食ってる。兎が」


「今日は炭。純正のものでなくても、食べてくれて良かった」


 信じられないという風に僕が兎を見つめていると、野辻は挑発的に尋ねる。


「疑ってた?」


「そりゃまぁ。正直、それでもまだ信じきれてないし」


「当然だね。でも私は信じてる。この子は、私の願いを叶えてくれる。……本当、奇跡みたいな出会い」


「……で、僕はどうすればいいんだよ?」


「明日、この子の食べるものを調達して欲しいの」


「何を?」


「蛙」


「か、蛙? でも今の季節はいないだろ。冬だぞ」


「でもウシガエルとかの幼生なら、冬でも居るって聞いたの。だから、それを取ってきてほしい。駄目かな」


「……分った。頑張ってみる」


 僕の答えは、そんなに以外だったのだろうか。野辻は少しだけ、驚いたような表情をしたあと、柔和な表情を浮かべる。


「うん、頑張って。……それじゃ明日、同じくらいの時間にまたここで」


 僕が彼女の頼みを安請け合いしてしまったのは、兎の叶えてくれる願いというものに興味を引かれたからということもある。


 でもそれ以上に、はにかむように笑った彼女の為になりたいと思った。そんな理由だった。


 学校が終わり、塾までの時間に裏山で蛙を探している間は安請け合いしたことを後悔したものだが、なんとか見つけ出し、虫かごに閉じ込めることが出来た。


 その蛙を虫かごを鞄に入れて塾へ行き、塾が終わったらすぐにアパートまで急ぐ。

 

 ちなみに、塾の中で僕らが話をすることはない。気恥ずかしさもあったし、僕自身、塾の中であまり話をするようなキャラクターでないということもある。

 

 アパートの扉を開けると、窓越しに月を見上げる野辻が居た。


「那須君?」


「うん、持ってきた。蛙」


「ありがと。禍兎はさっき押し入れの中に入っちゃった」


 僕はその言葉を受けて、押し入れを開ける。音に驚いたのかぎこちなく跳ねて、その後、僕を見上げて首をかしげる禍兎が居た。


 やっぱり目が三つあることを確認して、僕は底知らぬ気味悪さを感じる。でも背後の野辻を気にして、僕はそっと禍兎に手を伸ばす。


「よう、飯持ってきたぞ」


 耳の後ろを優しく撫でると、禍兎は気持ちよさそうに身をよじらせる。こうしてみると普通の兎なんだけどなぁ。


「……なぁ、野辻。こいつは名前とかないのか?」


「名前? とくにないけど」


「つけたほうが良くないか? ずっと禍兎なんて味気ない呼び方はなんか変だろ」


「そうかな」


 野辻は、塾で授業を受けている時のような生真面目な表情で禍兎を見つめる。


「僕がつけてやろう。ショコラとかどうかな」


「……」


「駄目かぁ……」


「あ、ごめん。でもこの子はその、そういう甘そうな感じじゃない気がして」


 なかなか注文をつけるやつだな。僕は少し思考を働かせてみる。だが、これだというネーミングはまるで浮かびやしない。


「ま、が」


 野辻は躊躇うようにそう呟く。


「え?」


「あ、いや、なんでもない。ごめん」


「いや絶対なんか言っただろ。マガ? こいつの名前の候補か」


 野辻は自分でもおかしいと思ったのか、顔を真っ赤にして、全然違うといわんばかりに手のひらを横に振るう。


 僕は少し考えて、それが禍兎の禍の部分を訓読みしたものだということに気付いた。


「……なんかちょっと毒々しい名前だな」


「だから違うって言ってるじゃない。違うの。今のナシ。もっと良いの考えるから」


「他のにする? でも確かに毒々しいとは思うけど、悪くはないんじゃないかなって思うんだけど」


「……馬鹿にしたくせに」


 そんな風に拗ねてしまった野辻を宥めるのに、少しだけ時間がかかった。


 そんな小さな諍いはあったけれども、結局僕らの育てる禍兎の名前が「マガ」という名前に決定したのは、互いにしっくり来ていた証拠だろう。


 さて、いい加減待ちくたびれているだろう「マガ」に餌を与えようと鞄を開けた時、野辻は静かに立ち上がると出口へ向かって歩いてゆく。


「野辻?」


「悪いんだけど、マガ……に餌は那須君が与えてくれるかな?」


「いいけど、野辻は?」


 少しの時間を置いて、野辻はぼそりと「蛙、苦手だから」と言って外へ出て行ってしまった。


 部屋には僕とマガの二人きり。なるほど、僕に蛙を取りに行かせた理由はこんな単純なものだったのかと笑いが零れた。


 一人楽しそうにする僕の隣で、マガはじっと虫かごの中の餌を見つめている。虫かごの中身は、辞世の句を「ゲロ」と詠んだ。



 それから、僕と野辻とマガを含めた奇妙な時間を過ごすことになる。



 蛙をまるまる一匹食べ終えたマガが、翌日に欲したものは毛糸であった。


「本当にそれ、いいの?」


「いいの」


 僕がそう尋ねたのは、野辻がマガに与えようとしているのが結構しっかりした作りの毛糸のセーターだったからである。


「毛糸だったら百均にも売ってるよ?」


 僕は足元の紙袋に詰め込まれたセーターに目を落としながらそう尋ねる。


「私がこれをあげたいの」


 野辻は廃アパートの一室で、マガを慈しむように撫でながらそう言った。マガはそれが心地よいのか三つの目をうっとりと細めている。


「那須君」


 そう声を掛けられ、僕はしぶしぶ紙袋の中からセーターを取りだした。そしてその時、偶然にセーターに施された刺繍の文字を見つけてしまう。


 服の片隅に小さく書かれた「NATHUME」の文字。それは、そのセーターが誰かの手作りであることを簡単に予感させた。


 僕はまた不安げに野辻を見る。野辻は有無を言わさぬ強い意思の籠った瞳で僕を見つめ返した。

 

 僕は何も言わず。いや、何も言えずセーターをマガの前に置いた。

 

 マガは鼻をひくひくとさせると、野辻の手元からセーターへ歩く。そして、夢中になってセーターに齧りつき始めた。


 「ありがと、那須君」

 

 野辻からお礼の言葉を聞いても、僕はちっとも嬉しくなかった。僕が納得していないからだろうか。それとも、野辻の瞳の奥にどんよりとした暗い何かを見つけてしまったからだろうか。


「ありがと。マガ」


 マガは彼女のお礼を理解しているのだろうか。マガは一心不乱にセーターに齧りつく。セーターがどんどんと小さくなっていくにつれ、僕は何だか悲しくなってきた。


「それじゃあね、おやすみ、マガ」


 マガが全てを食べ終えた後、野辻はそう言って押入れの襖を閉める。マガはすでに押入れの中で眠りに落ちていたので、特に何かを反応を返してくれるわけもなかった。


「行こうか、那須君」


「うん」


 マガに餌を終えた後、僕らは黙って帰り道を歩く。昨日は一言も話さず、僕らの帰路は別れた。今日は何か話してやろうと思っていたけれども、セーターの件が頭を離れずどうにも口が動いてくれなかった。


 僕は先を歩く野辻の後ろ姿を盗み見るように視線を向けた。綺麗な黒い髪が歩くごとにふわりと揺れて、シャンプーの良い匂いが鼻を掠める。


 等間隔に設置された電灯が、うなじから覗かせる白い肌をやけに艶やかに照らすので僕は慌てて眼を逸らした。


「ねぇ」


「え、あ、え?」


 野辻が振り向かないまま、突如話しかけてくるものだから、僕は素っ頓狂な声を上げてしまう。


 とんでもなく恥ずかしくて、僕は俯く。それが彼女にはおかしかったのか、少しだけ笑う。そして野辻は振り向くと。


「那須君ってなんだかマガに似てるね」

 

 なんて言う。また僕は「えっ」なんて馬鹿みたい声をあげて、その上、右手が思わず額に伸びてしまうのだからこれまた恥ずかしい。

 

 野辻はそんな僕の様子を見て、今度は思いっきり笑った。

その時僕は恥ずかしいという感情よりも、野辻が思いっきり笑うという姿が見られたことの新鮮さが勝って、茫然と野辻を見つめていた。


「ごめんね、なんか笑っちゃって」


「……あ、ああ。別にいいよ。……あんま見られないものも、見られたし」


「え? ……ああ。うん、そうかもね。確かに久々に笑ったかも」


「まぁ受験があると、あんま笑えなくなるよな」


「そうだね。それに、特に最近は笑えてなかった。何にも面白くなかったし」


 僕はその言葉に応じようとして、何も言えなかった。

 僕の抱える問題は、受験勉強が大きく占めている。しかし彼女は、きっとそれ以外の何かを抱えている。それが何なのかは分からないが、気軽に同情したり、適当に相槌を打つような真似はしてはいけないような気がしたのだ。


「那須君」


 固まる僕に、野辻は優しい微笑みを浮かべて。


「少し寄り道しない?」


 そんな甘美な誘いの言葉を向ける。僕は弾かれたように頷いた。


 僕らはいつもの帰り道から少し外れて、大きなマンションの傍にある小さな公園のベンチに腰掛けた。


 腰かけたはいいものの、話題がない。僕はてっきり野辻の方から話しを振ってくれると思ったのだが、野辻は隣に座った途端黙って何も言わなくなってしまった。


 僕は「今日の天気」や「明日の天気」など貧困極まりない話題を放ってみるが、当然良い反応など得られるはずもなかった。


「……」


 胡乱気な表情で、僕の隣に座る野辻を見ていると恐ろしくなる。「つまらない」なんて言葉がいつ飛び出してくるのかと思うとドキドキした。


「そういえばあのセーター、誰の手作りなんだ」


 だから聞きたいけれど、聞くべきでないその質問がつい口を滑って出てきた時は、僕も後の祭りというやつを痛感し、顔が青ざめる。


 野辻は少し反応して、しばらくしたら小さな声で「お母さん」と答えた。


「ふーん」


 僕は何でもない風を装って、そう答える。瞬間、となりに座る野辻が急に立ち上がった時、僕は彼女に嫌われたと思って腹の底が重く冷えた。


「那須君、私がマガと初めて会った時のこと聞く?」


 しかし野辻は、いつも僕の予想の斜め上をいく。呆気にとられたが、僕だっていい加減変な反応はしたくない。だから。


「き、聞いてやろう」


 少し強めに返事しようとしたら逆にぎこちなくなり、結局また野辻には笑われる。でも、その笑顔のお陰で五秒前の不安はすっかり吹き飛ばされてしまった。


 野辻がマガと出会ったのは偶然だ。


 野辻がある人に会うべく雛野団地を訪れ、その帰り道に近道として団地付近の小山を利用したのが切っ掛けである。

 

 あまり市の手入れが行きとどいていないので鬱蒼としていて、舗装もされていない部分も多いのだが雛野団地から野辻の家方面へ向うのにそれ以上の近道はなかった。


 切れかかった電灯の道を歩く野辻が、道の脇に放置された犬の死体を見つけることが出来たのは、ふと目に入ったからに他ならない。


 死体は犬一匹ではなかった。それに覆いかぶさるように赤茶色の犬も棄てられ、さらにその近くには白い兎の死体も野さらしにされていた。


 不気味に思う野辻は視線を死体から外してさっさと帰ろうとしたのだが、かすかに何かが蠢くのを感じて立ち止まる。

 

 再度死体に視線を向けると、そのうちに兎の死体の腹が確実に動いたのを感じた。


 野辻がそれを凝視していると、やがて兎の死体の下から一匹の子ウサギが這い出てきた。明らかに弱っている様子で、這い出た後ほんの少し歩いたと思えばこてりとすぐに倒れてしまう。


「あぁ」


 野辻は急いで駆け寄った。その時、野辻は初めて兎の眼が二つ出ないことに気付くのである。

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