禍(マガ)

モズク

第1話 飼育する禍(わざわい)

 塾の帰り道。僕は同じ進学塾に通う、野辻夏目を追いかけていた。

 

 野辻夏目と僕との間には、基本的に接点はない。向こうは僕のことを地味なクラスメートだと思っているだろうし、僕もまたしかりである。


 ……僕よりは、ずっと頭が良いけども。


 そんな野辻をなぜ、僕がこうしてこそこそと後をつけ回しているのかと言えば、数日前に彼女が廃墟となったアパートの中にこそこそと入っていくのを見かけたからだ。


 廃墟のアパートは、僕がコンビニを経由して家に帰る時に使う通り――――人気のない駐車場の傍にあった。


 塾は22時近くの時間に終わるので、日もとっぷりと暮れた時にその廃墟のアパートを見かけることになるのだが、その怪しさには背中を冷たくするものがある。


 そんな出来れば見たくないアパートの敷地に、何となく知っているクラスメートが吸い込まれるように入っていったのなら、気にならないわけがない。


 野辻はアパートの前までたどり着くと、辺りを見回し始めた。警戒しているようだ。


 僕はその様子を電柱の陰に隠れてやり過ごす。昼ならバレバレだろうが、夜中の今なら、なかなか影に溶け込める。


 野辻は僕の存在に気付かなかったようで、アパートの鉄製の階段を上がっていく。


 僕は電柱の陰から彼女が202号室に入っていくのを確認すると、電柱から身を離した。


 彼女はあそこにいる。僕は生唾を飲み込むとアパートへ近づいた。音を立てないよう、恐る恐るつま先で階段をのぼり、202号室の前までやってくる。


 僕の息は安定しなかった。廃墟とはいえ、誰かの敷地のアパートだ。勝手に入ったことがバレたら怒られるだろう。


 野辻に非難されることに怯えている自分もいた。勝手に追いかけられて気分がいいはずもない。だが野辻の行動が気になって仕方がないのだ。


 僕は、まず202号室の窓から中が見えないかを探る。つま先立ちをして窓を窺ってみるが、どうにも木の板で目張りがされているようで中を確認することは出来ない。どうにも明かりは付けていないみたいだけど。


 やっぱりドアを開けて覗くしかないのだろうか。

 

 僕は、生唾を飲み込み、ドアノブを静かに捻る。そっと扉を押しだせば、暗闇。

目が闇に慣れるまで少しの時間が掛かった。


 僕は、よくよく凝らした目で闇の先を見つめる。


 六畳一間の狭い部屋が広がり、その中心に何かを抱きしめる野辻が座り込んでいた。

 

 恐ろしいほど、寂しげな背中。いつも塾で見かけるあの背中と一緒とは思えなくて、僕はしばらくドアの隙間から彼女を見つめていた。


 瞬間である。僕の鞄から喧しいヴァイブレーションの振動音が響きだす。


 脳天から背中にかけて冷たい稲妻が走りぬけ、心臓がひっくり返るほど仰天した。振動の短さからしてメールらしい。最悪のタイミングだ。


 その音に気付かないはずもなく、ギョッとして野辻が僕の方を振り返る。

それと同時に、野辻が抱きしめていた何かが飛び跳ね、僕の足元に走り寄ってきた。


 今度は僕がギョッとする番である。その何かは生き物であり、生物名は恐らく「兎」だろう。


 何故恐らくなのかと言えば、目が、三つあるからだ。


 双眸にあるものと、もう一つ、額に三つめの眼球が収められている。


 兎は人懐こいようで、僕の靴にやたら鼻を近づけた。


「う、兎……?」


「どうして」


 野辻の言葉に、僕は言葉を無くす。しかしすぐに、開き直って自分の言い分を主張した。


「いや、廃アパートに入って行くからさ。気になって。だから、でもその……ごめん」


 責めるような野辻の視線に負けて、僕は謝罪の言葉を吐き出す。すると野辻は、あきれた様子で立ち上がった。それと同時に兎は、野辻の元へ戻ってゆく。


 背後の窓から零れる月明かりをバックに、三つ目の兎を抱きしめる野辻の姿は言いようのないほどに幻想的に思えた。


「君は……那須君だよね。同じ塾の」


「そうだけど」


「どうして私を追いかけたの? ストーカー?」


「ち、ちげぇよ。そんなんじゃ」


「君が違うと言っても、事実追いかけてきたから君はここに居るんでしょ」


「だから。別にストーカーしようと追いかけたわけじゃ」


「それは君の思考の話でしょ。私がしているのは事実の話。結果、あなたは人気のないこの廃アパートの、逃げ場のない部屋で、出口をふさぐように私の前に立ちはだかっている」


「え、いや、え?」


「私が声を上げれば、那須君はすぐに悪者になるんじゃないかな」


 僕はその言葉に芯から怯えて、「やめろ」と喘ぐ。それをあざ笑うように野辻はくすりと笑った。僕は、野辻がこんなに性格の悪いやつだったのかと軽いショックを覚える。


「うん、やめたげる。その代わり……手伝って欲しいことがあるのだけど」


「手伝うって。何を」


 そう言うと、野辻は抱きしめた兎を僕のほうへ向けた。兎は愛らしく首をかしげると、三つの瞳で僕を見つめる。


「この子を育てること」

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