SURREAL

 貴女は声に出さず口の形だけで、垂水さんだと呟いた。生憎、鈍物だった過去のわたくしは話し相手である彼を挟んで自分を凝視している貴女を見逃したままだった。必修のクラスが一緒なのに。

「そうらしいね」

「らしいって何よ。他人事みたいに言うわね」

 貴女に背中を向けている男子学生に視線を集中させていた。顔見知りのわたくしよりも、庵さんと呼ばれた彼の方がより気になっているはずだ。

「……無理もない。純文学の新人賞を獲ったアトウイオリが、ライトノベルを書けって編集者から言われたんだぞ」

 希望的憶測によって浮上した貴女の仮説は、すぐさま現実の色を帯びた。こんな偶然ってあるのだろうか!

「……あの男の人が……アトウイオリ? まさか……同じ大学に在籍していただなんて……」

 氷柱に頭を殴られたかのような衝撃が走り、ペンを床に落としたことにすら貴女は気附かないでいる。

 あの時、書店で間接的に出会った彼と貴女は今、たった数メートルの隔たりが設けられているだけの近しい関係になっているのだ。

「ジャンルの転向なの? それもいいじゃない。貴方の活躍はこれからなのよ」

「にしても、ティーンエイジャー向けの作品を書く技量は僕には無さすぎる。どうしたらいいのだろう」

「同じティーンエイジャーのくせに」

 彼を笑い飛ばすわたしくの心理描写はこの際どうでもよく、肝要なのはアトウイオリの現況と苦悩を知ってしまった貴女の心境にある。

 縮こまる彼の後ろ姿を見やった貴女は身体を反転させて、メモを早急に取った。補足であるがその一文を区切る読点には、ペンを失ってあたふたしているところから、貴女が漸く床から拾ったと思えば後頭部をカウンターの淵にぶつけて痛がっている失態までが含まれている。

『あのアトウイオリさんが、叡智大学に通っていた! それは神様が分け与えてくれた幸運であり、私の研究……《Surreal Character Transfer Engine》の存在意義を獲得したのだ! これで、私も彼も救済される! アトウイオリさんの辛苦も、私の絶望も、全ては言語と科学のシンギュラリティが解決してくれる!』

 但し、多少の焦りなど払拭するような貴女の強烈なる閃きは、語り手をさせてもらっているにも充分な畏怖を与えていた。

『<SCTE>の超現実は、彼のシュルレアリスムと融合する。そして、私にその超現実が分有された時には――』

 そこでノートを閉じた貴女は、生まれたての新鮮な研究構想を素材とした調理に一秒でも早く取り掛かりたく思い、荷物をまとめて食堂を出た。現在のもご存じの通り、その時点では二人(この際、わたくしの存在は無いものとする)は出会わなかった。完全なる準備が整ってから、貴女は彼を手許へ引き寄せたかったのだ。


 舞台を再々度貴女の研究室へと戻す。脳波測定器を装着して、貴女は<SCTE>のプログラミング修正を一心不乱に行っていた。白文字で書き連ねる<SCTE>の真実が、其処にあった……。


<SCTE-ND:x>

<Remake Transcription-Ⅰ>

 Merkmal 1

=annotation

 xは<第二被転写体>の評価値となる。

=cut

</SCTE-ND>

</Remake Transcription-Ⅰ>


(<第二被転写体>だって? それがあの……多重人格か?)

 それは、貴女しか把握していない<SCTE>の最終的な目的。

「記録する順番が……違う」

 打鍵音と共にカーソルを動かし、貴女は自らの意志と絶望的希望をコメントの挿入で捕捉敷衍していく。


<SCTE-ND:x>

<Remake Transcription-Ⅰ>

 Merkmal 0

=annotation

 第一被転写体改めオートリライトは、インプットした小説の文体変更を伴う転写を意図する。

 この既存機能を拡張し、ND言語で再構成した電気信号を脳波の提供者もとい<駆動者>へ送信。

 多重リライトの伝導により、第二被転写体改め<シュルレアルリライト>が実現。

=cut

</SCTE-ND>

</Remake Transcription-Ⅰ>


(超現実的な上書き……まさにその通りだ。璃々亜さんは自らの性格を書き換えた!)

 第一被転写体のシノプシスを書き残してから、Merkmal 1で本文出力されていた箇所に追記する。


<SCTE-ND:x>

<Remake Transcription-Ⅰ>

 Merkmal 1

=annotation

 xはシュルレアルリライトの評価値となる。算定基準は後述の命令設定に添える。

 文頭のタグは<Remake Transcription-Ⅱ>となるが、実際の被転写体は<駆動者>本人に該当するため表記の機会はない。

 シュルレアルリライトはオートリライトで登場する小説内=存在の性格を始動にして、最終的には

 そのためには、原作執筆者の性格へダイレクトに入るのではなく、その関係者の性格からインプットしていき、段階的に移行することが予測される。

=cut

</SCTE-ND>

</Remake Transcription-Ⅰ>


 ――原作執筆者の性格模倣を目標……それってつまり、僕のことじゃあないか!?


 わたくしはこうして、あくまで三人称(または二人称?)の語り手を淡々と進めているつもりではいるが、実のところ彼と同じくらい吃驚しているのだ。不意に丸括弧から飛び出てしまった彼は半透明なる存在で研修室のソファーを身体ごとひっくり返し、彼に倒されたソファーも色彩を薄くしていった。

 そして……貴女は第二被転写体もといシュルレアルリライトの起動を命令した。


>Remake Transcription-Ⅰは有効化されました

>小説家:アトウイオリの苦境を打破するためのプログラムに変更

>第一被転写体に準ずるキーワード:ライトノベル


> Remake Transcription-Ⅱは有効化されました

>

>第二被転写体に準ずるキーワード:超現実_


「これでいい……私という存在を破壊して、彼になれれば……死は容易い」


 いい訳があるか! きみは自分の苦心に滅入り過ぎているんだ!


 幻想なる彼が詰め寄っても、貴女の身体には触れられない。彼もまた、幻想だから。そして、わたくしも。彼の叫喚はハードディスクの起動音よりも小さかった。

「私が開発した特殊言語は、父さんの功績を横取りして劣化させるためじゃなく、その恥辱と無力を魂ごと消滅させるためにあるんだ。だから……私の自我も消し去り……科学と言語の境界線を超越した事象でイオリさんに思い通りの純文学小説を書いてもらえれば……死んでもいい。破滅的な協同愛を実現させる! これでいい! これでいいの!」

 説得のベクトルを自身の左胸へ突き刺し強引に納得させる貴女は、滂沱たる涙を零しています。自ら率先して選んだ悲劇なのか、強制せられた過ちなのか、本来的な感情を見失った貴女はデリケートな神経を麻痺させていたことでしょう。


 純玲ちゃん、こんな過去はもう沢山だ。現実へ戻ろう。今を生きる彼女に会おう。


 彼と同じ心境であるが、最後に一つだけ貴女の行動を記録し、臆見を述べようと思う。

 この《遺界》は脳波測定器を……いや、正確に呼称するなら脳波送受信器になが……利用して貴女の過去世界を虚構的に他者へ実装させることを目的としていた。

 自身の記憶を電算させ、他人に共有するテクノロジーは恐らく<SCTE>のシュルレアルリライトを応用させた機能だと思われるが、

 この問いかけに貴女は首を振るに違いない。何故なら、貴女は盲目になってしまっているから。一度の挫折は一生の勘違いを産み落とし、貴女自身の価値を客観的に評価する貴女は不在のままである。

 馬鹿ヨ貴女ハ。悲劇ノヲ演ジタツモリ?

 と、貴女が演じた一人のヒロインの口調を借りて、冷たく言ってみた。其処で虚構は崩落音を奏でて空へと吸い込まれていった。実体へと回帰したわたくしと彼は、ディスプレイに映し出されていた最新のオートリライトを黙読した……。


<SCTE-ND:99.9>

<Remake Transcription-Ⅰ>

 タイトル:塋域ノ底 ――を二重線で抹殺。

 新規タイトル:奈落


 ――――の見地に於いては子供の遊びに過ぎなく、僕が瞬きを数回している間に墓標のフォークはテーブルから滑り落ち、剥き出しになっているコンクリートの地面に突き刺さった。顔を上げるとカフェテリアの外界は目の前にいる彼女の黒目に吸い込まれ、ゆらゆらと眠そうに昇る太陽の光を浴びた大学の屋上に僕はいるらしい。

「やっぱり無理だ。こんな地の文でライトノベルを名乗れる訳がない」

 作家への復帰を疾っくに諦念していた。どう足掻こうが、僕の内臓はシュルレアリスムの癌に蝕まれているが故に、僕を逸脱した人間や機械にも稚拙なポストモダンの魔力が宿る結果になってしまうのだ。

「Iはまだ頑張れます。超現実文字転写機構は遺しておきますので、御活用ください」

 莞爾として笑う彼女は二つのアルファベットを拮抗させた挙句、母親似の華美な外相を定着させた。

「きみはどうするつもりだ」

「死にたい時に死にます」

 間もなくその時が到来する、と彼女は言って南側へ歩き出し、フェンスの無い屋上の淵に足をかけた。

「死んでどうなる」

 自殺防止の鎖となる僕は、彼女の肘を掴む。

「Iが逃げたように、わたしも逃げ切ります」

「無駄だ。僕が逃げ切れなかったように、きみもいつかは捕まって報われない亡霊になる」

「では、Iも一度は死んだのですね」

 僕は沈黙を答えとした。僕が体感した死の定義は言表し難く、彼女の存在性と複雑に絡み合っているからだ。

「死にたい時に訪れる瞬視に、きみは何を見た?」

 今度は彼女が黙る番だった。めいめいの胸裡には鍵のかかった宝匣が内蔵されている。それを開けるためには金属製の鍵を探すのではなく、人間の頭部を一撃で破壊できるようなハンマーを購入してくるのでもなく、匣の中へ被投する意識附けが肝要だった。主客同一を企図する光陰の矢が僕と彼女の心臓を纏めて串刺しにして、ブルーオーシャンの業火で炙る。酒の肴となる食材の気分を味わうのは愚かであり、苦界への頽落者を覚知するのが正しいリアクションとなる。

 氷像にされた僕は全身に火傷を負い、力無く虚空側へと傾いては奈落へと落ち始めた。屋上から飛び降りたのは僕一人で間違いなく、混淆されていた彼女が別なる者に混淆された憶測は憶測の埒外に有らず。僕の自我を獲得したのが正しい彼女の在り方であった。上方へ加速していく景色の中央にはベルトの切れた腕時計が僕の落下について来てくれて、短針がローマ数字の十に丁度貫通していた。


 僕等の架空は更なる架空に及び、時折現実を拝借し、架空の規律を破り、現実の合理性を捨て、結句<MEI-EN>へと帰着する。その成果に喜んでいるのは、一人だけで構わない。

</SCTE-ND>

</Remake Transcription-Ⅰ>


 遺稿のつもりで最期の<SCTE>実験をしたのだろう。そのオートリライトはライトノベルの反映が微々たるもので(申し訳ない程度にライトノベルのキーワードだけは記載してもらったが)、きみの破滅を主体に描かれていた。

「滅茶苦茶な体験だったわね。まさか、璃々亜さんの過去をバーチャルで拝見できるとは……」

 純玲ちゃんは疲弊した表情を浮かべていたが、声には力が籠っていた。

「酷い追想だったな。僕は彼女の自殺を手伝わせられたんだ」

「それも、貴方に成り代わりたいメンヘラ的な要素も含めて、ね。小説内=存在やわたくしの人格を獲得したのは、研究者として失敗した自分を蔽い隠すためってことだわ」

「その気持ちは全く理解できないとは云えないが……死にたいとまで思うかね」

 僕の言葉は意外と冷静だった。架空世界で怒鳴らせてもらったので、不安定な感情の発散はできていたようだ。

「若さ故の過ちであり、誰かさんみたく自分の価値を解っていない未熟者ね」

「ティーンエイジャーらしからぬ、年寄みたいな意見だな」

「わたくしをバカにする余裕があるようで、安心したわ」

 ケラケラと笑う純玲ちゃんは立ち上がり、自分の座っていたチェアーを押し出して僕の脛にぶつけた。彼女もまた、自身のすべきことを明確に捉え、進むべき将来へ赴く心構えが整っている。

「純玲ちゃん、今何時?」

「八時十二分」彼女は右手首を返し、腕時計で確認した。

「まだ間に合うな」

「おや、璃々亜さんが十時ピッタリに飛び降り自殺する予告だと、庵さんも推察したのね」

 肯う僕が知りたいのは、きみが自殺をする理由ではない。 

「でも、今の璃々亜さんに会うのはとても大変なことだわ。だって、わたくしが模様されたように、今度は屹度庵さんになっているもの。空前絶後のシュルレアリストが二人もいたら、わたくしの眼路に聳える山脈は化学反応のビッグバンに粉砕されてしまうわ」

「饒舌に語れる純玲ちゃんも、シュルレアリストだと思うけど」

「わたくしは違うの。本来的な愛を求め彷徨うラブスプレマティストが夢なのよ」

「はあ」

 スカしたレスポンスをすると、違ったかしらと彼女は自らの発言に恥ずかしがった。間違ってはいないが、情熱的過ぎる純玲ちゃんの直向きさには、時に僕の手に負えなくなることもあるけれども、数秒前の僕とは違う今の僕は受け止められる気がした。

「僕も恋愛要素の強い少女小説、書こうかな」

「その前に貴方の場合はライトノベルの創作でしょ。璃々亜さんのこともだけど、御自身のことも心配しなくって?」

「――もう、大丈夫。僕は書ける。<SCTE>は確かに僕の手助けになってくれたけど、最終的には自力で書ける。世界が望む純文学も、商業用に相応しいライトノベルも」

「あらまあ」

 断乎たる決意を見せちゃって後悔しても知らないわよ、と咎める純玲ちゃんの顔はとても嬉しそうだった。


 けだし、きみに巻き込まれた<SCTE>と、それに於ける自殺願望についての当事者はきみではなく、僕だったのだ。苟も情報科学が僕の紆余曲折した再帰まで企図していたならば、僕はきみを深く愛し続けなければならない。でも、恐縮にも僕が主人公をさせていただいたこの物語のプロットはきみの埒外にあるだろうから、きみへの眷恋けんれんは控えめにさせていただこうと思う。であるにしても、僕はきみを嫌いにならない。きみの常軌を逸した我慾に嫌いになる僕が大嫌いだから。

 言語世界を超えた科学を超えてみせる。きみが幻視している絶望を覆すのもまた言語であることを証明するのが、アトウイオリが小説家として復帰するための最終試練となることを九割方信じていた。残りの一割は何なのか自分で決めていなかったので十割信じていると言いたいところであるが、不完全性の尊重を欠落させてはならない僕の拘りをどうか許してもらえますでしょうか。

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