それがこぼれるまで ③

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 それはともかく、わたしはそのまま掃除を続けた。

 そして夕方になるまえにすべての廊下を拭き終わった。


 完璧に掃除をした。

 廊下はちりひとつなくピカピカだった。

 見納めにはいい光景だった。


 そして掃除を終え、わたしはミクニ老人にそれを報告した。

 女主人に怒られ、首を言い渡されたこともちゃんと報告した。


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「まったく初日からそれかよ。しょがねェやつだなァ」


 ミクニさんは白髪頭をかきむしり、それから口をへの字に曲げて黙ってしまった。そしてピカピカになった廊下をしばらく眺めてからこう言った。


「まぁいい、俺が何とかしてやる、でも駄目でもうらむんじゃねェぞ」


 捨てる神あれば拾う神あり。ミクニ老人は本当はいい人だったのだ。

 第一印象があてになるとは限らないという見本だった。


 そしてミクニ老人がなんといったか知らないが、結局のところわたしはクビにはならなかった。


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 だがそれは翌日にわかること。夕方にコトラとケンが迎えに来てくれたときは泣きたい気持ちだった。コトラは嬉しそうにケンの背中で手を振っていた。


 ケンは心配そうな表情で「どうだった?」と聞いた。

 わたしはケンに今日の出来事を話した。

 ただ女主人が母であることは言わなかった。それを言うことはなんだか言い訳のように感じたからだ。そしてケンはすべてを聞いたあとでこう言ってくれた。


「まぁしょうがないよ。なるようになるさ」

「ごめんよ、ケン。何て謝っていいかわからないよ」

「まぁ気にすんな。そういうこともあるよ」


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 それからわたしはコトラを受け取り、背中におぶった。と、そのときわたしはポケットのりんごのことを思い出した。それを指先でパキッと半分にわり、ひとつをケンにもう一つを背中のコトラに渡した。


「お、ありがと」とケン。

「あいがと」


 コトラはそういって嬉しそうにシャリッと噛んだ。ケンもそれをかじるとにっこりと笑ってくれた。


 それがわたしにはとても嬉しかった。働くってのはこういうことなのかな、わたしはなんとなくそう思った。今回の仕事が駄目なら、こんどは自分で探してみよう。そう決意を新たにした。


「じゃ、交代。帰ったらゆっくり休めよな」


 そう言ってケンは長い髪をゆらし、屋敷へと歩いていった。


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 わたしはコトラを背負ってマンションへの道をトボトボと歩いて帰った。


 部屋に帰ってみると、机の上にはどこから手に入れてきたのかおにぎりがあった。そのを弟と食べながら、ケンが帰ってくるのを待った。


 ケンは夜遅くなってから帰ってきた。ずいぶんと疲れた様子だった。


「レンジ、あのジイさんが謝ってくれたらしい、明日も来ていいって言ってたぞ」


 それを聞いたわたしは涙を流してしまった。それからケンはもう一つのおにぎりをみつけ、どうして食べなかったんだ? と聞いた。

 それはケンの分だと思っていたのだ。それを聞いてケンは嬉しそうに笑い、わたしたちは残りのおにぎりを半分にして食べた。


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 貧しさの中でも優しさははぐくまれる。

 


 そう、あの頃はなにも物がなかったけれど、わたしたちの中には優しさがあった。

 お互いに相手の心を思いやる親切心があった。


 それがなければわたしたちは死んでいただろう。


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 それから地獄のような労働の日々が始まった。


 夜も明けないうちに、真っ暗な道をとぼとぼと屋敷に歩き、夏は猛暑の中で汗まみれで働き、冬は冷たい水で手を真っ赤に腫らして働いた。


 来る日も来る日もただひたすらに掃除をした。

 廊下を拭き、庭を掃いて、屋敷中の窓ガラスを磨いた。


 できることが増えると、掃除の場所が増え、さらに量も増えていった。

 本当にしんどい仕事だったけど、仕事がある、必要とされている、ということがとにかくありがたかった。


 そうして五年の歳月があっというまに過ぎていった。


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 もちろん母とは何度も顔を合わせた。

 だが母は一度もわたしのことに気がつかなかった。


 その女主人が母であるということは、もう確信していた。

 特に証拠を見つけたわけではなかったが、確信だけは日々深まった。


 やがて屋敷の中のことも分かるようになってきた。

 ここの持ち主は『ヒダカ』という老人だった。皺とシミだらけの、背中の曲がったヒヒのような老人だった。ほとんどベッドに寝たきりだったが、たまに杖を突いて屋敷の中を歩いた。


 ヒダカ老人は働きに出なくてもどんどんお金が入ってくるらしかった。

 いつも不機嫌そうな顔をしていて、笑った顔など一度も見たことがなかった。


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 そのヒダカさんの奥さんというのがわたしの母だった。いや、もと母だった。

 ミクニさんによると、母は大きなお腹を抱えてある日突然屋敷にやってきたという。そしてそれからずっとこの屋敷に住んでいるという。


 母がどうしてその老人と一緒になったのかは知らない。その理由もどうやって知り合ったのかも知らない。そういう大人の事情というのは、子供のわたしには手にあまるものだったからだ。


「まァ旦那様は騙されとるんだよ、あの雌狐に」

 とはミクニさんの言葉だ。そしてこう続けた。

「あれはぜったい金目狙いだなァ、そうでなきゃ誰が旦那様を好きになったりするもんかね」


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 わたしも母の狙いはそれだと思った。


 今の母は金遣いが荒く、おいしい食べ物をたっぷりと食べ、毎日のように洋服を着替え、化粧をたっぷりして遊んで歩いていた。


 母は実に幸せそうだった。

 一緒に暮らしていた頃、あんなに幸せそうな母の顔は見たことがなかった。


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「それにな、あのガキ、母親にそっくりだ。卑しい顔つきをしとるよ」


 ミクニさんがこう評したのは、この屋敷の坊ちゃん『コウジ』のことだった。


 わたし以外にはだれも知らないことだが、わたしとコトラの弟に当たる。


 わたしが屋敷に来た頃はコトラと同じく小さなムニャムニャだったが、五年もたつ頃にはいっぱしの悪ガキに成長していた。


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 もちろんコトラも成長していた。


 背も伸びたし、言葉もぐんぐんと覚えた。その頃には普通の子供に成長していた。


 それはわたしとケンにとって大きな喜びでもあった。

 わたしたちが彼をここまで育てたのだ。


 コトラは明るく元気で、礼儀正しかった。五歳になると近所の食堂の手伝いに出るようになり、仕事は下働きだけだったのに、見よう見まねで料理の腕もうまくなっていた。


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 そのコトラと比べるとこのコウジは本当に性格の悪い子供だった。屋敷の中では父親のことをジジィ、母親をババァ呼ばわりし、花壇の花を引っこ抜き、廊下を泥で汚し、わたしを見つけると蹴飛ばしたりバケツの水をかけたりした。


「今日は夕飯を全部取り替えさせたぜ、ピーマンの匂いがするって文句つけてさ」

「僕は壁中にクレヨンで落書きされた」


 わたしとケンはよくコウジのことを話した。仕事を増やし、邪魔をするのはいつもこのコウジだった。

 だがわたしたちには笑い話だった。子供の意地悪なんて、生活していくことに比べれば何ということもなかった。


 だがコトラにとっては違った。コトラはコウジとあまりに歳が近く、兄弟ということは知らなかったが、お互いに気になる存在になっていた。

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