それがこぼれるまで ②
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さて、わたしは黙々と雑巾をかけた。午前中が過ぎ、昼間になってもまだ雑巾をかけていた。作業の進行はまだ四分の一だった。だがこのペースでがんばれば、昼飯を食べる時間はないかもしれないが、なんとか終わりそうだった。
「おう、がんばってるかァ」
途中でミクニさんがやってきた。そして廊下の隅を人差し指でさっとなでた。それを親指とこすり合わせ、じっくり見る。
緊張の一瞬。
ミクニさんはニッと笑った。
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「まじめにやってんなァ。この調子でがんばれ。ほれ、ご褒美だ」
そう言ってりんごをひとつ放り投げた。わたしはそれをあわてて取ろうとした。が、そのとき膝ががっくりと折れてしまった。しかも立ち上がろうとしたのに膝が笑って力が入らなかった。
りんごはコロコロと廊下を転がった。
「なんでェだらしねェ」
わたしは這ってりんごを追いかけた。そしてそれを掴むとポケットの中に入れた。
「なんでェ、食わねェのか?」
「友達と弟に食べさせてやりたいんです」
「弟もいるのかぃ。そういえば昨日のボウズもそんな事言ってたなァ。まァいいや、勝手にするがいいさ」
わたしもお腹はすいていたが、それよりもコトラとケンに食べさせたかった。わたしが働いて得たはじめての報酬だったからだ。どうしてもそれを二人に渡したかったのだ。
わたしはなんてケナゲな子供だったのだろう!
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さて、わたしの勤労意欲にはさらに火がついた!
雑巾を洗い、固く絞り、膝や腰が痛むのもかまわず、走るようにして、しかも一切手抜きもせずに、廊下を駆け抜けた。
どうやらわたしは掃除の天才だったらしい……そんな事を思ったとき、突然目の前の扉が開いた。
ゴウゥゥゥン、とわたしの頭は、まともに扉にぶつかった。
扉が揺れ、わたしは弾き飛ばされた。
「きゃあ!」
同時に女性の悲鳴が上がった。
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「す、すみません!」
わたしはとっさに謝った。謝り方はちゃんと知っていた。それは土下座というやつで、正座して頭を地面につけ、両手をそろえてひたすら謝る。これは母が大家のおばさんによく使っていた手だった。
「どこ見てるのよ! 気をつけなさい!」
すぐにその女の人の怒鳴り声が聞こえた。
「?」
わたしはその声にちらりと目を上げた。
そこに運命の出会いが待っていた。
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なんとそれは母だった!
そうでなければそのそっくりさんだ。
ただ思い出の中の母の姿とは程遠い。そこにいた女の人はものすごい厚化粧で、しかもきつい顔立ちをしていた。わたしも最初は見間違いかと思ったほどだ。
「あたらしい掃除の子供ね」
その声には憎しみがこもっていた。それ自体は怖くなかった。それ以上にわたしを怯えさせたのは、この女の人が、わたしが誰なのかまるで気づいていないという事実だった。
「どこを見て掃除してるのよ、マッタク!」
そう、まったく気づいているそぶりはなかった。芝居をしているようにも見えなかった。それがあまりに完璧だったから、わたしはやはり人違いなのだと思った。
だがそうではなかった。
「……だから子供は嫌いなのよ」
その人はそう言った。
それは記憶の中のわたしの母の口癖でもあった。
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母は生きていた。しかもこんな豪華な屋敷の女主人になっていた。
子供の顔に気づかず(または忘れ)、目の前のわたしを、自分の息子であるわたしを怒鳴りつけている。
わたしは泣いたか? 泣かなかった。
わたしは自分が誰かを明かしたか? 明かさなかった。
わたしは悲しんだか? 不思議と悲しみはなかった。
どういうわけだかわたしはそれを受け入れていた。
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母がいなくなってからすでに二年の歳月が流れていた。
わたしは成長した。背も伸びたし・髪型・服装も変わった。コトラはしゃべれるようになったし歩けるようにもなったし、名前まで変わった。
それだけの年月がたっているのだ。
母がわたしに気づかないのも無理はない。
それにわたしたちにとっては母が消えた生活が当たり前になっていた。母がわたしたちを捨てたように、わたしたちもまた母を捨てていたのだ。そこに懐かしさや愛情が入り込む隙間はなかった。
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だからわたしはただ謝った。
母にではなく、この屋敷の女主人に謝った。
「あんたはもうクビよ」
母はわたしにそういった。
それは昔母がよく言われていた言葉だったに違いない。
その言葉を口にしたときの母はとても嬉しそうだった。
そして意地悪そうだった。
「……ミクニにそう言っておくから」
そう言って母は去った。
その言葉のほうがわたしにとってよっぽどショックだった。
ケンに、そしてコトラにあわせる顔がないと思った。
初日から一番怒らせてはいけない人を怒らせてしまったらしい。
それがなによりショックだった。
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