2冊目 それがこぼれるまで

それがこぼれるまで ①

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 翌朝は日の出とともに起きだした。


 コトラはまだ眠っていた。一人で留守番させることも考えたが、慣れない街の慣れないマンションではやはり危険が大きかった。どんな人間がいるか分かったものではない。それで初日だけは、ケンがコトラをおぶって一緒について来てくれた。


 早朝の街はとても静かだった。スズメが電線に連なって寒風に耐えていた。


「あのさ、掃除ってどんなことすればいいのかな?」

「簡単だよ、ほうきではいたり、雑巾ぞうきんで拭いたりするんだろ」


「僕にも出来るかな?」

「ああ、難しい仕事じゃないさ。でもな、疲れるんだよ」


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「そうかぁ」


 会話の間、コトラはしっかり眠っていた。ケンもやたらとあくびをしていたけれど、わたしだけは気合いが入りすぎて目もぎんぎんに輝いていた。

 なにしろ生まれて初めての仕事だったからだ。


「なぁ屋敷ってどんなところ?」

「それは自分の目で確かめな」


「なんかドキドキするなぁ」

「まぁ、なんとかなるさ。のんびりいこうぜ」


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 それから三十分ほどトボトボ歩いたあと、その屋敷は突然目の前にそびえ立った。豪華で、広くて、まるでお城のような家だった。


「でかいなぁ……」

 わたしは馬鹿みたいに口をあけてその屋敷を見上げた。自分がこんなところに入っていいのだろうか? そう思わせる威圧感があった。


 こんなに人々が貧しい時代だというのに、その家には綺麗な芝生が青々と輝いていた。花壇にはさまざまな色の花が咲き乱れ、木には真っ赤なりんごがたくさんぶら下がっていた。


 こんな家に住んでいるのはいったいどんな人達なんだろう?


 だがびびっていても仕方がない。とにかく仕事をするのだ。

 掃除だ、掃除!


 わたしは人差し指に気合を込めて、大きな鉄門のインターホンに指を伸ばした。


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「初めまして! 僕の名前はレンジ、掃除に来ました! 頑張ります!」


 こんなセリフがいいだろう。

 大事なのは第一印象。最初の挨拶は明るく、元気良くしたほうがいい。

 ケンが前の晩にそう教えてくれたのだ。


 しかし気合たっぷりに伸ばしたわたしの指をケンの手がパシッとつかんだ。


「あのな、こういうところは、正面からは入っちゃダメなんだ」


 ケンはそういって屋敷の壁に沿ってぐるりと歩いていった。わたしはあわててそのあとを追いかけた。やがて壁の途中に作られている小さな扉の前で立ち止まった。


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「ここが俺たちの入り口、正面からは絶対入るなよ。俺たちはお客さんじゃないんだからな」

「うん。わかったよ」


「ここの『ミクニ』って爺さんに話を通してある。仕事はその人に聞くんだ」

「うん」


「本当に大丈夫か?」

「うん。大丈夫。がんばるよ」


「じゃあ、この先は一人だ。頑張れよ。夕方にコトラを連れて交代に来る」

「わかった」


 わたしは去ってゆくケンと背中のコトラを見送った。二人の姿は壁を回ったところですぐに見えなくなった。


 正直な話、その瞬間とても孤独を感じた。考えてみればこんな形で一人になるのは初めてのことだった。まるで大海原にたった一人でボートを漕ぎ出した気分だった。


 そしてわたしは小さな門の扉を開いた。


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「おぅ遅かったじゃねェか」


 目の前には腰の曲がった老人がいた。顔中を深い皺が覆っている。髪の毛は真っ白で、黒目がやけに小さく見える感じだった。


 第一印象は、怖そうな人。失敗したら確実に殴られそうな気がした。


「僕の名前はレンジです。掃除に来ました。よろしくお願いします」

 わたしは大きな声でなるべく明るく(すでに気分は真っ暗だったが)挨拶をした。


「元気がいいじゃねェか。これならコキ使えそうだな、なァ?」

「はい、がんばります!」


「よしっ。ワシのことは『ミクニさん』ってよべ。ついてきな」

「はい、ミクニさん!」


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 わたしのほうの第一印象は悪くなかったようだ。これもケンのおかげ。

 まったくもって挨拶は大事だ。


 ちなみに、これもわたしが生徒に必ず教えていることだ。


 挨拶はコミュニケーションの第一歩だ。

 ここでつまずくのはもったいないことなのだ。


 考えてみてほしい、元気に挨拶したのに返事を返さない人を君はどう思うだろう?

 サイアクだと思うだろう?


 人間同士のつきあいというのはそういうものなのだ。

 最初はお互い知らないもの同士。

 少しずつ歩み寄ることで、コミュニケーションはつながってゆくのだ。


 誰にでも明るく挨拶すること。

 挨拶されたらちゃんと明るく返すこと!


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 それからミクニ老人はわたしに、水の入ったバケツと一枚の雑巾を渡した。


「今日は屋敷中の廊下を隅から隅まで雑巾がけするんだ。いいか、手抜きはゆるさねェぞ」

「わかりました!」


「ワシは腰を悪くしてな、この手の作業がつらくなっちまったのさ。そうでなけりゃ、お前らみたいなガキを雇ったりしねェ。どういう意味か分かるな?」

「はい。一生懸命やります!」


「それは当たり前だ。完璧にやれという意味だよ」

「わかりました!」


「よし。終わったら知らせにこい」


 わたしの前には果てしなく長い廊下が伸びていた。地平線が見えるんじゃないかというくらい長い廊下だった。

 しかも、すぐに分かるのだが、この廊下は一本ではなかった。二階と合わせて全部で二本。そしてその半分の長さの廊下が他にも十本もあった。


 今にして思えば、なんという重労働だったことか。


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 しかしわたしはそれすらも分からないムニャムニャだった。

 だが逆にそれが良かった。


 そこが最悪だとは思わなかったのだ。

 だが今のわたしは断言できる。ここの仕事は最悪だった。コレだけ働いてもパン一つ分の給料にもならなかったのだから。


 だがそういう仕事はたくさんある。

 そういう仕事しかない人もたくさんいる。

 なんという世の中!


 それでも飢え死にしないだけマシなのだ。

 上を見ればキリがないのと同様、下を見てもキリがない。

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