走るムニャムニャ ④

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 さて、それ以降、それも当日の夜から、わたしはひたすらに勉強した。


 五年間も勉強から遠ざかっていたのだから、それを取り戻すだけでも大変なことだった。しかも今度は大学入試、しかも難関の医学部を目指していた。


 日の出とともに勉強を始め、夜は眠さに倒れるまで、知識を詰め込んでいった。


 その甲斐あって……と丸くおさめたいところだが、実際はそんなきれいなものではなかった。わたしは天才でもないし、ヒーローでもない。やはりただのムニャムニャでしかなかった。


 そう。人生なんてものは、いつでも厳しいものなのだ。


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 まぁレイには申し訳ないが、実際とにかく時間がかかった。

 その年は高校卒業検定の試験も通らなかった。

 その翌年は卒業試験は突破したものの、どこの大学にも入れなかった。


 正直生きた心地がしなかった。来る日も来る日もプレッシャーに追われていた。

 合格できなかったらどうしよう?

 その不安がいつも頭を離れなかった。


 それでもわたしには仲間がいた。

 それはマンションの子供たちだ。彼らの中にも進学組というのがあって、彼らと机を並べ、時には教えてもらいながら、とにかく一緒に勉強を続けたのだ。


 この時のわたしには


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 そして翌年ようやく大学にもぐり込むことができた。

 もちろん目標としていた医学部である。


 ついでに白状するが、この大学も医学部の中では最低ランクの学校だった。

 医者の子供の落ちこぼればかりが通うようなところで、とにかく授業料が高いところだった。


 だがそれはそれ。入学してからがんばればいいのだからと、みんながお金を出してくれたのだ。


 お金の力はすごい。このときばかりはそれを実感した。


 それは人の才能すら補完してくれるのだ!


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 かくして三年がかりでわたしは医学部に進学し、その時にはわたしは二十五歳になっていた。


 同じクラスの生徒たちは、コウジみたいな奴ばかりだった。お金を湯水のように使い、贅沢を楽しみ、暇つぶしのように学校に出てきては、誰に対しても王様のようにふるまっていた。それがクラス全員なのだから、つきあいきれない。


 そんなやつらはきれいに無視して、わたしはひたすら勉強に取り組んだ。

 物覚えは悪かったし、器用なほうでもなかったから、医学の勉強も苦労した。

 それでも毎日毎日を地道に乗り越えていくうちに、なんとかまともな成績を取れるようになっていった。


 そして入学から六年後、じつに三十一歳になった歳に、わたしは大学を卒業し、その後の国家試験に合格し、ようやく医者になったのである。


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 もちろん一〇〇パーセントというわけにはいかないだろう。

 だが大体においては報われるものなのだ。


 それを信じて、努力を続けること。

 人生においてはこれが一番難しく、だからこそ、それだけ価値がある。


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 さて、もう少しだけ昔話の追加を。


 わたしにとっては大事な思い出話だ。


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 それは大学の卒業式の日の思い出。

 校門のところにはわたしの家族たちが待っていた。


 コトラにケンちゃん、キョウコさん、ナギサちゃん、リュウイチにレイ、懐かしいことに子供十字軍のヒカルやナガイも駆けつけてくれた。


「レンジ兄ちゃん、おめでとう! 今日はショートケーキを持ってきたんだ!」

 コトラは店で渡すのが待ちきれないのか、すでにケーキの箱を小脇に抱えていた。


「おお、おお、レンジ、ついにやったじゃねえか!」

 ガシッと抱きついてきたのはケンちゃん。もうボロボロに泣いていた。涙もろいのはいくつになってもかわらない。


「やっと医者になったわね、これでようやく、もとが取れそうじゃない?」

 キョウコさんはあいかわらずだ。すぐ横でキョウコさんのスカートを握り締めているヒョウはもう十歳になっていた。しかもヒョウのとなりには、さらに新しい兄弟・姉妹が四人もつながっていた。


 あとは「おめでとう」の大合唱と暖かい拍手の渦がわたしを包み込んだ。


「ありがとう。みんなありがとう」


 わたしは嬉しさのあまりボロボロと泣き出してしまった。


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 なんという幸せな記憶!


 こういう記憶の一つがあるだけで、わたしはいつ死んでも後悔はない。

 

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 みんなの拍手とわたしのボロ泣きの中、レイが静かにわたしの前に立った。


「もう一つの約束をちゃんと覚えてる?」

 レイはささやくようにそう言った。


 レイは三十四歳になり、すっかり大人の女性になっていた。

 誰にも時間だけは平等に流れてゆく。


 それでもわたしから見れば、レイは昔のままのレイだった。


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「もちろんだよ……あのさ……」

 とたんにわたしは照れてしまった。そこに変な空気が流れたのを感じたのだろう。急にみんなが静まり返ってしまった。みんながわたしたちをじっと見ていた。


「なんか静まりかえってるけどさ……」

 ささやくわたしの声がまたずいぶんと大きく聞こえた。


 みんながごくりとつばを飲み込む音まで聞こえてきそうだった。

 そしてレイはわたしの言葉をじっと待っていた。


「あ、あの、迎えに来たよ」

 わたしはそう言った。


 わたしとしては『迎えに来てね』という、昔のレイの言葉に返事をしたつもりだった。わたしとしては気のきいた言い回しをしたつもりだったのだ。


 だが誰にも、当のレイ本人にすら伝わっていないようだった。


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「レンジ、迎えに来たのは俺たちだぜ!」

 ケンちゃんがそういうと、みんながどっと笑った。


 それでわたしの妙な緊張もいっぺんに吹き飛んだ。

 格好をつける必要はないし、気のきいた言葉もいらないんだ。

 そう思うとなんだか素直な気分になれた。


 わたしの心は今暖かく満たされている。

 その思いをそのまま言葉にすればいいのだ。


 わたしはひとつ大きく息を吸い込んだ。


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「レイさん! 一生のお願い! 僕と結婚してください!」

 わたしは一気にそう言った。それがわたしの正直な気持ちだった。


「いいわ。これからもよろしくね」

 レイはそういってわたしの両手を握り締めてくれた。


 そしてわたしの幸せが伝わったのか、ふたたび歓喜と祝福がわたしたちを包み込んだ。


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 その瞬間のわたしの幸福!


 もう幸せすぎて死ぬんじゃないかと思ったほどだ。


 だが、もちろん幸せは人を殺したりはしない。


 それは本末転倒というものだ。




 ~ 走るムニャムニャ 終わり ~ 

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