第6話*お風呂の回

「どうしてあんなにお風呂が長いのかな」


そう言い始めたのは政道だった。

年も開け、もう来週には学校が始まる1月初旬。まだ終わりきっていない課題を終わらせようと渚、俊太、政道の3人はファミレスで顔を合わせている。冬休みだからか周りも学生が多い。ガヤガヤと騒がしい中だったけれど政道のため息は2人に十分届いた。


「凄いわかる。」と俊太。

「若干わかる」と渚。


3人集まれば姉の話になるのは昔からだ。


「美月さんは余計に長そうだな」


「2時間だよ」


「2時間…」と渚は息を飲む。

何をどうやれば風呂に2時間かかるのか。

逆に聞きたい。2時間も風呂に入れるのか?

ふやけて立てなくなるんじゃないか。


「まずさ、お風呂入ってくるって言う姉さんの手に持ってるのが本なんだよね。おかしいでしょ?昨日もそうだよ」


昨晩、政道が風呂に入ろうと読みかけの小説を閉じたのは22時頃だった。上下のスウェットを持って階段を降りようと手すりを握ると自分の小指に絆創膏が巻いてあった。

ーそうだ、ページを捲る時に紙で指を切ったんだった。

地味に痛いその傷を誤魔化すように自分で貼った絆創膏。そのことを思い出して風呂に入る前に小指に貼った絆創膏を取って、リビングのゴミ箱に捨てに行った。


その僅かな空白の時間がいけなかった。


「あっ」と思った時には洗面所の扉をバタンと閉める音だ。

リビングには新聞を読む父と、趣味のソープカービングに勤しむ母。この場にいない春日部家の人間は、姉の美月だけだった。

気付いた時には、既に遅し。

姉が入った洗面所の扉を「長いから最後に入ってよ」と思い切り開けることが出来る弟がどこにいるだろう。少なからず政道にはそれが出来なかった。

そして政道に風呂の番が回ってきた時にはもう0時を回っていたのだった。


「うわー、2時間はきついな…」


渚は汗をかいたグラスを手繰り寄せ、メロンソーダをストローで胃に流す。ファミレスのテーブルに広げられた課題には所々ポストイットが張ってある。朱里が休み明けのテストに出るであろう場所を教えるために渚の課題に貼り付けたのだ。俊太はそれに視線を落とし、ポストイットと同じ箇所に印をつけながら「風呂で本を読む意味がわからなくね?」と首をかしげる。


「僕も言ったんだけど、そしたら”シリコンマスクしてる意味が無いじゃない。発汗させて毛穴を開けなきゃ”って言われた。」


それもまた、非常に当たり前のように、やだこの子ったら、と笑いながら。本を読みながら、発汗するのに1時間はかかるらしい。


「じゃああとの1時間って美月さん何やってんの?」


「洗面所で化粧水叩いて、マスクして、シリコンマスク着けて」


「またシリコンマスクかよ!」


「っていうかシリコンマスクって何?」


「なんか、ピンクの、半透明のマスク。今、僕は世界で一番シリコンマスクが嫌いな自信がある」


ニコニコ笑いながら政道はフライドポテトにフォークをずん!と突きさす。隣に乱雑に出されたケチャップがフライドポテトの血に見えたていたたまれない。


シリコンマスクとは今女性に人気の、名前の通りシリコンで出来たマスクだ。

美月はそれを発汗のために湯船に浸かりながら着用し、風呂から上がれば保湿のために美容パックの上から蓋をするように再び装着する。洗えて何度も使える上に財布に優しい百均商品である。


「俊太のお姉さんはお風呂どのくらい?」


「1時間くらいかなー。最後に入ってくれるから風呂自体は待たなくていいけど、歯を磨きたい時は不便なんだよな。」


なぜ洗面所と浴室は隣り合わせで2部屋で1部屋みたいな扱いなんだろう、と俊太は度々思った。

漫画みたいに鉢合わせになったら、謝らなければならないのは男だし、叱られるのは弟だし。


「へー、いつも一番最後なんだ」


「姉って生き物は一番風呂を好むと思ってたな。」


「風呂洗ってからあがるんだよ。大体一番は俺か隆光さん」


「シリコンマスクしてる?」


「シリコンマスクは見たことねーけど、なんかよく顔には張ってるよ。夜中に廊下で遭遇して悲鳴あげたことがある。あれやってる顔を暗い廊下とかで見ると能面みたいじゃん」


「なんだ、シリコンマスクはしてないんだね」


「相当シリコンマスクが嫌いだな」と俊太が笑うえば「切り刻みたい」と政道は告げた。彼は前から姉の長風呂に呆れていたのだが、あれを手にしてからより風呂の長さが伸びたらしい。


「歯を磨く時間が遅くなるより面倒なのはシャンプーとかボディソープとかに超うるさいトコだなー。石鹸で良くね?ってなるけど。」


「それもわかるなぁ。なんかさ、シャンプーボトルから入るんだよね。可愛いとか可愛くないとか、綺麗とか綺麗じゃないとかさ」


「あるある!入浴剤とかもさー、なんか”ひのきの香り”とかじゃねーんだよな。”夜空のブーケ”とか”朝陽の香り”とか…何の匂いだよ」


「わかり難いよね。うちも”ヴァルト”とか書かれててさ。森林って意味らしいけど。」


「じゃあ森林の香りって書きゃいいじゃん、な!まあ、森林の香りって言われてもどんな香りかわかんねぇけどさ」


俊太と政道が深く頷く様子を「大変だな」と渚は他人事のような顔で見つめている。俊太が残り少ないコーラをストローでズズズッと吸い込んで珍しく話がわからない様子の渚に「朱里さんは?」と尋ねた。


「うちは早いよ。あんまシャンプーとか入浴剤のこだわりも無さそう」


「この間もさ」と、渚は思い出し笑いを噛み殺しながら先日の夜のことを思い出す。

朱里は明るいうちに風呂に入ることが好きだ。

明るいうちに風呂に入って、さっぱりした状態で夕飯を食べることはもっと好きだ。

ただ、あまりそれを出来る日はない。医学生の日常は想像以上に忙しいからだ。


だが、その日はたまたま早くに帰宅することが叶った。渚の記憶によれば「ただいま」の声色から機嫌が良いことがすぐにわかった。荷物を持ったまま風呂場に行き、風呂を沸かし、ウキウキと風呂に入りに行った。

そうしてしばらくすると、バタバタとリビングに駆け込んできたのだ。


「何、どうしたの」


「…シャンプーが切れてた」


「予備があったでしょ?」


「面倒臭かった。洗面所寒いから。だからお父さんので洗った。」


「…緑色のやつ?」


「それ。」


「あれ、メントールシャンプーだよ」


朱里はエアコンから吹く温かい風すら清涼感を覚えるようでタオルで必死に頭を巻いていた。


「やばい、頭皮があると思えない」


そう言いながら、ストーブの前にかかんで頭をかざしていたのだ。さぞかし冷たかったのだろう。朱里は小さく「廊下を走ったら寒気に頭を持っていかれると思った」と語っていた。


「うちの姉ちゃん、洗えればいいみたいな人だけどあれ以来父さんのシャンプーには触らなくなった」


「朱里さん、男らしいね」


「結局、美月さんは残りの1時間何やってんだよ」


「ボディクリーム塗ったり、柔軟やったり、シリコンマスク取って、また化粧水叩き込んで、乳液とか、オイルとか顔に塗りまくって、終わったら髪乾かしてる。それが終わったら歯を磨いて…歯磨きもさ、まずマウスウォッシュうがいした後に普通の歯磨き粉で磨いて、重曹の歯磨き粉で磨き上げて、そしたら次は顔ヨガ。その間洗面所と風呂場は姉さんの独壇場だよ」


「そんなにやってんの…」と俊太が絶句すると、政道はもう一度ため息をつく。世の中の女子は皆そうなのだろうか。渚はつくづく男で良かったと思った。


「三者三様だな。」


「いいなぁ、朱里さんお風呂の時間短くて。」


「じゃあ、姉トレードする?」


渚がそういうと、政道は多少黙り込んだ後に「僕は朱里さんについていけないと思う」と笑い出した。確かになぁ、と渚も頷く。俊太も政道も、朱里が繰り出す手刀と、それを食らってしゃがみこむ渚を思い出していた。

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