第5話*ミカンの回

「…何やってんの?」


世の中はクリスマスから大晦日に正月と宗教ごった煮イベントに流れ込もうとしている12月。冬休みに入った俺が昼過ぎにのそりと起き眠気まなこで部屋から出て階段から降りると、段下の納戸からクーラーボックスを引っ張り出す姉がいた。

クーラーボックスは以前、姉ちゃんに駆り出されたバーベキューで活躍して以来陽の目を見ることがなかったものだ。まだ真新しい水色なのにどこか埃っぽいそれを姉ちゃんはウキウキと乾いたタオルで磨きながら「釣りの準備」と返事した。


…釣り、したことあんの?


なんて、そんな愚問は喉元で引き留める。

姉ちゃんは続いて釣竿を乾いたタオルで拭いているが、多分それ新しいやつな気がする……買ったのか、わざわざこんな思いつきのためだけに。毎回思うけど、姉ちゃんはいつも形から入るくせに飽き性だ。


「何釣るの?」


「ブラックバス」


「どこで?」


「川」


と言って、家の外を指差す。え、そんな近場?しかも川じゃなく用水路ですけど。

姉ちゃんは続けて「覗いたらよく泳いでるから、シマシマのやつ」と一言。多分それはブラックバスではない気がする。


「…沢山釣れればいいね」


それ以外に姉ちゃんに掛けれる言葉があっただろうか。いや、ない。精一杯だったと思う。


姉ちゃんは普段全く家から出ない。

尻に根が生えたように家から出ない。

家から5分のコンビニすら「行こうかな」と悩んで1日を終える人だ。

そのくせ昔から何かを思い立ったら即動く。17年弟として姉ちゃんを見ているが全く行動を読むことが出来ない。急に「うどんが食べたい」と言い出したかと思えば生地から作り出したりする。

行動の振り幅がかなり広い。高校時代、三者面談で「勉強よりもまずはご家庭での様子を聞かせてください。全く考えが読めません」と担任から真顔で聞かれたくらい、行動が読めないのだ。


「渚、ほらその椅子出して」


「これ?折りたたみのやつ?」


「そう、二脚ね」


「なんで二脚?誰と釣んの?政道の姉ちゃん?」


「は?早く上着着てよ」


「…俺かよ…」


折り畳み椅子を家の前の用水路沿いに並べる。さすが12月、北風が冷たい。姉ちゃんというと鼻歌交じりで珍しくご機嫌だ。そして用水路の中を覗けばいつの間にやら増えに増えた外来魚がウロウロとせわしなく行き交っている。昔はこの用水路、野鯉とか日本ナマズばっかりだったんだけどなぁ。

姉ちゃんは折り畳み椅子に腰掛けると、準備してきたらしいタンブラーを俺に差し出した。中身はカフェラテだ。なんだ、今日はアウトドアな気分なのか?よくわからん。ただ、姉に限らず女性の機嫌は損ねない方がいいと政道が言っていた。俺は黙ってタンブラーを受け取って、甘いラテを一口飲む。


「二人で釣り?」


近所に住む山村の婆ちゃんとその娘の八千代さんが「相変わらず仲良しねぇ」と話しかけてきた。


山村の婆ちゃんは座れるタイプのシルバーカーを押していて、そのシルバーカーのシートに赤いネットに入ったミカンを乗せていた。姉ちゃんが「買い物ですか?」と返事をすると、婆ちゃんは「主人がミカンを食べたいっていうからね」と笑う。婆ちゃんのご主人(山村の爺ちゃん)は何年か前に亡くなっている。姉ちゃんはそれを理解した上で「冬になるとお蜜柑が美味しく感じますもんね」と頷いた。八千代さんは困ったように笑いながら、「お蜜柑はお母さんも好きなのよね?」と婆ちゃんを促すように話した。


「お母さん、柳さん姉弟は本当仲良しねぇ」


19歳と17歳が肩を並べて用水路で釣りをする姿を柔らかな表情でお婆さん達はしばらく見ていた。姉ちゃんは「割と仲良しなんですよ」と返す。


「息子さん、大きくなったわねえ。今、高校生?」


「はい。」


「早いわねぇ。この間までこの辺りで走り回ってたのに、見なくなったと思ったら高校生なんだもの。お姉ちゃんも高校生?」


「私は大学に行かせて貰ってます」


「あらー!本当、びっくりするわね…私も歳をとるはずだわ。」


「全く昔とお変わりないですよ。…そういえば中学生の時は、よくいってらっしゃいって声をかけて貰ってました。お爺さんに。」


姉ちゃんがそういうと、八千代さんが懐かしそうに目を細めて「そうだったわね」と笑う。


山村の爺ちゃんはしばらく透析を続けていて、病院の迎えの車が来る時間と姉ちゃんが中学校に登校する時間が被っていたらしい。

いつもニコニコしていた爺ちゃんだけど、時折苛立ちを隠せないような大きな、破裂するような声をあげることがあった。姉ちゃんはその声を聞く度に、少しタイミングをズラしてプリンやらゼリーやらを「お裾分け」と称して爺ちゃんに会いに行っていた。


そんな爺ちゃんが亡くなったのは急だった。

婆ちゃんは、爺ちゃんが亡くなった後酷く弱々しくなった。

近所の人たちが口々に「旦那さんの付き添いやら看病やらが終わって、ようやく少しは楽になりますね」と語りかけると婆ちゃんは「そうね、少しは落ち着くかねぇ」と頷いていた。そんな中、姉ちゃんだけは「寂しくなりますね」と一言婆ちゃんに告げていた。婆ちゃんは力無く笑って「ありがとうね」と姉ちゃんの手を握っていた。

婆ちゃんはその後しばらくして、認知症になったらしい。


山村の婆ちゃんと八千代さんは、赤いネットからいくつもミカンを取り出して分けてから帰って行った。姉ちゃんはクーラーボックスにそれを入れて頭を下げてお礼を告げる。

「ありがたいね、きっととびきり甘いはずだよ」と大事そうにクーラーボックスの蓋を閉めた。


「ガーとか釣れたらびっくりするよね」


姉ちゃんは用水路を見ながらウキウキと告げる。確か、名古屋城の外堀とか、神戸とか、熊本でもガーが釣れたとかガーが泳いでいたとかニュースで見たことがあるけれど、本当にこんな用水路でアリゲーターガーが釣れたら大変なことだ。だけど用水路をスイスイ泳ぐ外来魚を見れば「いるわけないだろ」ともいえない。


「そうだね、熊本県民全員でびっくりするよ」


「ピライーバとか、ピラルクーとかさ。」


「いや、それはいないよ」


「江津湖とかならさ」


江津湖とは、熊本にある湧水の湖だ。

確かに外来魚が問題になってはいるけど、そんな大型魚がいたら大問題になる。


「アマゾンじゃないんだから…」


「夢がないね」


「そういう問題じゃないと思う。」


「餌は?」


「は?」


「何なら釣れる?」


「えっ、それを俺に聞くの?」


「専門家に聞くか。」


そういうとポケットからスマートフォンを出して、ポチポチと文字を打ち込む。姉ちゃんのスマホは画面こそ割れてはいないけど傷だらけだ。曰く「手からすっぽ抜ける」らしい。


「ルアーだって」


「専門家って、政道の姉ちゃん?」


「うん」


「…ちなみに、なんて聞いた?」


「”ブラックバス 餌”って送ったら”もしかして:ルアー” ってきた」


「あのね、用水路泳いでるシマシマのやつはブラックバスじゃないよ。テラピアだよ。雑食だから何でも食らいつくと思うけど」


「分かってるなら早く言ってよ」


「…あ、ミミズは?」


「ミミズ?掘ったら出てくる?どうやればいいの?千切って、釣り針に刺す?」


「千切…あ、家にパンあったじゃん!あれでいーよ!パン、パン!」


ミミズを千切るって年頃の女子が言ってもいい言葉なのだろうか。さすがに自分の姉ちゃんがミミズを掘って探して千切る姿を見たくなかった俺はダッシュで家から食パンを1枚取ってきた。

姉ちゃんは食パンを乱雑にちぎり、くるくると丸めて針に刺す。そしてその釣り針を雑に用水路に投げ入れた。


「ねぇテラピアの捌き方ってわかる?」


「…まさかだけど、食う気?」


「いざって時にお腹を慣らしておいたほうがいいと思う。」


「いざって、どんな時だよ…」


姉ちゃんは「いざは、いざだよ」と真顔で告げた。いつも思うんだけど姉ちゃんは何かと戦って生きているんだろうか。

俺は寒空の下、山村の婆ちゃんから貰ったミカンをムシムシと剥いた。ミカンは甘くはなくて、コメカミがぐーっと引き攣るように酸っぱかった。

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