第3話*パンの回
「今日、何時に帰るの?」と後ろから声を掛けられた。
ペニーローファーのつま先を玄関の大理石の床に”トントン”とぶつけながら「19時には帰るよ」と僕が告げると、姉が安堵するように胸に手を当てた。
イギリスから輸入した淡いピンクの花柄の壁紙
そこに掛かるゴールドで縁取られた絵画のような八角形のミラー
壁に沿うように置かれた白いフレンチスタイルのサイドボード
彩るように敷かれた深みのあるグリーンのペルシャ絨毯
そしてそれらを一望するチェコ製のシャンデリア
年頃の男としては多少の暮らし難さを感じるロココ調のこの家は、近所で「カスカヴェルサイユ宮殿」と呼ばれている。
この家の住人である「春日部」という苗字からつけられたものだそうで。そう呼ばれ始めたのは、家を新築してからだから、14歳の時に家を新築してからだ。そんな風に近隣住民から呼ばれているということは年頃の男子にとってなんとなく帰宅が遠ざかってしまうものだった。
近隣住民が「カスカヴェルサイユ宮殿」と呼び始めたのは、嫌味でも嫉みでも面白がっているわけでもないらしい。
お隣のお婆ちゃんは「あまりにも前の家とのギャップに驚いたからねぇ…」と話してくれた。
僕たち家族が昔住んでいた家はロココ調もヴェルサイユもかけ離れたような、大きいだけのぼろ屋敷だった。
廊下を歩けば穴が開き、雨が降ったら雨水が漏れ、扉を開ければムカデが降り、夏場はヤモリも蛇も侵入する。
でも、今思えば”住み”心地はあまり良くは無かったけれど「住めば都」とはよく言ったもので、あの頃はあのぼろ家が”居”心地のいい城だった。
特に母にとっては昔から愛着のある実家だった。
壁の傷を見ながら「これ、私がお兄ちゃんと喧嘩した時の傷なのよ」なんて懐かしむように語っていた。勿論、新築なんて考えもしていなかったらしい。
その母の気持ちを変えたのが、姉だった。
「人妻死後会旧夫語(ひとのめ、しにてのち、もとのおっとにあうこと)」
古くなった畳を隠すように敷かれたカーペットの上で家族で食卓台を囲み、蟹鍋を食べていた時だった。
姉はコトン、と箸を置いて急にそう呟いた。いつも以上に笑顔だったことは今でも鮮明に覚えている。
「何、急に」
驚いた僕に姉は「今昔物語よ」と返す。そういえば、授業で「竹取物語」をやっていた時に国語の先生が「古典を勉強するなら今昔物語も、読んでみるといい」と言っていたことを思い出していた。
「クラスメイトが"美月の家ってこの話の家みたい"って笑うの」
「どんな話なの?」
「もしかして、庭から大判小判が出てくる、とか」と父が笑うと、姉は間髪入れずに「そんな話なら私は旗を振って歩くわ。」と答えた。僕は頭の中で「大判小判が沸きます。拝観料要相談」と書かれた旗を持つ姉が、ツアーコンダクターのように歩いている姿を描いていた。
姉が俯いて「夫に捨てられた女が、嘆き悲しんで病気になるんだけど診てくれる人もいなくて一人で死ぬの。でも死んだ後も誰も寄り付かないから、どんどん家が荒廃してしまう話」というと、父親はぐっと押し黙った。
正直「あぁ、確かに」と思った。
この家は古すぎるし、あまり手入れが行き届いていない。むしろ手が入れられないのだ。逆に、色々と、本当に古すぎて。
「私、お婆ちゃんの事大好きよ。お母さんの気持ちもわかるつもりだし、この家にも馴染みがあるけれど…こういうことを言われて初めて…」
そういった姉は満面の笑みだった。
彼女は昔から怒りに比例して笑顔になるという性質を持っていた。
「クラスメイトを全員メコン大鯰の餌にしたかった」
あと、鯰が好きという嗜好も持っていた。
(特に好きな鯰はレッドテールキャットらしい)
母も父も最初は「からかわれただけで、大げさな」と笑っていたけれど、理由が何であれ、割と年頃だった姉にとっては大きな傷になっていた。
何しろ姉のプライドはマカオタワーより高い。
故に彼女はいつも、彼女の基準に基づいた完璧を求める。そのためになら自分も磨くし、家族も磨く。僕はよく周りから垢抜けして見られることがあるけれど、言わずもがなそれも姉の教育の賜物だった。
母は「思い出の家だから」と渋っていた。
うちは父親はそこそこのホテルとデパートの経営者、母親が大学教授と、割と裕福な家庭だった。姉の満面の笑みを見続けたことと、丁度その時期に大きめの台風が直撃したことで「じゃぁ建て直そうか」となったのだ。
そうすると「思い出の家だから寂しいわ」としんみりしていた母も急に「トリーア選帝侯宮殿が・・・」と言い出した。姉もその母に油を注がれたのか加速するように「マホガニー材のソファーとベッドで・・・」と言い出した。僕と父親にはカタカナだらけで良くわからなかった。だからあまり口は出さなかった。住めれば良かったからだ。ただ、二人が「舞踏会の間」の話をし始めた時にだけ「舞踏会はやらないから、いらない」と止めておいた。
そうして出来上がった家が今の春日部邸・・・カスカヴェルサイユ宮殿だった。近隣住民は「どんな匠がビフォーアフターしたのか」と大層噂を飛ばしたらしい。
姉と母は自宅がカスカヴェルサイユ宮殿と呼ばれている事に対して「確かにロココ調はフランス生まれだけど」「ヴェルサイユかと言われたら我が家はフランスよりサンクトペテルブルグの・・・」と話していた。
やっぱり僕と父にはよくわからなかった。
まぁ女性の趣味がふんだんに施されてはいるけれど、思春期の僕が「ただいま」と帰るには少し恥ずかしい外装の家だけれども、丈夫で立派で隙間風も吹かないこの家はいつしか最高の住み心地だった。結局住めば都なのだ。
「何かあるの?」
今ではすっかり見慣れたギラギラする玄関で数年前を反芻する。考えたら、姉はあれからよりいろんな事に気を配るようになったな、と気付く。着るもの、所作、言葉遣い。それとこの家に合わせるように難しいカタカナまでも使いたがる。
「今日、お姉ちゃん大学が早く終わるから、ビーフウェリントンを作ろうと思って。でも政道が遅いのなら・・・って考えていたのよ。良かった。美味しいパンも焼くからね。」
ビーフウェリントンが何かわからなかったけれど、まずそれはさておき、にっこり笑って「パン。」と返す。姉もにっこり笑う。僕は華奢で小柄な姉と向き合うとたまに野生のゴリラに対峙したような恐怖を覚える事がある。勿論、口が裂けても言え無い事だ。結局、言いたいことの全てを飲み込み、一拍置いて「わかった」と頷くと重い足取りで学校へ向かった。
僕と姉はよく似ている、らしい。
顔つきに肌の色、そして普通の人よりも色素の薄い髪の毛。その外見から二人とも異性からの"ウケ"がよかった。僕にも実はそういう自覚があった。
けれど、弟という存在は、否が応でも女という怪物を幼いころから知らされる。だから決してその"ウケ"に流される事はない。
悲しい話だけれど、自分より華奢で小柄な生き物が、頬を染めながら「春日部くん」と鼻にかかった甘えたような声を掛けてくる度に「この女の子はにはどんな怪物が住んでいるのだろう」と思ってしまうのだ。
そんな僕とは裏腹に、姉は”ウケ”を駆使して来た。
高級な国内車で送迎してくれる男もいれば、かぐや姫のような無理難題もこなすような男もいた。
そんなに男性に不自由しない姉でも稀にフラれる事がある。
そして姉はフラれると決まってパンを焼く。
自分がフッたら何もしないけれど、フラれると必ずパンを焼くのだ。
思いのたけを生地にぶつけると、ふっくらモチモチの美味しいパンが焼けるらしい。
泣きはしないし、愚痴も言わないけれど、パンを大量に焼くのだ。その体の中に何が渦巻いているのかはにも掴みきれてはいない。
「何で今日、そんなに顔色悪いんだよお前」
十字架を担いだキリストのような体で学校にたどり着くや否や、俊太が心配そうな顔で声をかけて来た。「春日部、夏のパン祭りだよ」というと眉根を寄せて困ったような顔で笑う。
「美月さん男を逃したか。」
俊太は「ありがとう、いーくすりです」と胃薬を分けてくれた。僕はそれを受け取ると「俊太も来れば?」と誘ってみる。彼は「まっぴらごめんだ」と笑った。薄い唇がケケケと笑うと、八重歯が顔を出す。
「俊太のところはいいよね。パン祭り、ないし」
「うちは既婚者だしな。」
「おはよー。何、何の話?政道、なんでゲッソリしてんの?」
「政道は今日、パン祭り」と俊太が答えると、渚が「あの、恐怖の」と言いつつ苦笑いを浮かべた。
「あの、ごっつい、金ぴかのキッチンでパン生地叩きつけるんだよ…」
ダン!ダン!ダン!と、笑いながら。
僕の話を聞くと俊太と渚は顔を見合わせて笑った。笑えるのは他人だからだ、とも思うのだが確かに僕にも「うちの姉は何やってるんだろう」と笑えてしまうから不思議だ。
「美月さんは、ハイパー石油王と結婚して欲しいな」
「そうだな。で、喧嘩する度にハイパー石油王に、ふっくらモチモチのパンを焼いて欲しい」
「ハイパー石油王に、アラビア語で”春日部パン祭り”の説明しなきゃいけなくなる」
ため息をつきながらそういうと、俊太はこれ以上ないくらいに腹を抱えて笑い出した。
それを見ていると、段々と僕もおかしくなってくる。なんだ、アラビア語で「春日部パン祭り」の説明って。バカらしい。いい意味で、ばからしくなってくる。
「俺、パン貰って帰るよ。姉ちゃん、美月さんが焼くパン好きだし。」
「あーあー、渚は優しいなぁ。」
「わかった、わかった、俺も貰って帰るって!それでいいだろ?」
「笑かせてもらったからな」と俊太はヒーヒー言いながら告げた。
この後、パンを貰いに立ち寄った俊太と渚も、あの「カスカヴェルサイユ宮殿」の中に誘われて「春日部、夏のパン祭り」の逃げられない参加者となってしまった。
喰えども喰えども湧いて出る呪いのような量のパンを作り出す美月のふっくらもちもち具合と、あの笑顔に後押しされて。
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