第2話*弱点の回
幼いころ、俺と姉ちゃんはいじめられっこだった。
物心ついた頃から両親は働いていて、俺たちは保育園へ早々に入園した。
俺も姉ちゃんも給食で出される牛乳が飲めなかった。そのことで「牛乳飲めない子は遊んであげなーい」と意地悪をされていた。
俺はそれが辛くて、哀しくて、姉ちゃんに「牛乳を飲む練習をしよう」と縋り付いたけれど、姉ちゃんは「嫌だ」と俺をはねのけた。そして結局俺は爺ちゃんに泣きついて、毎夜毎夜コップ1杯ずつ牛乳を飲んだ。どのくらい嫌だったかというと、円形脱毛症が出来るくらい嫌だった。
そうしてやっと牛乳を飲めるようになった俺とは反対に、姉ちゃんはいつまでも牛乳が飲めなかった。
一度、砂場で「あかりちゃん、牛乳飲めないから遊んであげなーい」と言われている姉ちゃんを見たことがある。まるで自分が言われたような気がした。俺が幼いながら一人で「どうにかしないと」と焦っていたのに対して、姉ちゃんはいつも通り、とりたてて顔色も変えずにこう言い放った。
「別に、頼んで無いから。」
これは齢5歳の少女の返答にしては強すぎた。
それから、姉ちゃんを遊ぼうと誘う女の子はいなかった。
小学校に上がっても、俺と姉ちゃんはいじめられっ子だった。
ある日、帰ろうと下駄箱を覗くと姉ちゃんの靴が無かった。やっぱり両親は働いていたから、俺はあの時も姉ちゃんにくっついていた。だから姉ちゃんがそうして意地悪をされる場面をよく目の当たりにした。
けれどやっぱり姉ちゃんは、どんな事にも顔色一つ変えなかった。
靴を隠したと思しき首謀者の靴をぶんどって、目の前を流れる川に投げ捨てた。
いつだって姉ちゃんはこうだ。
姉ちゃんはとにかく強かった。
俺はいつも「泣くな」と言われていた。
けれど、姉ちゃんは別に俺に対して冷たいわけじゃない。
俺が同級生と、その兄に意地悪をされていた時、姉ちゃんは後ろから同級生を田植えの準備が整ったぬかるんだ田んぼに突き落とし、兄のズボンを思い切り下げて下半身をすっぽんぽんにしてくれた。
姉ちゃんはいつだってこうなのだ。
「ifがあるから仮定法って考えちゃダメ。混合文だとifは無くなるから。それでも助動詞は残る。だから助動詞を見つけたらまずは仮定法疑う。で、消えたら倒置」
「えっと、He had not been…」
姉ちゃんはにっこりと俺に微笑んで、俺のすっかり使い果たした(元から使う程持ってはいないけど)頭にご自慢の手刀を振り降ろした。
「Had he not been!倒置だっつってんでしょ!」
ぐわんぐわんと、例えようのない衝撃波を喰らった頭を押さえてうずくまる。自宅のリビングでこんな手刀を食うことはおよそ一般家庭ではないだろう。
昔からこの手刀は姉ちゃんの得意技だ。
門限を破った時、友達と喧嘩した時、お袋に思わず「うるさい」と口答えた時。幾度となくこの頭に振り降ろされてきた。
「あかりちゃん、ママ、お仕事行ってくるわね。夕飯どうする?」
キッチンで洗い物を終えた母はリビングに顔を出すと、頭を抑えてうずくまる俺を見て「仲良しね」としみじみ告げた。仲が悪いとは言わないが、どこが?うちの母は割と天然だった。
「何か買ってくるよ、渚が」
「俺かよ…」
「あら、そう?じゃぁお願いね」と、お袋は出かけて行った。
昔から家のことの一切・・・は俺がやってきたけど、姉ちゃんの謎の存在感から両親は安心して仕事に打ち込めたらしい。
確かにわからなくもない。
夜中に外から物音がすれば一番に父親の木製バットを持って出て行くし、30kg(1俵)の新米を親戚の農家から貰った時も軽々と担いで家の中に運んで行った。
少し前にでかい地震が来た時も、揺れが収まったと同時に「渚はブレーカー!お母さんはガスの元栓!お父さんは戸締り!」と指示を出していたし、その時の姉ちゃんはすでに貴重品と持ち出せるだけの備蓄をバックに詰めていた。
近所のお爺さんが風呂場で倒れた時もバスタオルを体に掛けて引っ張り上げたし(バスタオル掛けたら滑らないから引っ張り上げやすいらしい)、ペットが死ぬ時も涙も見せずにしっかり抱きしめて最期を看取る。
とりあえず我が家は凶暴だけど姉ちゃんがいればなんとかなる、という空気があるのだ。
爺ちゃんも、婆ちゃんも、親父も、お袋も、口をそろえて「あかりには反抗期が無かった」という。
昔からやりたいことを真っ直ぐに突き進み、常にわが道を進む。
進学も、将来の夢も、誰にも相談せず、誰にも心配させずに決めた。
そうして国立の医学部に進み、今は医者になろうと必死に勉強している。結局俺は、そういう姉ちゃんを一番よく知っていたりするから「じゃぁ夕飯はカレーだな」と言うしかないわけで。
「で、ここは・・・助動詞を見つけたら仮定法かもしれないって考えて、そしたら代わりの表現を探す。withoutとか、otherwiseとか、無生物主語とか」
「和訳は?」
「頭の中でIf足せばいい。だから代用表現は絶対覚えな。」
「赤点とったら、エヴァンのチョコね」と姉ちゃんは付け足す。
「マジかよ!」
「嫌なら勉強。」と、青い蛍光ペンでアンダーラインを引く。根拠はないけど、姉ちゃん曰く「青は覚えやすい色」らしい。姉ちゃんの経験からだと思う。
もしかして、カマキリだったら俺は食われてたかも。
姉ちゃんの方が体がデカくて、力が強くて。で、俺が英語を間違えるたびに一口ずつ食べる、みたいな。
思わず噴き出すと、姉ちゃんは「集中しろ」ともう一度俺の頭に手刀を振り降ろした。
「姉ちゃんってさ、怖いものあんの?」
「貴様の赤点」
「いや、そうじゃなくて!例えばほら、ゴキブリとか」
「は?液体洗剤掛けたら死ぬじゃん」
「幽霊とか」
「見えないから怖くない」
「高い場所は?」
「平気」
「歯医者とか」
「バカにしてんの?」
「それ全部あんたが怖いものじゃん」と鼻で笑う余裕を見せつけた。
政道の姉ちゃんが苦手な蛇もうちの姉ちゃんは庭に現れた時には金鋏で掴んで近くの野原に逃がしに行ったし、俊太の姉ちゃんが苦手なジェットコースターも昔からケラケラ笑いながら乗っていた。
うちの姉ちゃん、もしかして弱点がないのかもしれん。
今更ながら新事実だ。政道と俊太に教えなければならない。
「嫌いな食べ物もないし、怖いものもないし、人間じゃないんじゃ…」
「ねぇ、早く問題解いてくれない?」
姉ちゃんは指先で問題集をカツカツと叩いた。
ついでに「苦手科目は?」と聞いたら「笑止」の一言。武将かよ。
「渚は甘いの。好きなものや得意なものは他人に話してもいいけど、弱点になりそうなものは話さないようにしないと生き残れないよ」
この人は何から生き残るつもりだろうか。
いいことを言ったと言わんばかりの姉ちゃんの表情と、この先のわからない問題の羅列に俺はがっくりと肩を落とした。
翌日、政道と俊太にこの話をすると「それって、新発見より再確認じゃね?」と言われた。
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