お姉さまの言うとおり

夏目彦一

第1話*弟たちの憂鬱

幼い頃から、【女】という化け物に飼われている。


姉がいれば一度は耳にするかもしれない台詞。

「姉ちゃんって羨ましいなぁ」

羨ましい?バカを言うんじゃない。


「帰り何時?」という一言のメールで「飲み物が欲しいのだろう」と察する能力、電話越しの声で機嫌を感じ取るスキル。

少なくとも姉という存在が弟にもたらすメリットはこういう【特に必要のない鎧を身に付けることができる】という点だけかもしれない。


そう、【弟】とは、対姉用に仕立て上げられた家臣に過ぎないのだ。


「コンビニ寄って帰ろうぜ」


渚は俊太の呼びかけに軽く頷くと、冷たいコンクリートの床にスニーカーを投げた。

バスン、と着地したヒョウ柄のハイカットスニーカーは今年の誕生日に姉がくれたものだ。

どこから見つけたのかわからないけれど渚の好みと遠くかけ離れたこいつを、姉がなんとも誇らしげな顔で差し出してきたのは猛暑日の続く九月に入ってすぐだった。


「俺の誕生日は12月だけど」


思わずそう零すと「いや、いいのを見つけたから先にあげとく」と、嫌がるヒロインに偽物の金を差し出すカオナシのようにズイ、とこのスニーカーを差し出したのだ。


「いつ見ても渚のスニーカー、派手だね」


政道が隣にローファーを降ろしながら笑った。

俊太は自分のスニーカーの踵を踏んだままで「それ、風紀で引っかかるだろ」と呆れたように渚のヒョウ柄を指差す。


「仕方ないだろ、姉ちゃんが履けってうるさいんだから」

「渚の姉ちゃんの趣味ってスゲェよな。」

「今年の流行りを先取りしてたんじゃない?流行ってたでしょ、ヒョウ柄の服装で踊るアレ。」


というと政道は「アッポーペン」と言いながら両手をパン!と叩いた。多分彼はちゃんとその踊りを見たことがないのだろう。俊太がすかさず「ちげぇよ、それじゃあ等価交換じゃねぇか」と正しく踊ってみせた。


12月の熊本は、平年より暖かい日が続いていた。

室内に入れば日差しだけで20℃近くまであがっていたけれどやはり季節は冬である。

急に空気がキンと澄み渡ってきたと思っていたら、あっという間に阿蘇山が白い雪を纏った。もうそんな時期か、と思いながら気付けば渚は誕生日当日を迎えていた。


今朝、姉は家にいなかった。


もっと言えば姉は昨日から家にいなかった。

どうやら大学に泊まり込んでいるらしく、父親が「姉ちゃんがいないと家が広く感じるなぁ」と呟きながら夕飯のポトフを口に運んでいた。「広く感じる」のは開放感か、それとも父親という立場からの寂寥感からかはわからなかった。


「日が落ちるのが早いね。まだ18時なのにもう暗い」

「そういや来週クリスマスじゃん」


コンビニに辿り着いた時、俊太が店内を流れるクリスマスソングに耳を傾けた。

雨が夜更け過ぎに雪に変わることは熊本の平地ならまずない。そういやホワイトクリスマスの経験は一度もない。クリスマスソングを口ずさみながら渚はブレザーのポケットから携帯を取り出す。


「政道の姉ちゃんは、クリスマス家にいんの?」

「いないね。記念日とかイベント大好きだから。俊太のお姉さんは?」

「うちは寺だから、クリスマスあんま関係ねぇな。この時期はクリスマスのデコレーションより渋柿を湯通しして干す作業ばっかしてるわ」

「お前の姉ちゃん、渋好みだな」

「干し柿好きなんだよ、あいつ」


渚がアドレス帳から姉を探していたまさにその時、政道と俊太の左手にも各々の携帯で同じことをしていた。


【コンビニに居るけど、何かいる?】


渚、俊太、政道は保育園からの腐れ縁でもあり、姉という生き物を持つ戦友でもある。

物心がついた時から「弟」という身分を与えられた三人は、友達と遊びたくても姉の一存でままごとの相手に抜擢され、おやつは8:2なのに「はんぶんこ」と言われ、嫌いな食べ物を押し付けられ、喧嘩をすれば度々弱点を突かれてきた。

そのうち、姉の背丈を越え、力も強くなれば立場は逆転するかもしれないと思っていたのに、現実は「弟がより便利になった」という事だけだった。高いところに手が届く弟、重いものも持てる弟、いざという時頼りにならぬが盾にはなる弟。

三人が学んだことは、どれだけスマートに姉を回避出来るかという酷く消極的なものだけだ。

故に自然とこのメールを送ってしまうのもわかって頂けるだろう。処世術に過ぎないのだ。


三人は情けないような気になりながらも”先の平和”のために静かに送信する。

コンビニに寄って何も買って来なかったからと言って姉という生き物が不機嫌になる事はないが、この場合の”先の平和”とは「欲しいものがあるからコンビニつい来てよ」というよくわからない付き添い命令がある場合に備えたものだ。面倒臭いし、寒いし、だからといってそれを渋ると出てくるのは父親である。「痴漢とか出たら危ないだろう。ついて行ってあげなさい」と…。それを言われれば何とも断りづらくなるのは男だからだろうか。そして、姉に出くわす痴漢の方がよっぽど危ない気がするのは、弟だからだろうか。


「渚の姉ちゃんは?今日いるの?」

「知らん。いないならいないに越したことはないけどな。あ、でも去年は居なかった」

「おっ!デートか!?」

「政道の姉ちゃんと映画見に行ってたよ」

「そういえばそうだったね。山本五十六見てきたって言ってた」

「やまもといそろく」


「クリスマスとえらく離れた単語だな」と俊太が腹を抱えて笑った。


「あ」


政道がそう言って携帯の画面を見つめていたかと思うと、それをスッと2人に差し出す。

彼の携帯には【お金かな】という文字と、羽根の生えた札束の絵文字が表示されていた。


「政道の姉ちゃんはブレないな」

「最近、ネットの検索バーの履歴に”石油王 婚活”って出てたんだよね」

「マジかよ。石油王狙ってんの?」

「いや、本人は石油王よりハイパー石油王を狙ってるみたい」


「ハイパー石油王って何だよ」と俊太が真顔になると、政道はいつもの柔和な表情で「わからない」と答えた。ハイパー石油王なんて、きっと誰もわからないだろう。


「政道の姉ちゃんはまだいいよ。うちの姉ちゃん、”油田 買い方 アメリカ”って検索してたの見たことあるよ」

「アメリカぁ?油田ってアラブとかじゃねぇの?」

「2020年までに原油生産量が世界最大になるのはアメリカらしいよ」

「へぇ…渚のお姉さんはこう…相変わらず逞しいね」

「石油王探すより…油田買うんだな」


アイスクリームの前に立つと、ハーゲンダッツの横に新作のゴディバ。

三人はそれを見ながら「値段的にゴディバだな」「高ぇ!」「値段と機嫌は比例するよ」と会話を交わす。


「俺たちは伸縮リードに繋がれた犬だな」


渚はゴディバを買い物かごに放り込みながら、死んだような目で告げた。


ただのリードじゃない、伸縮リードだ。

どんどんリードは伸びていく。自由な場所が増えるし、飼い主は見えなくなる。

意気揚々と走り回っても、リードは必ず飼い主の手の中にあるのだ。そして「ここまで」と無限に伸びて行くように思えたリードにストップをかける。

渚はゴディバを見ながら、そんな気分に陥る。

これからどんな未来が待っているんだろう。

大学に行って、車の免許を取って、可愛い彼女なんかを助手席に乗せて海までドライブに行った帰りに寄ったコンビニでゴディバを見かければ、パブロフの犬のように姉が脳裏に現れるのだろう。

見えないリードは必ず姉が掴んでいるのだ。

そして当たり前のようにメールを送るのだ。彼女の隣で「コンビニに居るけど、何かいる?」と…


三人はため息をつきながら、レジに向かう。

丁度その時、俊太の携帯に「(・∀・)」とだけ返信が来た。あぁ、何かを要求している。だがしかし、何でもいいのだ。「何か欲しいけど、何でもいいよ」という悪魔の変身だと俊太は項垂れた。


「弟ってつらいな」

「姉が羨ましいって奴は平和だよ」

「だからって、僕は別に妹も欲しくないけどね」


ゴディバの支払いを終えた頃に、渚の携帯にようやく姉から返事がきた。


【明日って晴れる?】


「答えになってない…」


明日何かあるのだろうか。

自分に関係のないことなら何でもいいけれど、明日の天気は雨らしい。


三人はそれぞれコンビニの袋を下げて家路につく。

弟とは苦労する生き物である。

願うことは、姉が買ったばかりのゴディバのアイスでご機嫌を保ってくれることのみであった。

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