第7話



「峯田君」

 翌朝、峯田君がコーヒーを買って席に戻ってくると馬場君が待っていました。琥珀色の髪の毛が朝の光を弾いて眩しいくらいに綺麗でした。

「お、馬場、おはよ。どしたの?」

 馬場君はいつもの優しそうな笑みを浮かべていましたが、どことなく冴えない表情でした。馬場君には珍しい事です。

「あのさ、良かったら今日、飲みに行かない?」

 断る理由はありませんでした。峯田君は違和感を覚えて若干戸惑いましたが、どうしてなのか咄嗟には分かりませんでした。

「いいね、行こうぜ。明日休みだしな」

 

 馬場君と良く飲みに行くようになってからというもの、峯田君は絶好調でした。

 絶好調とは言っても鬼のように仕事の成果を上げる、だとかそういう事ではありません。むしろ以前のように何か生き急ぐように強引に仕事を進めるのはやめ、深夜までの残業はほとんどしなくなりました。

 気持ちに余裕が生まれたせいか、他人の失敗や仕事の遅さにいちいち眉をひそめる事もなくなり、自身のミスも減りました。

 今まで峯田君は自分から誰かを個人的に飲みに誘う事はほとんどしていませんでした。同期や同じチーム内で大勢集まっての飲み会には良く参加していましたが、所詮それらは仕事の延長でした。

 いかにそつなく先輩を持ち上げ、要領よく笑いを取り、時には同僚相手にマウント行為もし、自分の強いイメージを印象付けるか、以前の峯田君は飲み会をそういうものだと思っておりました。むしろそれが大事なのだとすら思っておりました。そして峯田君はそういった事が得意でしたし、特に疑問も抱きませんでした。

 けれど今は過去の自分の醜さが良く分かります。誰かを馬鹿にする事でしか人を笑わせられないのなら黙っていればいいのです。大声で人の注意を惹いて話題の中心になって優越感を満足させても結局何も残らないのだと知りました。

 かつての馬場君が、そして馬場君と似たような考え方の人々が勝手に「ある」と思い込んでいるせいでかろうじて成立しているそのヒエラルキーのピラミッドは「ない」と思い込んでしまえば簡単に消し去れるのです。峯田君が馬場君と飲みに行くようになり初めて気が付いた事でした。

 また、今まで峯田君は飲み会での会話というのは会話している相手ではなく、それを聞いている聴衆をどうしても意識してしまっていました。向かい合っている相手を気遣う事、本音を言う事など二の次で、座を盛り上げ聴衆を楽しませること、いいえ、楽しませる事が出来る男だとアピールするのが重要でした。

 馬場君と話すのはどうしてこうも楽しいのか、峯田君は考えました。

 馬場君と飲む時はたいてい二人きりでした。同期ではありますが、部署も仕事内容も違うので愚痴を言っても気楽なものでした。だからでしょうか、少し違う気もします。

 そこで、心の赴くままに目の前の相手を第一に考えて会話をしても良いからなのだ、と思い至りました。

 しても良い、つまり今までは、しては駄目だ、とそれを自分に禁じていたという事です。

 馬鹿らしい話でした。

 会話している相手を気遣っては駄目な場面など、本来はあるはずがありません。そして、今こうして馬場君と話していて楽だと感じているからには峯田君はそれを必ずしも楽しんでいたわけではないという事です。

 もちろん、自分以外の若手を蹴落とし、上にのし上がって行くというのはある種の快感がありました。峯田君もそれを否定する気はありません。峯田君はそのゲームの優秀なプレーヤーでしたからなおさらです。けれどそれは他人の心を踏みつけてまでする事ではありません。峯田君もきっと心のどこかでそれを分かっていたのでしょう。今、それをやめてしまってこんなにも心地よいのですから。

 それならば、相手は馬場君でなくても、誰かと二人きりで飲みに行けば気が付けた事なのではないか、というとそれも違うような気がしていました。

 馬場君は自分を飾る事は一切しませんでした。常に真っ直ぐ峯田君を見ていました。どちらかというと慎重に言葉を選ぶタイプでしたが、自分を守る事には無関心で、その慎重さは峯田君に誤解を与えたり、峯田君を傷付けたりしないためのものでした。

 悪魔はもともと並外れて美しく強く賢いので、人が作ったちんけな物差しからははじめから自由なのだ、と言ってしまえばそれまでなのかもしれません。ですが、たとえそれらから自由であっても相手を尊重するためにその自由を行使するのは馬場君の意志に他なりません。

 馬場君は尊敬に値する相手でした。

 というよりも、尊敬に値しない相手など本当はどこにも居ないのだと峯田君は馬場君と話すようになってから気が付きました。


 峯田君は今まで職場で友人を作ろうとした事はありませんでした。自分の地位(今ではそんなものは幻想に過ぎないと峯田君にも分かっていますが)を確固たるものにするために必要なコミュニケーションは取りますが、遊びに来ているわけではないのだから、と思っておりました。

 なので、峯田君が特に必要もないのに自分から飲みに誘うほど仲良くなった相手は、職場では馬場君が初めてでした。

 馬場君とする会話はいつも本当に他愛もないものでした。

 最近忙しくてテレビを見ていないせいで、年末番組を見てようやく今年流行った名前しか知らない芸人を目にするのだ、とか、タブレットの充電器が壊れた、とか、地下鉄の駅に新しく出来たコーヒーショップに部長が子連れで来ていた、だとか話しても話さなくてもどっちでも良いような話題です。

 峯田君はオチのない話をしてはいけない、と今まではなんとなく思っていたのですが、馬場君はどんな話題も真摯に柔らかく返してくれますし、そうされるとずぶずぶとそれに甘えて思いつくままに益体もない話をしてしまうのです。そしてそれに応えるように馬場君の方もどうという事もない話をしてくれました。オチなどなくてもそれがなんだか楽しいのです。駄目だしなんかする気にはなれないのです。会話は大喜利大会ではない、そんな当たり前の事が心地良く、新鮮でした。

 もちろん流れで笑ってしまうような事を言い合う場面もありました。それも、変に力んでいないせいでしょうか、いつもよりも面白いような気さえしました。

 どんな話をしても受け止めてくれるだろうと相手を安心させる事にかけては、馬場君の右に出るものはおりませんでした。案外、相手から面白い話を引き出すにはそれが一番の近道なのかもしれません。どんな相手だって評価の目に晒されたら緊張します。緊張していたら会話を楽しむのが難しくなるのは当然です。


 馬場君は峯田君と会っている時は楽しそうでした。真っ赤な目を細め、目尻をほんのり染めて微笑んでいました。時には低めの美声を惜しげもなく張って気持ち良く大声で笑いました。

 峯田君は酒には強い方ですが、馬場君は悪魔なので強いなんてものではありませんから、楽しさについ飲み過ぎてしまう事がありました。そんな時、馬場君はついさっきまで涙を流してお腹を抱えて笑っていても、ふらつく峯田君をさっと支えてくれました。

 峯田君が、悪いな、と言うと、ちょっと照れたように目を逸らすのです。世にも美しい悪魔の横顔が間近にあって、ごつい男(峯田君です)相手に照れているというのもおかしな話ですが、それを見ると峯田君の方もまごついてしまってどうしたらいいか分からなくなります。けれど不快ではありませんでした。

 お前、細いのに軽々だな! さすが悪魔だなあ、峯田君が言うと、抱っこも出来るよ、やってみる? と返されました。照れながらそんな事を言う馬場君に妙に楽しい気分になって峯田君は笑いました。

 ははは、今度やってくれよ、誰かに持ち上げられる機会なんて俺ぐらいでかい野郎だとなかなかないからさあ!

 今までの自分からすると考えられない事だと峯田君は思いました。誰かに支えられてそれを卑屈になるでもなく笑っていられるなんて。常に自分は支える側の人間でありたいと頑なに思っていたはずなのに。

 自分のような厳つい大男を馬場君のような美青年がお姫様にでもするように抱きかかえる絵面を思い描いて、峯田君は笑いました。滑稽さを笑ったのではありません。それを見た他人が言うであろう、恥ずかしい、だとか、みっともない、だとか、そういうちんけな価値観がどうでもいいと言い切れるだけの土台がいつの間にか自分の中に出来上がっていた事が誇らしかったのです。その土台は元々峯田君の中にあったのかもしれません。けれど気が付いていませんでした。


 今まで自分は本当の意味では誰もきちんと尊重してはいなかったのかもしれない、峯田君は思いました。人と関わって生きている限り、誰にも頼らずに生きていく事は出来ません。そう迷惑がられているわけでもないのに頼る事を恥じるのは相手を軽んじているからです。こんな奴に頼ってしまうなんて俺は情けない奴だ、と思うのは傲慢というものです。恩義に感じて礼を尽くすのは大事ですが、それとこれとは別物です。

 峯田君は馬場君にたくさんの頼み事をしました。もちろん馬場君の事情を知っているから意識的にそうしていた部分もあります。ですが、大半はただ単に馬場君と一緒に居たいというのが理由でした。

 馬場君と居ると自分がないがしろにしてきたたくさんの大切なものが蘇ってくるような気がしました。世界が優しくなったように感じました。

 ですが、馬場君の方は峯田君にほとんど何も頼みませんでした。誘ってはくれます。しかしそれは峯田君が誘ってくれと頼んだ場合でした。馬場君は悪魔の制約のためになかなか人に頼る事が出来ません。人に頼らない事が習慣になっているのかもしれませんが、少し寂しいような気がしていました。自分ばかりが求めているようで。


 まあ、実際もそうか。


 峯田君は心の中で頷きました。馬場君は何でも持っている悪魔です。人に頼れない、という制約が課せられているのは、裏を返せば人に頼らなくても生きていけるという事でした。馬場君が峯田君と一緒に過ごしてくれている理由も、峯田君がそれを求めるから以外のなんだと言うのでしょう。

 さすがに嫌がられてはいない、と思いたい。

 馬場君が峯田君と居る時に見せてくれる笑顔には嘘はないと思います。そういった点については馬場君はドライで率直でした。故意に人を傷付ける事はしない馬場君ですが、必要以上の好意を受け取る事はしませんでした。

 馬場君は非常に美しい容姿をしていますし、仕事も出来ます。温和で気遣いの出来る男でした。女性達が放っておくわけはないのです。けれどそういった意味での誘いは常に断っていました。変に期待を持たせるのは結果的にもっと酷い仕打ちにつながると長年の経験で悟ったのでしょう。また、馬場君自身が好きではない相手には決して近寄りませんでした。

 ただ、峯田君が馬場君に好かれているかというと、峯田君にも何とも言えませんでした。

 峯田君に近付いてきたのは馬場君の方ですが、それは馬場君の誠実さがそうさせただけであって、峯田君自身への興味ではないように思えます。きっと馬場君は相手が誰でも同じようにしたでしょう。

 それを考えると峯田君はなんとも切ない気持ちになりました。峯田君の方は馬場君と今までのように一緒に居られなくなったらきっと酷いショックを受けるでしょう。寂しくて泣きたくなったりするかもしれません。誰も馬場君の代わりにはなれません。けれど馬場君の方はそうではないのだと峯田君は考えておりました。

 俺には何にも頼んでこないしな。

 峯田君は馬場君がいつ峯田君を頼りたくなっても大丈夫なようにたくさんの頼み事をしましたが、馬場君が峯田君を頼りたくなる日など来るのでしょうか。そんな日は一生来ないような気がします。

 唯一、馬場君が峯田君を頼ろうとしたあの日、峯田君は勘違いでそれを跳ねつけてしまいました。今になって後悔しています。どうしてあの日、自分は馬場君の頼みを聞いてやらなかったのだろう、と。そして馬場君の頼みは別の誰かが叶えてやったに違いないのです。とんだ八つ当たりと分かっていましたが、その誰かが憎たらしく思えるほどでした。

 頼られる側の人間でいなければならない、という呪縛、それから峯田君を自由にしてくれたのは馬場君でしたが、今こんなにも馬場君から頼られない事が辛いのです。


 そこではたと気が付きました。


 そうだ、さっきのお誘い、あれは俺の頼みとは関係ないやつだ。初めてじゃないか?

 峯田君の気持ちが上向きました。違和感の正体はこれでした。

 俺が頼んだから、じゃないんだ。馬場が自分から誘ってくれたんだ。

 少し浮かない表情をしていたのは心配ですが、もしかして悩み事を相談してくれるのでしょうか。自分は頼られていると自惚れても良いのでしょうか。

 嬉しくて顔がにやついてしまいそうでした。どうしてそれがこんなにも嬉しいのか、胸どころか体中が熱く、やった、と拳を突きあげたいような気分になっているのか、峯田君もうすうす勘付いていました。

 峯田君は馬場君が頼むなら本当はなんだってしてやりたいのです。それが何を意味するか分からないほど峯田君は堅物ではありませんでした。ただ、悪魔に恋愛感情があるかどうかも良く分からない上に、自覚したのもつい最近でしたので、まだ馬場君に言う気はありませんでした。

 どこに行こう、先輩に聞いた焼き鳥屋でも試してみるか。


 今はただ夜の予定が楽しみでなりませんでした。


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