第6話




 それから馬場君と峯田君は急速に仲良くなりました。

 性格は全く異なる二人でしたが、不思議と馬が合いました。

 峯田君は最初に出会った頃よりも柔らかな表情を見せてくれるようになりました。仕事で無理をし過ぎる頻度も減りました。他人に対して寛容になりました。

 そして峯田君は馬場君によく頼み事をするようになりました。

 それ、美味しそうだな、一口くれよ、だとか、もう少しで仕事終わるから待ってろ、だとか、前に言ってた美味いラーメン屋に連れてってくれ、だとか、そんな頼み事とも言えないような些細な頼み事でしたが、峯田君はいちいち語尾に「頼む」「お願い」などと付けてくれ、そしてそれが叶えられると「サンキューな」「ありがと」と必ず言ってくれました。

 馬場君は幸せで胸が苦しくなりました。

 きっと峯田君は馬場君を安心させるために敢えてこうしてくれているに違いないからです。俺もお前にいろいろ頼むから、お前も俺に頼っていいんだぜ、そう言ってくれているのです。

 先日、馬場君は悪魔の制約について峯田君に話しました。

 秘密にせねばならない、という明確な決まりはありませんし、人に話す事は禁止されていませんが、無敵の力を持つ悪魔を唯一縛るものが契約でしたので、その内容についてはよっぽどの事がない限り人には話さないのが普通でした。

 少し迷いましたが、馬場君は話す事にしました。峯田君に対して嘘を吐きたくなかったのです。また、峯田君は馬場君を陥れるためにその秘密を言い触らすような事はしないだろうという確信がどこかにありました。

 すると峯田君は自分から「絶対に誰にも言わないから安心しろ」と言ってくれました。そこでようやく馬場君はこの制約の事が広く人に知られてしまったら自分だけではなく他の悪魔にも影響が出るのだと気が付きました。悪魔にあるまじき失態でした。


 峯田君は凄いなあ。


 峯田君に嫌われたくない一心で自分の事しか考えられなくなってしまった馬場君と違って、即座に馬場君の告白の意味を理解し気遣ってくれたのでした。

 馬場君は峯田君の事がもともと大好きでしたが、今は好き過ぎておかしくなってしまいそうでした。

 峯田君は馬場君に対してたくさん頼み事をしてくれましたので、一般的な頼み事であれば馬場君は峯田君にお願いする事が出来ます。しかし、馬場君は今のところ峯田君に何も頼んではおりませんでした。

 馬場君が峯田君に対して望むことと言えば主に、笑顔が見たい、話したい、一緒に居たい、などでしたが、それらは馬場君が言わなくても先回りして峯田君が叶えてくれていましたから、頼む事が思いつかなかったのです。


 正直に言えば全く何も思いつかなかったわけではありませんでした。


 馬場君の頭の中はいつだって峯田君への要求でいっぱいでした。

 けれどそれは今までに峯田君がしてくれた頼み事で相殺出来るような生易しい要求ではないと馬場君も分かっておりました。それなのに峯田君への欲望はおさまるどころか日に日に強くなっていくようなのです。

 峯田君が馬場君に白い歯を見せて無邪気に笑いかけるたびに、峯田君が居酒屋の椅子に座りなおすために尻の両脇に手を突いて力を入れると盛り上がる胸筋を見るたびに、好きな人に触れたいという強烈な欲望が馬場君の心と体を支配しそうになりました。そんな時、馬場君は深呼吸して、こっそりと生唾を飲み込み、うっかりその要求を口にしてしまわないように気を付けなければなりませんでした。

 馬場君は「峯田君が何か悪魔の僕にしか叶えられないお願いをしてくれたら」と考えないでもありませんでした。しかし、たとえ峯田君がそれを馬場君に願ったとしても、それと引き換えに峯田君の身体を要求するような真似はやはり駄目だと思いなおしました。


 そして不思議な事に馬場君は今のこの状況を不自由だとは全く思っていないのでした。


 急所であるはずの悪魔の制約の件を知られ、しかもその相手は悪魔の力を使うような願いは言ってこないのです。それなのにこちらには要求したい事が山積みで……普通に考えれば生きた心地がしないでしょう。

 実際、馬場君は峯田君と過ごすたびに薄氷を踏むような思いでした。過ぎた要求をうっかり峯田君にしてしまわないように、そして、欲望を峯田君に悟られて再び距離を置かれてしまわないように常に細心の注意を払っておりました。峯田君以外の人と接する時の何倍も何十倍も緊張して神経を尖らせておりました。本来ならば物凄く不自由なはずです。


 にもかかわらず、一体どういうわけなのでしょう。馬場君は峯田君と居る時が今までの長い人生(悪魔ですが)の中で最も自由になれる時間のような気がしていました。


 馬場君は峯田君と居る時だけは、強大な力を得る代わりに契約にがちがちに縛られた悪魔ではなく、ただの無垢な魂で居られました。

 性悪説に基づいた抜け目のない約束事を交わすのではなく、他愛のない好意や善意のやり取りを、何の目的もなく、ただそれだけのためにする事を許されていました。

 お互いに重大な貸しや借りはなく、一緒に居ると楽しいというそれだけの理由で。


 そして馬場君にとってその峯田君とする他愛のないやり取りは、何と引き換えにしてでも決して失いたくないものでした。


 そんなある日、馬場君は上司から呼び出されました。なんだか嫌な予感がしました。

 それは人事異動についての相談でした。

 馬場君を海外支社へ転勤させ、ついでに昇進させるという話でした。

 上司は馬場君が断るなどとは思いもしないようでした。にこにこと機嫌良く、君なら大丈夫だろう、と言って馬場君の肩を揺すりました。

 馬場君は沈痛な面持ちで溜息を吐きました。

 馬場君以外にも会社勤めをして人間の中に溶け込んで生きていく事を選ぶ悪魔は昔から居ましたので、悪魔が会社勤めをする場合に周囲との軋轢を生まないよう設定された暗黙の了解のようなものがありました。

 そのうちの一つが、悪魔を昇進させない、というものです。

 悪魔と人間では元の作りが違っています。悪魔が優秀なのは当たり前でした。悪魔が昇進する事を許してしまうとどこまでも昇進していってしまいます。また、悪魔は長命で人間からするとほとんど年を取らないようにすら見えます。そんな悪魔が代表取締役にでもなってしまうと代替わりしないままずっとその席に居座る事になります。

 実際、過去にそうなってしまった悪魔が一人おりました。その悪魔は大変苦労して後継者を育てほうほうの体で逃げ出し、人と交わるのをやめてしまいました。

 悪魔が昇進してもろくな事にはならないのです。

 暗黙の了解に従って地位が下っ端のまま据え置かれたとしても、永い間その会社に居座り続けるとどうしても影響力が上がってしまう場合があります。そしてそれを良く思わない人間も出て来ます。そんなわけで馬場君は前の会社を辞め、新たにこの会社に就職したのです。

 もしかすると今の上司はその暗黙の了解を知らないのかもしれません。悪魔の数は現代ではかなり少なくなっており、この会社にも馬場君以外に悪魔を見た事のある人はほとんど居ませんでした。

 それとも遠回しに辞めろって言われてるのかな。

 さすがにそれは穿ち過ぎのような気もしますが。

 馬場君は昇進を受ける気はありませんでした。海外転勤になればせっかく仲良くなれた峯田君と会えなくなってしまいます。それだけは絶対に嫌です。

 ただ、事情を話して円満に昇進を断りこの会社での勤務を今まで通りに続ける事が出来るかというとそれはかなり微妙でした。

 上司は悪い人間ではないのですが、思い込みの激しいところがありました。また、峯田君のような自分の価値観を人に押し付けないだけの慎みは持ち合わせていないようでした。馬場君が断ればいつもの口癖の「お前には向上心がないのか」を言われてしまうでしょう。

 馬場君は項垂れました。

 理屈だけ言えばどんなに遠くに勤める事になろうとも、馬場君は悪魔の力を使えば簡単に峯田君に会いに来る事が出来ます。しかし、はたして峯田君は馬場君と職場が離れても今のように一緒に食事をしたり飲みに行ったりしてくれるものでしょうか。

この会社を辞めて近くの別の会社に就職する事も考えましたが、それも難しいように思えました。

 前の会社の送別会で馬場君は実は何人もの元同僚から、次の職場もそう遠くないのだからまたみんなで一緒に飲もう、と言われていました。しかし結局予定が合わず、そのまま自然とその話は立ち消えてもう数年になります。そしてそれを特に何とも思わずに今まで過ごしてきました。きっと元同僚達にとってもその程度の事だろうと思っていました。職場の繋がりなどよほどでなければ脆いものです。

 そう、よほどでなければ。

 馬場君には峯田君にとって自分がどの程度の存在なのか分かりませんでした。そして今までに何度も前の職場での付き合いを自然消滅させておきながら、峯田君だけにはずっと続く付き合いを期待するのも虫が良過ぎる気がしました。

 ああ、なんで今こんな面倒臭い事になるんだよ。

 悪魔の馬場君は人間相手の付き合いはどんな付き合いであっても永遠なんてありえないのだともちろん分かっておりましたが、それでも今のこの幸せがずっと続く事をいつの間にか強く望んでしまっていたのでした。

 何もかもうっちゃってただ峯田君と遊びに行くだけの存在になりたいと、馬場君は少し本気で思いました。峯田君が許してくれるならすぐにでも。

 でも、さすがに引かれちゃうだろうなあ……

 それを実行に移す勇気はありませんでしたが。



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