第5話
馬場君ときちんと話をしようと決意した翌日、仕事を終えた峯田君は馬場君を待ち構えておりました。
ところが、なんと馬場君は峯田君と目が合うと不自然に顔を背けて逃げて行ってしまったではありませんか。
急に、なんだよ……
馬場君はすっかり訳が分からなくなってしまいました。
このところ毎日うぜえくらい寄って来てたくせに……
馬場君の来襲を煩わしいと思っていたはずなのに、少し寂しいような気持ちにさえなりました。それがなぜなのか峯田君にも良くは分かりませんでした。
もしかして、馬場の野郎は俺の心境の変化に気が付いたのか? ありえなくはない。あいつは悪魔だ。人間の心の動きには敏いだろう。もう俺をからかっても期待したような面白い反応は得られないと分かって、俺に近付くのをやめたのか?
冷静に考えれば無茶な邪推でした。
ぷいとそっぽを向く直前の馬場君の表情は人を弄ぶのに飽いただけの悪魔としてはあまりにも切なげでした。けれど、峯田君は半ば無意識にそれに気が付かないふりをしました。寂しさを腹立たしさだと思い込もうとしたのです。馬場君がいつものように話しかけてくれなかった事を寂しいと感じてしまって悔しかったのかもしれません。
峯田君は馬場君に愛想良くしてやった事などありませんから、自分が寂しいと感じるのは理不尽だと分かっているからこそ余計に。
いまさら逃げようったってそうはいくか。見てろ。
峯田君は鼻息荒く席を立ちました。
資料室から出てきた馬場君を峯田君は仁王立ちで迎えました。そして片頬を上げて笑いました。峯田君は自分の体格の良さと、どちらかというと厳つい整った顔立ちが人に与える印象を良く知っていました。こうすれば大抵の男は怯みます。
意識してやったわけではありませんが、なんとなく今は馬場君よりも優位に立ちたいという思いがそうさせました。馬場君は細身とはいえ身長は峯田君と同じくらいでしたし、そもそも悪魔なのでどの程度効果があるかは分かりませんでしたが。
育ってきた環境のせいでしょうか。峯田君はこういった振る舞いが板についていました。粗野で、傲慢で、しかし確実にある種の魅力がありました。
状況が掴めず面食らった様子の馬場君の肩に腕を回し、わざと少々乱暴に扱って、引きずるようにここまで連れてきたのです。
そして今、駅前の居酒屋で峯田君は途方に暮れていました。
「馬場は何飲むの?」
「ぼ、僕は、何でも」
「なんか決めてよ。俺ビール」
「僕もそれで」
「……」
「……」
「……その、なんだ、急に誘って悪かったな」
「い、いいんだ! 仕事終わってたし!」
「そっか」
ここまで来て峯田君もとうとう馬場君への違和感を無視出来なくなってしまいました。どう見ても馬場君の態度は自分をからかおうと性質の悪い悪戯を企てるような輩のそれではありませんでした。
ふてぶてしさは皆無でした。
可哀想なくらいに緊張しているように見えました。こちらから話題を振っても少しも打ち解けてくれません。
峯田君は青くなりました。
もしかして俺、またやっちまったのか。
もう思い込みで馬場君を悪者にするのはやめようと思ったばかりなのに、自分でも理由の分からないもどかしさのせいで馬場君に苛立って当たってしまいました。今となっては馬場君のペースを乱してやろうとしでかした様々な事が恥ずかしくて堪りません。
無理やり肩組んで「お願い」とか、どこのヤンキーなんだ、俺は! カツアゲじゃねえんだぞ。アホか!
馬場君は悪魔ですから、人間の峯田君がどんなに凄んだところでどうという事もなかろう、と心の片隅で計算しながらの行いだったとは言え、ガラが悪過ぎました。まっとうな社会人の振る舞いではありませんでした。
いや、待てよ。
峯田君は馬場君の他に悪魔を知らないのでなんとも言えませんが、馬場君は悪魔としてはあまりにも気が優しいようです。峯田君の粗暴な態度に怯えてしまった可能性もなくはないように思えます。
峯田君の申し出をすげなく断るたびになんとなく感じていた小さな罪悪感と併せて、峯田君の心は今や馬場君への申し訳なさでいっぱいになってしまいました。
「あのな、今日はちょっと馬場に話したい事あってさ」
峯田君は自責の念で自然と俯きがちになりながら続けました。
「悪かったよ」
耐え切れず峯田君は謝ってしまいました。峯田君は多少融通の利かないところはありましたが、基本的には素直な若者でした。
「え、何が?」
「へ?」
峯田君が顔を上げるときょとんとした顔の馬場君がじっと峯田君を見つめていました。
「僕、峯田君に何かされたっけ?」
そう言われてみると一体、峯田君は馬場君に何をしたというのでしょう。馬場君が峯田君を陥れようとしているのだと思い込んで、手助けの申し出を何度断ったのは事実ですが、果たしてそれは謝るような事なのでしょうか。峯田君は馬場君を罵ったりはしていませんし、嫌がらせなども勿論しませんし、馬場は悪い奴だと吹聴して回るような事もありませんでした。
「し、してねえけど、だけど……」
自分はお前に馬鹿にされていると思い込んでいたのだ、と言おうとして、そもそも馬場君が何を考えて何度も自分に悪魔の囁きをしてきたのかも、まだ確かめていない事に気が付きました。何と言ったらいいのか分からず口籠っていると馬場君が話し始めました。
「僕の方こそ、この間から何度も仕事の邪魔してごめんね」
「邪魔って事はねえけど、なんでなんだ? 普通、一回断られたらもう助けようとなんてしねえだろ? 俺、自分で言うのもなんだけど、かなり態度悪かっただろ?」
「そんなこと……」
馬場君は目を伏せて苦笑しました。琥珀色の睫が血の滴のように赤い瞳にかかって目も眩むような美しさでした。馬場君の中央で二つに分けた少し長い前髪が真っ白で滑らかな頬にはらりと落ちました。こんなにも近くで馬場君を見るのは初めてでしたので峯田君は少しどぎまぎしました。悪魔というのは本当に美しい生き物なのだと、そんな場合ではないのに感心してしまいました。
「そんなことないよ。最初はお礼も言ってくれたじゃないか」
手っ取り早く追い払いたくて言ったあの「ありがとう」を指しているのだと分かり、峯田君はますます胸が痛みました。
「峯田君が、偉い人の名前を間違えて困ってた時、僕、お願いを聞く代わりに僕のお願いも聞いてって言ったよね」
「あ、ああ」
「あのまま峯田君を助けようとするのをやめちゃったら、僕、昔話のお姫様みたいに頼みを聞き入れたくなくて無茶な条件出す人、みたいに思われちゃうんじゃないかと思って」
峯田君は黙り込みました。その通りだったからです。
「だからさ、何回も聞きに行けば君も……」
「ちょっと待て、ちょっと待て」
峯田君は慌てて遮りました。
「何でそうなるんだよ? 俺にそう思われるのが嫌なら、そうじゃないって口で言えば済む話だろうが。つか、そもそも何で俺だけ交換条件出されたんだ? ……あ、いや、その交換条件出すのが悪いって言ってるんじゃないぞ。むしろお前、気前良過ぎなんだよ、他の奴にも飯奢らせるぐらいはしろよ、良くねえよああいうの……ってそうじゃなくて、なんでそんなまだるっこしい方法を……なんで普通に言わねえの?」
峯田君が問い詰めると馬場君はぐっと詰まりました。困ったように視線を彷徨わせ、たっぷり十秒間ほど黙っていたでしょうか。そして馬場君は意を決したように口を開きました。
「実は……」
そこで峯田君は馬場君という悪魔の事情を初めて知りました。
「話、聞いて欲しかったけど、僕ら同期なのにあんまり親しくないし」
峯田君は意識的に馬場君を避けておりましたので思わず目を伏せました。
「普通に会話する間柄じゃないから、話をするにも僕から峯田君にお願いをしなきゃいけなかった。でも僕は峯田君に何か頼んで貰えないと『ちょっと一緒に話せないかな?』って言う事すら出来ないんだよ。たぶん駄目だろうなあって思ったけど、もし万が一、峯田君が僕に何か頼んでくれたら話を聞いて貰いたいなって」
峯田君はそれを聞きながら今までの馬場君の事を思い出しておりました。
同僚達への度を越した大盤振る舞いにそんな切実な理由があったとは。
なんだ、打算でやっていたのか、純粋な好意ではなかったのか、などとは全く思いませんでした。峯田君も人に頼れない男でした。貸しを作るのは好きですが、借りを作るのは嫌でした。
しかし、それは結局のところ妙なプライドが邪魔をしていただけに過ぎず、ひとたび追い詰められてしまえば、そんな意地は脆く崩れ去って簡単に人に頼ろうとするのです。以前、馬場君に頼ろうとした時のように。
ですが、馬場君は本当に人に頼る事が出来ないのでした。
自分の作ったルールという曖昧で何の拘束力も持たないものによってではなく、残酷で厳密な悪魔のルールによって。
自分のミスで人に頼るなどもってのほか、と思い詰めていた過去が心底恥ずかしくなりました。ありもしない罰に怯え、悲劇の主人公にでもなったかのように、自分で自分を追い込んで。馬場君が日々付き合っている制約と比べれば、峯田君を縛るものはまるで玩具のようなものでした。
「でも、良かった」
「え?」
嬉しそうな馬場君の声に物思いに耽っていた峯田君は現実に引き戻されました。
「僕、ずっと峯田君にこうやって説明したかったんだ」
端正という言葉で片付けて良いのか戸惑われるほど美しい相貌を甘く崩し、頬を上気させて馬場君は微笑んでおりました。悪魔なのにどこか清らかにすら見えました。
「峯田君、今日は誘ってくれてありがとう。嬉しかった」
「……っ」
峯田君は過去の自分をぶん殴ってやりたくなりました。
馬場君が自分を馬鹿にしようとしているだなんて、そんな酷い勘違いをどうしてする事が出来たのでしょう。今日誘ったのだって、半分意趣返しのようなものでした。
それに、さっき、悪魔の制約を話してくれた時、馬場は、なんか……躊躇してような。
峯田君は思わず険しい表情になりました。
悪魔は徐々に数を減らしており、この国にももう数十人の悪魔しか居ないと言われています。峯田君も馬場君以外の悪魔に出会った事はありません。ですが、悪魔の伝承やその生態についてはそれなりに広く知られています。峯田君も悪魔について一通りは調べた事がありますが、先ほど馬場君が話してくれた事は初耳でした。
……って事はたぶん、あんまり有名な話じゃねえんだよな。というより、もしかして実は、秘密、だったりするのか?
この事実を知ったからと言ってすぐに悪魔に何か出来るわけではありません。悪魔を害する目的で悪魔に何かを頼ませようと企んでも、人より賢い悪魔を騙すのは簡単な事ではないでしょう。しかし弱点には違いありません。現に馬場君は制約については言うか言うまいか迷っていたようでした。
とすれば、馬場君は峯田君の誤解を解きたい一心で自らの弱点を晒した、という事になります。峯田君に対して誠実でありたい、ただそれだけのために。そして口止めすらせずに峯田君に、ありがとう、と言うのです。
こんな、馬鹿な思い込みで勝手に心の中で馬場を悪者扱いしてたような俺に……
「礼なんか」
峯田君は首を振りました。
「とんでもない」
そして不器用に笑ってみせました。
「話してくれてありがとうな。誰にも言わねえから安心してくれ」
「あ、そ、そうだね。うん、そうしてくれると嬉しい。言いふらされると僕以外の悪魔に迷惑が掛かっちゃうかもしれないし」
馬場君は今気が付いたという風に慌てて頷きました。
「それと、やっぱり俺は馬場に謝らなくちゃいけない。悪かった。俺は馬場に嫌われてるだろうって思い込んでたんだ。俺がもしも馬場に答えて『じゃあ、頼む』って言ったら、代わりに跪いて靴を舐めろだとか、裸で逆立ちして町内一周しろだとか、そういう事を言われて、俺が何にも言えずに黙るのを見て笑う気だろうって」
馬場君はちょっと悲しそうでしたが何も言わずに峯田君を見ていました。
「今考えると被害妄想も甚だしいよな。お前、そんな事するような奴じゃねえもんな。いつものお前見てりゃ分かったはずなのに、俺は馬場の事を色眼鏡で見てたんだ。本当にひでえ勘違いだよ。でも馬場が何考えてるのかやっぱり良く分からなくて、俺も馬場と話したくて誘ったんだ」
それを聞いて馬場君は照れたように下を向きました。嬉しそうでした。
「なんかなあ、もっと早くにこうすれば良かったよ。思い込みは駄目だっていつも思ってるけど、俺全然だったなあ。しかし、意外だな、馬場も誰かに何か頼みたくなる事があるんだな。そだ、そういや一番最初の時のあれ、あの時お前、俺に何頼みたかったの? 俺で出来る事なら協力するよ。さすがに裸で逆立ちは勘弁だけど」
峯田君は冗談めかして笑いながら水を向けました。
すると馬場君は真っ赤になって首を振りました。
「あああああああれは! い、いいんだもう!」
「え、そうなの?」
「う、うん、もう大丈夫」
馬場君のあまりの狼狽えっぷりに峯田君は驚きましたが、馬場君は全身で「お願いだからもうこれ以上その件については触れないでくれ」と言っていました。
あ、そっか。そういやこいつ、お願い、が出来ないんだっけ。
峯田君は追求をやめました。馬場君を困らせたいわけではありません。きっと誰か他の人間に頼むか何かして解決したのでしょう。馬場君に何か峯田君にしか叶えてやる事の出来ない頼みごとがあるとは峯田君には思えませんでした。
もしかして何でもいいから悪魔の力を使わなきゃいけないような事を頼んじまった方がこいつも安心して俺にお願い出来るようになるのか?
峯田君は考えました。けれど、馬場君にするべきお願い事などすぐには思いつきませんでした。それに、やはり事情を知った今でも馬場君に何かを要求するのは抵抗がありました。
また、馬場君に対して一方的な負債を抱えるのは嫌だ、という気持ちもありました。馬場君に負けたような気持ちになるから、というのとは少し違います。たとえ馬場君を安心させるためにした願い事だとしても、それを叶えてもらったら峯田君はきっと馬場君に対して引け目を感じるはずです。そういう性格なのです。もうどうしようもないのです。
峯田君にはいつの間にか馬場君と対等で居たいという気持ちが芽生えていました。自分を信用して、そして自分に対して誠意を見せるためだけに秘密を明かしてくれた馬場君に、自分も何も恥じるところなく真正面から向き合っていたいと思ったのでした。
まあ、いいさ。俺はもともと人に物を頼まな過ぎなんだよな。ちょっとくらい他人になんか頼めよって話だろ。そういう事ならたくさんお願いしてやろうじゃねえか。人間が返せる範囲で頼ったり、頼られたりをこいつとすればそれでいいよな。
それから、峯田君と馬場君は他愛のない話をたくさんしました。冗談を言って笑ったり、愚痴を言われて慰めたり、憤って宥められたり。
楽しい時間でした。
ほんの数時間前まではこんな風に相手と話せる日が来るとは思ってもみませんでした。
閉店時間が近づいてきました。そろそろお開きです。会計をする段になり、峯田君は良い事を思いつきました。ナンパの常套手段のようだな、とも思いました。けれどなんだか楽しくて思いとどまるつもりになれません。
「なあ、ここ俺が払ってもいい?」
「え、そんな、悪いよ。僕結構たくさん飲んだよ」
「いいよ、俺が誘ったし」
「でも」
「なあ、『頼むよ』」
「……」
「じゃあさ、こうしようぜ。次は馬場が誘ってよ。そんで俺に奢ってくれ」
「……!」
「な、『お願い』」
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