第4話






 仕事が済んでしまった馬場君は、遠くの席の峯田君を見て溜息を吐きました。

 峯田君は隣の先輩に何か話しかけています。何か、というとまるで馬場君にはその会話の内容が分からないかのようですが、馬場君には全て聞こえていました。悪魔の耳は地獄耳なのです。

 峯田君がしていたのは出張で潰れた分の代休の相談でした。

 先輩に、問題ないよ、うちのチームの都合とかよっぽどじゃなけりゃ聞かないで勝手に届け出して休んでいいよお、考慮して欲しい時は事前にこっちから言うから、つか、聞かないでね、私も聞かないで休みたいしさあ、と明るい口調で言われ、あ、ですよね、すみません、ありがとうございます、と笑顔で峯田君は返しました。

 男らしい峯田君が少しはにかんだように笑う様を見て、馬場君はなんだか居ても立ってもいられなくなってしまいました。思わず目を閉じ、手の甲で顔を覆い、椅子が軋むほど背を倒して天を仰ぎました。

 いいなあ! 先輩いいなあ! 羨ましい!

 そんな馬場君に周りの人達が一斉にびくりとします。

 凄まじく高性能な悪魔の眼と恋心のために、この距離からするとありえないほど細部まで鮮明に峯田君を観察出来てしまうので、馬場君は時々こんな風に、突然天を仰いでいました。空気の読める馬場君が唯一周囲を怯えさせる瞬間でした。

 峯田君の笑顔を間近で見られるのももちろん先輩が羨ましい理由の一つですが、もっと大きな理由がありました。


 ……いいなあ、ああやって普通に、峯田君に話しかけてもらえて……


 この半月ほどの間、馬場君はことあるごとに峯田君に「助けは要らないか?」と尋ね続けてきました。そして全て断られていました。

 実のところ馬場君は、まあ、そうなるだろうな、と分かっておりました。分かっておりましたが、やはり手を払いのけられるのは辛いものです。それなのに敢えて馬場君が峯田君に声を掛け続けたのには理由がありました。

 もしも馬場君が峯田君に何も話しかけなかったら、あの時、馬場君が峯田君のお願いを断る口実として交換条件を持ち出したのだという峯田君の思い違いが訂正される機会がないままに、峯田君と馬場君の関係は途絶えてしまうでしょう。

 それだけは嫌でした。

 何度も手助けの申し出を繰り返せば、峯田君を怒らせてしまうかもしれません。何を考えているのか分からない不気味な奴だと思われてしまうかもしれません。

 それでも峯田君に「自分を馬鹿にする嫌な奴」として永遠に切り捨てられてしまうよりかはましだと思ったのです。


 しかし、それもそろそろ潮時でした。


 最近の峯田君は相変わらず即座に馬場君の申し出を断りますが、怪訝な表情を見せるようになりました。さすがにもう、ただ単に馬鹿にするだけのために話しかけているのではないと、峯田君にも分かったはずです。これ以上、忙しい時に峯田君に話かけるのは迷惑になるかもしれません。また、断られる回数が増えれば増えるほど峯田君の馬場君へのお願いに対するハードルが高くなってしまうような気もしました。


 けれど良い事もありました。


 あんまり何回も峯田君の席に出向いていたせいでしょうか、峯田君の周りの席の人達はけんもほろろに断られ続ける馬場君に同情したのか、取りなすようにお土産のお菓子をくれたり、世間話を振ってくれたりするようになりました。それに返事をしているうちに自然と峯田君も会話に入ってきたりするような事が何回かありました。

 残念ながら峯田君はいつもすぐに我に返って苦々しい顔をするのですが、それでも、ついうっかり油断するほどには馬場君を自分のテリトリーに入れてしまっていると気が付いて狼狽える峯田君を見られるのは馬場君にとって嬉しい事でした。人の好い峯田君が苦々しい顔をしてしまうのはきっと馬場君への罪悪感によるもの違いありませんでしたから。

 それから、何度も峯田君に手伝いを申し出るようになって、初めて分かった事がありました。自分でも気付いてはいませんでしたが、馬場君は実は今までずっとこうしたいと思っていたのでした。


 峯田君はなかなか人に頼らない男でした。


 馬場君に限った話ではなく、どんな人に対しても、です。働き始めのうちは、無理をし過ぎるな、と窘められたりもしていましたが、どうやら峯田君はそれを笑って跳ね返すのが強さの証だと勘違いしているようでした。

 それを繰り返すうちに、峯田君を心配する人はほとんど居なくなってしまっていました。あいつなら大丈夫だ、と思われる事を本人が望んでいたりするのも良くありませんでした。

 馬場君は、頼もしくて、元気で、真面目な峯田君の事が大好きでしたが、いつも心のどこかでそんな峯田君にはらはらしていたのです。

 どんなに峯田君が頼もしく見えても心配するのを止めない人間が、何度断られても峯田君に手を差し伸べる人間が、ここに一人は居るのだと、頑固な峯田君に思い知らせてやらなくてはと思っていたのでした。


 ですが、今日の峯田君は昨日までの峯田君と少し違っているように思えました。良い意味で肩の力が抜けている、とでも言ったらいいのでしょうか。

 休むのにいちいち先回りして仕事の予定など聞いてくれるな、自分が休みたい時に休みづらくなるだろうが、などと先輩に言われたら、今までの峯田君であれば、きっと少しむっとした顔をしたはずです。迷惑をかけないようにしたつもりなのに……しかも自分が好きに休みたいからだと? なんて身勝手な先輩だ、と口には出さないまでもそんな風に思ったでしょう。

 しかし、今日の峯田君はちょっと恥ずかしそうに、そして安心さえしたかのように眉尻を下げ、どこか気の抜けた顔で笑っていました。


 きっと、何かあったんだろうなあ。


 峯田君のガッチガチに凝り固まった価値観をつき崩すような何かが。

 峯田君のためを思うのならば喜ばしい事のはずです。実際、馬場君は少しほっとしました。けれど切なげに溜息を吐きました。であれば、自分が峯田君にこれ以上オファーを続ける意味は本当に何もなくなってしまいました。迷惑なだけです。馬場君の、たとえナイフで貫かれたとしてもびくともしない悪魔の心臓が、ぎゅうっと死ぬほど痛みました。


 仕方ないよな。凄く困っていそうな時はこれからも声を掛けるとして、今日からは話しかけに行く回数を減らそう。それから、チャンスを逃さず普通に話しかけよう。手伝うとかじゃなくて、チャンス……あるかな、いや、作るんだ! 避けられてるけど……


 馬場君は使い終わった資料を返しに行くために席を立ちました。

 これを返せば今日の仕事は本当に終わりです。峯田君に話しかけに行くための口実も残念ながら、というか幸いな事に、今はありませんでした。峯田君のチームも今日は早くに帰れるでしょう。

 資料室へ行くためのドアは峯田君の席の近くにありました。

 馬場君は俯いて早足で峯田君の席の傍を通り過ぎようとしました。しかし好きな人を目で追うのはやめられません。峯田君と目が合ってしまい慌てて馬場君は目を逸らしました。いつもとは真逆でした。

 資料室に逃げ込んで峯田君はドアを背に頭を抱えました。

 何だ、今の態度は! 何やってんだ、僕は! 目が合ったんだぞ? チャンスじゃなかったのか! せめて笑えよ、馬鹿、馬場の馬鹿!

 馬場君は恋に惑ってはおりましたが、一応これでも悪魔ですのでポーカーフェイスは得意なはずでした。それなのにみっともないくらいに動揺してしまいました。ひとしきり自分を罵ってから資料を返し終えると、ようやく落ち着いてきました。

 よく考えてみたら狼狽える必要などないのでした。せっかくのチャンスをふいにしてしまったのは悔しいですが、峯田君は馬場君を疎ましがっていましたから、馬場君が峯田君を避けたところで峯田君が残念に思ったりするはずがないのです。ありがたいとさえ思うかもしれません。それはそれで悲しいですが、馬場君がいくら気負っても仕方がないのでした。

 暗い顔で溜息を吐きながら、資料室から出てきた馬場君はぎょっとして立ち竦みました。


 峯田君が馬場君を待ち構えるように資料室のドアの前に立ちはだかっていたからです。


 馬場君の思考回路は完全に停止してしまいました。ありえない事が起きています。阿呆のように口を開け、馬場君は峯田君を見ていました。

「お疲れさん」

 峯田君は口でだけ笑って頬をぽりぽりと掻きました。馬場君は何か答えなければと思いましたが、口の中がからからに乾いてしまって声が出ませんでした。ごくりと唾を飲み込んでからようやく掠れた声で

「お、お疲れ様です」

 とだけ言いました。

「今日は、手伝おうかって言ってくれねえの?」

 次はちゃんと笑ってくれました。先ほどまでは峯田君も緊張していたのかもしれません。照れ臭そうに見えるのは馬場君の願望でしょうか。馬場君は完全にのぼせ上っていました。峯田君の白い歯が眩しくて、面倒臭そうなうんざりした顔以外の表情を向けてくれるのが嬉しくて、自分が何か言ったらこの幸せな時間が終わってしまいそうな気がして。

「だ、だって、手伝う事……ないだろ?」

 弱々しい声でそう返事するのがやっとでした。

「そういやそうだなあ」

 はははっと峯田君は爽やかに笑いました。

「じゃあ、俺から頼む事にするわ」

 峯田君はにやっと悪戯っぽく笑って馬場君の肩に腕を回しました。初めて感じる愛しい人の体温に馬場君は大いに動揺しました。太くて逞しくて、でも引き締まった強い腕の筋肉の重みがスーツ越しに伝わってきます。

「仕事がひと段落して久しぶりに飲みたい気分なんだ。他の同期はみんな忙しそうなんだよな。馬場はいつも仕事終わるの早いじゃん? 悪いんだけど、ちょっと付き合ってくんないかな?」


 そして峯田君は、おどけた仕草で小首をかしげ、お願い、と付け加えました。


 峯田君が自分の気持ちを知った上でこれをやっているとしたら峯田君は馬場君よりよっぽど上手の悪魔だと馬場君は思いました。馬場君は今度こそ我慢出来ずに、こっそりと自分の頬を抓りました。痛くありませんでした。それほど頭がぐらぐらに茹っていました。


 ああ、神様……!


 悪魔にあるまじきお祈りまでしてしまいました。






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