第3話
出張から帰ってきた峯田君は相変わらず多忙でした。仕事が大量に溜まっていて休む間もありませんでした。峯田君は過去の自分を呪いました。明らかに詰め込み過ぎでした。
自分の力量を読み間違えた俺が悪い、いや、ここで後悔してどうする、むしろいい機会だ。出来る範囲でしか仕事をこなさなかったら、今以上にはなれない。キャパシティを増やすチャンスだと思うんだ。他のみんなに迷惑はかけられない。乗り越えろ、ねじ伏せろ。
マッチョな峯田君は怪しげな自己啓発本に書いてありそうな文言を唱えるように自分に言い聞かせておりました。行き過ぎれば危険な思考だと自らを戒めるには峯田君は若過ぎました。
いくら無理をしても生来の頑丈さのために深刻な体調不良に陥った事がないというのも彼のマッチョ思考を助長していました。また余裕も欠いていました。そして馬場君との一件は峯田君をさらに頑なにしていました。
激務ゆえの無精髭を先輩に笑われながら仏頂面で視線を上げれば、パーティションの向こう側に馬場君の琥珀色の形の良い小さな頭が見えました。馬場君は峯田君と視線が合った事に気が付いて少しだけ目を見開きました。
馬場君のチームも今の時期はとても忙しいはずですが、馬場君はいつも通りの人間離れした美しさと清潔感を保っており、人好きのする優しい笑顔で周囲を気遣っておりました。そして人一倍良く働き、悪魔の常にならって並外れて優秀でした。
峯田君は急いで視線を逸らしました。
馬場君を見ていると自分の歪さをまざまざと見せつけられるような気分になるからでした。きっとあの赤い瞳は峯田君すらもまだ気が付いていない峯田君の傲慢さや幼さ、浅はかさを全て見抜いていて峯田君を嘲笑っているに違いないのです。
峯田君は頭を掻き毟りたいのを我慢して淡々と仕事を片付けていました。
そんな風でしたから、馬場君が話しかけてきた時に峯田君はついカッとなってしまったのでした。
「峯田君」
「馬場……どうした? 何か用か?」
峯田君は疲れた顔で馬場君を見上げました。今、一番見たくない顔でしたが、話しかけてきた相手を無視するのはさすがに大人げないと思い、峯田君は努めて平静を装いました。あからさまに憮然として見せるのも悔しい気がしたのです。そんな峯田君の心を知ってか知らずか、馬場君はいつものように感じ良く笑いながら言いました。
「その、それさ、僕やろうか?」
馬場君が指さしたのは今しがた急に頼まれたデータ解析でした。峯田君の本来の仕事とはあまり関りがない上に締め切りが迫っており、単純作業ではあるけれど面倒な、要は嫌な仕事でした。忙しいからと断る事も出来たのですが、長年培った峯田君の体育会系な行動規範がそれを許しませんでした。先輩の命令は絶対でした。
正直言って、もしも誰かがこの仕事を肩代わりしてくれるというのなら非常に助かります。
けれど相手が馬場君というなら話は別です。
この野郎。
峯田君の目の前が怒りで真っ赤になりました。涼しい顔をしている悪魔が憎くて憎くてたまりませんでした。肩代わりしようと申し出てくれた仕事の選び方が完璧なのもまた癪に障ります。この悪魔は最も効果のある誘惑が何か知っているのです。定時を少し過ぎ、疲れが出てくる今の時間帯すらもきっと計算しつくされているのでしょう。
葛藤する俺を見て楽しむつもりか。頼む、と返事をしたら一体何を頼んでくる気なんだ。靴でも舐めろってか? どうせ慌てて断る俺を見て嘲笑うんだろう。そうに決まってる。なんて野郎だ。
黙っている峯田君に焦ったのか、馬場君は身振り手振りを交えてしどろもどろになりながら、自分の仕事はすでに終わっている事、時間外を請求するつもりはない事、仕事が多くて大変そうだと気になっていた事などを、彼にしてはいくぶん拙い口調で言い募りました。
けれど怒りを抑えるのに手一杯の峯田君は馬場君の態度がいつもと違っている事に気が付きませんでした。ただ「仕事はもう終わっている」という部分だけは耳に入ってきました。こんな時間になっても仕事を積んでいる自分を馬鹿にされたような気がしました。
「その解析なら前の仕事で僕もやったし、たぶん上手く出来ると思うんだ。だから……」
「大丈夫だ」
峯田君の口から絞り出すような声が出ました。
「俺の仕事だ。気を使わなくていい」
「でも」
「いらねえって言ってんだよ!」
つい大きな声を出してしまってはっとしました。周囲の数人が何事かとこちらを見て目を丸くしています。
「あ、悪い。とにかく大丈夫だ。……ありがとうな」
本当は礼など言いたくありませんでした。けれどそれを聞いて、ようやく馬場君は去って行きました。
峯田君は馬場君の後姿を見てほっとしていました。ここまではっきり拒絶されれば、さすがの馬場君ももう峯田君にちょっかいは出すまいと思ったのです。
しかし峯田君の予想に反して、馬場君の猛攻は止まりませんでした。一体どうしたというのでしょう。今まではほとんど話す事すらなかったのに。
峯田君が困っているとどこからともなく馬場君が現れて、助けてやろうか? と甘い誘惑を囁くのです。まるで悪魔でした(馬場君は悪魔ですが)。そして断ると残念そうに去って行きました。峯田君はまるで自分が荒野で修行中の聖人にでもなってしまったかのように感じました。
それは峯田君の忙しさがひと段落ついても続きました。
今日もまた峯田君は馬場君のオファーを断りました。馬場君も一度断れば食い下がる事はしなくなりました。峯田君は馬場君の嫌がらせにしてはあまりにも弁えた態度を訝しく思いはしましたが、嫌がらせ以外の理由は思いつきませんでした。
一体何を考えてるんだ、あいつは。
「今日も冷たいね、峯田君」
首をひねっていると横から先輩に話しかけられました。
「可哀想じゃん。一回くらい頼ってあげたら?」
「そんなの出来ませんよ!」
「なんで?」
「なんでって……」
可哀想なんかじゃない、あの悪魔は自分を馬鹿にして楽しむつもりなのだ、と先輩相手に捲し立てようとして峯田君は気が付きました。
そんな事実はどこにもありませんでした。
今まで馬場君の悪意の証拠だと思っていたものは全て峯田君がそう解釈したから証拠になりえたものばかりでした。馬場君がした事と言えば、峯田君の頼みを聞く代わりに何か頼もうとしただけでした。その後は峯田君が困った時に手を差し伸べてくれました。何度その手を振り払われても。
その手を取った瞬間にこっぴどいしっぺ返しが来るのだと峯田君は思い込んでいましたが、実際に手を取ってみた事はないので、他人にいくらそれを訴えても、そんなものはやってみなければわからないじゃないか、穿ち過ぎだ、と窘められて終わるだろう事は容易に想像がつきました。
何も言えずに黙ってしまった峯田君を見て先輩は笑いました。
「意地っ張りだねえ」
子供のようだと言われているようで、峯田君はぐっとつまりました。反論できませんでした。意地っ張り、そう片付けられてしまうとそうとしか思えなくなってきます。
「まあ、峯田君、もともとあんまり人に頼るの好きじゃないもんね。頼られるのは大好きなくせにね」
「え、そんな事は……」
「あるよう、あるある! 頼られるとよくドヤ顔してるもん。口ではしおらしい事言っててもさ『しょうがねえなあ』って顔に書いてある。嬉しそう」
「……」
「あの顔、すんげーむかつく! あははは!」
あっけらかんと笑われて峯田君は大きな肩を縮めるしかありませんでした。今までさほど意識した事はありませんでしたが、先輩の言う通りという気がしました。
「……す、すみません」
「そうだぞ! お前、マジむかつく!」
便乗して次々と他の先輩たちも峯田君を詰り始めました。
「俺を見習ってもうちょっと不真面目にだな」
先輩達のどこか朗らかな苦言を聞きながら、峯田君は今までの自分の事を考えていました。
他人に出来るだけ迷惑を掛けないように、自分だけの力で何でも出来るようになりたい、それが出来るのがいっぱしの大人だ、と思うのは必ずしも悪い事ではありません。けれどそれは所詮、自分の狭い世界の中での価値観にしか過ぎません。世の中は複雑で個人の単純な価値観を押し通せるようなものではないのです。
分かっていたはずなのに分かっていませんでした。
いつの間にか自分の作った勝手なルールを守る事に躍起になって、ありもしない悪意をでっち上げてしまっていたのかもしれません。
峯田君が誰かに手を差し伸べる時、頼って貰えると少しほっとするのを思い出しました。頼ったり、頼られたりする事が受け入れられている証のような気がして。
そして峯田君は馬場君のそれを何度も何度も拒絶しました。
もしも馬場君が何の作為もないただの善意で言ってくれていたとしたら峯田君はとんだ悪者という事になってしまいます。
峯田君には馬場君の真意は分かりませんでしたが、今度、馬場君が手を差し伸べてきたら受け入れてみようと思いました。
酷い無理難題を突き付けられて笑われるならそれでもいい、むしろ今までの俺の馬場への仕打ちは正しかったという事になって罪悪感がなくなるなら、それはそれでいいじゃないか。
でも……
もし万が一、そうでなかったとしたら、謝って、それで一度きちんと馬場君と話をしよう、と決めました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます