第2話


 取り残された馬場君と先輩はしばらく呆然としていました。

「峯田君、いきなりどうしちゃったのかな……」

 先に口を開いたのは先輩でした。峯田君は年の割には落ち着いており、酒にも強いので、あんなに顔を真っ赤にして取り乱している峯田君を見たのは先輩も馬場君も初めての事でした。

「にしても珍しいね」

「え?」

「いつもなら二つ返事でやってくれるのにさ、なんで? もしかして馬場君って峯田君と仲悪かったっけ?」

「いいえ、特には」

「そういや馬場君、峯田君と喋ってるの見た事ないかもね」

「そういえばそうかもしれないですね。参ったな、ちょっと頼みたい事があっただけなんだけど」

 涼しい顔で先輩に答えながら、馬場君の内心は穏やかではありませんでした。

 自分の席に戻った馬場君は重たい溜息を吐きました。


 やってしまった。

 

 何でも出来る馬場君ですが、実は出来ない事が一つだけありました。

 それは「対価を払わずに誰かに何かを願い、それを叶えてもらう事」でした。

 

 自分のために力を使うのは許されていました。それこそどんな無茶でも。ほんの気まぐれに太陽が西から昇るように世界を変えてしまったとしても悪魔がそのために何か代償を要求される事は一切ありませんでした。他人の願いについても同様でした。

 ですが、何も貸しのない相手に何かを頼む事だけは駄目でした。

 たとえそれが、テーブルの向こう側にある醤油を取って欲しい、だとか、眩しいからブラインドを下ろして欲しい、などのほんの些細なお願いだったとしても許されませんでした。

 悪魔は誰にも借りを作ってはいけないのです。

 それを破るとどうなるのか、破った事がないので馬場君にも実は詳しくは分かりません。ただ、死よりも辛い罰が下るという話ですし、その昔、死にたがりだった悪魔達はこの重たい枷と引き換えにどれだけ長い間生きていても生に倦まずにいられるようになった、という言い伝えからは何かとてつもなく恐ろしい事が起きるのは確実のように思われました。

 ですから、馬場君が同僚達のお願いを叶えてあげるのは実は善意だけでやっているのではありませんでした。

 馬場君の名誉のために言っておきますと、馬場君は本当に親切で真っ当で優しい悪魔でした。困っている人を見ると助けてあげたいと思ってしまう程度には。そして際限なく甘やかす事が人間達にとって必ずしも良い事ではないと分かる程度には。

 それでも馬場君が同僚達の頼みを聞くのは、言うなれば保険のためでした。

 人間達と働く上ではコミュニケーションは必須です。人間の中に溶け込んで、時には一緒に食事もし、飲み会に行き、冗談を言って笑いあったりもします。その過程でうっかり制約を忘れ、何の貸しもない相手に何か頼んでしまったら? そしてそれを聞き入れられてしまったら?

 その瞬間に死よりも恐ろしい報いが馬場君に降りかかるのです。

 会社には大勢の人が居ます。例えば馬場君が開けたい引き出しの前に人が立って居たとしましょう。引き出しを開けるために「ごめん、ちょっとどいてもらっていい?」と馬場君が声を掛け、そして「ああ、悪い」とその人がその場を退いたら……はい、アウト。

 そんな場面はいくらでもありました。馬場君は気の遠くなるような大昔からこの制約と付き合って生きてきましたし、用心もしていましたが、落とし穴はどこにでもあるものです。

 ただ、もしも禁を破ってしまったとしても、その相手が願いを叶えてやった事がある人物ならばセーフです。馬場君の悪魔の力を使ってなされる「貸し」は基本的にはどうやっても人間には返しきれるものではないからです。

 その願いを馬場君が叶えることで結果的には些細な差異しか生じなかったとしても、因果律を無視する事はどんな人間にも出来ません。馬場君にしてもらったのと同じだけの恩を返す、というのは原則として人間には不可能なのです。

 つまり一度でも馬場君が願いを叶えた人間、というのは馬場君にとっては日常的な気軽なお願いをしてしまったとしても大丈夫な相手、すなわち油断しても許される相手、というわけでした。先回りして積極的に人間達に貸しを作ることで馬場君は万が一に備えていたのです。


 さて、そんな馬場君ですが、今彼は恋をしていました。

 馬場君は悪魔の中でも奥手な方で、恋愛事には疎かったためか今まで考え付きもしなかったのですが、恋というのは実に、身勝手な欲求の集合体のようなものでした。

 近くへ行ってもいいだろうか、隣の席に座りたい、こっちを見てくれ、話がしたい、声が聴きたい、触りたい……

 恋をしているその相手しか叶えてやる事の出来ないお願いが次々と心に沸き起こってしまって目が回りそうでした。

 いいえ、正確にはそのお相手にしか叶える事が出来ないわけではありませんでした。悪魔はどんな事も出来てしまいます。それは人の心を操る事も出来るという事です。ですが、何度も言うように馬場君は恋をしておりました。そして彼は真っ当な倫理観の持ち主でした。

 それでは意味がないのだと分かっておりました。

 それなのに、そのお相手はどういうわけか一向に自分を頼って来ないのです。誰よりも彼からのお願いを待ちわびているというのに。彼以外のほとんどの人は馬場君に頼るというのに、彼に限っては。


 そう、もうみなさんお気づきかと思いますが、馬場君の恋のお相手は峯田君でした。


 好きなところはたくさんありました。峯田君は自分に厳しく誰に対してもフェアでした。外見そのままに頼りがいのある彼は、馬場君ほどとは言いませんが、大勢の人に頼りにされていました。

 峯田君は一見すると厳つい大男ですが、律義で真面目な性格が顔に表れるのでしょうか、馬場君は彼を強面だと思った事はありません。ごくたまに遠くから眺める彼の笑顔には影がなく、穏やかで、知性と若さに輝いているように見えました。

 同僚達の我が儘を何でも聞いてしまう自分の事を峯田君があまり良く思っていないのも知っていました。その理由さえもなんとなく見当がついていました。避けられてしまうのは悲しいですが、そんなところも好きでした。どこもかしこも好きでした。

 つまり理由などあってないようなものでした。恋とはそういうものだという事を馬場君は峯田君を好きになって初めて知りました。

 とは言え、困りました。これでは馬場君は峯田君に近づくことが出来ません。同じフロアとは言え、チームは別です。同じ飲み会に参加出来るのは忘年会のみ。

 こちらから気軽に話しかければいいだけだ。それで仲良くなったら一緒に食事を、あわよくばその先も……

 と馬場君もはじめは思っておりましたが、そう簡単ではありませんでした。何せ峯田君は馬場君に何も要求しませんから、馬場君も峯田君に何も頼むことが出来ないのです。食事に誘うどころか、食堂で「隣、いいかな?」の一言すら言えないのです。

 また、先ほども申し上げましたように馬場君は峯田君に距離を置かれてしまっていました。馬場君が峯田君に恋さえしていなかったらまだ良かったのかもしれません。拒絶されても何度も食い下がって、そして誠実な峯田君はきっとそんな馬場君をそこまで邪険にしたりはしないはずですから、すぐに仲良くなれた事でしょう。

 けれど恋をしている身にとって、愛しい相手からの拒絶というのは非常に重たい意味を持つものなのです。話しかけても手短に会話を終わらせられてしまい、まだ何か用があるのかと胡乱な目を向けられる事が二度ほどあっただけで、恋愛経験のない馬場君の心はすっかり臆病になってしまいました。

 これでは駄目だ、いつまでたっても距離が縮まらない。

 馬場君にも分かっておりましたが、どうやったら峯田君と仲良くなる事が出来るのか思いつかないまま、遠くから峯田君を眺めるだけの日々がいたずらに過ぎていきました。


 そんなわけで実は先輩から呼ばれた時、峯田君が待っていた事に馬場君は死ぬほど驚いていました。峯田君に恋をするあまり都合の良い夢を見ているのかと思ったほどです。きっと馬場君は周りに誰も居なければ自分の頬を抓っていたでしょう。

 馬場君はずっとこの日を待っていたのでした。

 先輩から事情を聞いている時にはまだ冷静でいられました。峯田君のお願いがほどほどに他愛なく、しかし、人間の力ではどうやっても解決する事の出来ない問題である事にほっとする余裕さえもありました。

 これでいつも通り彼の頼みを聞いてやれば一歩前進です。

 冗談めかして「この間のお礼して欲しいな、今度一緒に食事でもどう?」と馬場君が言えば、きっと峯田君は苦笑して「いいぜ、奢ってやるよ。この間はありがとうな」と言ってくれるでしょう。とうとう馬場君に頼ってしまった、という負い目から、峯田君の馬場君に対する態度も軟化するはずです。


 けれど峯田君のその表情を見た瞬間に馬場君は全てを忘れてしまいました。


 椅子に座って抄録集を抱えた峯田君は縋るように馬場君を見上げていました。沈痛でやや気まずそうな面持ちから揺らぎ、そして苦しそうに見せたその顔。潤んだ目、赤く染まった目尻、緩んで半開きの唇、わずかに寄せられた眉根……


 禁欲的な男が誘惑に負けてしまいそうになる瞬間とはなんと魅力的なのでしょうか。


 プライドと意地、それから良心、それを覆いつくさんばかりの迷惑をかけた相手への罪悪感と悲しみ、自己嫌悪、後悔、安易な解決策の甘い誘惑、それらが今この善良で律義な男の心の中で荒れ狂う嵐の海と堤防のようにせめぎ合っているのです。

 馬場君は傍目にはそうとは分かりませんでしたが、恋する相手が一瞬だけ見せたあまりにも危うく美しい表情にぼうっと酔いしれました。

 もしかするとそれは善良な人間が誘惑に負けそうになる様を見せられて、遠い昔の先祖、まだ誘惑者と呼ばれていた頃の悪魔の本能がふっと蘇ったせいなのかもしれません。その本能に刺激され、好いた相手を手に入れたいという雄の本能もつられて顔を覗かせたのかもしれません。

 馬場君にもはっきりとは分かりませんでしたが、ただ一つ確かな事は、その時の馬場君は我を忘れ、一心に愛しい相手を想っておりました。


 この男が欲しい。今すぐに。


 そして馬場君は早まってしまったのです。とにかくすぐにでも峯田君に近付きたいという思いが口をついて出て、交換条件を持ち出すような真似をしてしまったのです。

 頼まれなくたってなんだって叶えてあげたいと思っていたはずの相手に。おそらくこの世で唯一、本当の意味で無償で尽くしたかった相手に。

 結果は無残なものでした。峯田君は逃げて行ってしまいました。後悔してももう遅いのです。

 馬場君はもう一度溜息を吐きました。

 正直に言えば馬場君は時間を戻すことも考えました。馬場君は悪魔です。やり直すのも簡単でした。しかし、それは誘惑に打ち勝って馬場君に頼る事なく失敗のつけを自分で払う事にした峯田君に対して失礼にあたるような気がして出来ませんでした。

 なんて馬鹿な事をしちゃったんだろう、ずっとずっと待っていたのに。こんな幸運はもうないかもしれないのに。

 かもしれない、ではなく、おそらくもう絶対にないでしょう。馬場君には分かっていました。峯田君は誘惑に負けそうになった己を恥じたはずです。今まで以上にガードは硬くなっている事でしょう。下手をすると今よりもっと峯田君は馬場君を避けるかもしれません。

 まあ、なんとなく峯田君の考えている事は分かるけど、あんなに思いっきり断らなくてもいいじゃないか。そんな凄い事を頼むとでも思われてたのかな。せいぜい食事に誘う程度のつもりだったのに……

 そこまで考えて馬場君ははっとしました。

 いや、どうだろう。本当か? 本当にそれだけで済んだのか? あの時、僕はちょっと普通じゃなかった。ひょっとして僕は恋をしている相手に対価として決して要求してはいけない類の事を要求しようとしていたんじゃないのか……?

 峯田君の赤くなった首筋や立派な肩、逃げていく時ですら目を引く形の良い尻を思い出して、馬場君は真っ赤になりました。

 もしかして峯田君が逃げて行ったのは僕のこのうちなる欲求が表情ににじみ出てしまっていたせいか? 警戒されたのだろうか、いや、そんな、考え過ぎか、どうだろう……

 馬場君はしばらくうんうん悩んでおりましたが、やがて諦めたように顔を上げました。峯田君に関してだけは人間よりも優秀なはずの頭脳が役に立たなくなる事はもう分かっておりましたので考えるだけ無駄でした。

 そして、あの時、峯田君が頷かないでくれてむしろ良かったのかもしれない、と思い直しました。

 大切なものを壊さずに済んだんだ、僕も、きっと峯田君も。

 焦っても仕方がない。これまで何も進んでいなかったんだ。今までと同じだ。僕は峯田君が好きだから、彼が困っていたら助けよう。だってこのまま僕が何もしなかったら、きっと峯田君は僕が峯田君の頼みを聞きたくなくて対価を要求したんだと思ってしまう。そんなの嫌だ。笑って「僕に何か出来るはある?」って聞くんだ。悪魔の力を使う、使わないに関わらず。

 馬場君はそう考える事にしました。

 伊達に長生きしていません。恋愛に関しては呆れるほどに初心な馬場君でしたが、意外と彼はタフでした。



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