悪魔の馬場君とマッチョな峯田君

八鼓火/七川 琴

第1話

 峯田君の勤めている会社には悪魔が一人おりました。

 意地の悪さや残虐さの比喩ではありません。全くそのままの意味です。願い事と引き換えに魂を奪ったりするあの悪魔です。

 悪魔は峯田君と同じフロアの同僚でした。彼は馬場と呼ばれていました。もちろん本当の名前ではありません。本当の名前は人間には発音が難しいのだそうです。ただ単に便宜上の問題で、真実の名前を知った人物に使役されてしまうなどという事は特にないようでした。

 馬場君は峯田君が知る限り、悪魔らしいふるまいを見せた事はありませんでした。大抵いつもにこにこしておりますし、控え目で、誰にでも親切でした。人間と違う点と言えば、外見が異常とも言えるほどに美しいという事、そしてとてつもなく強い力を持っているという事ぐらいのものでした。

 世にも美しい悪魔の彼は、琥珀色の艶やかな髪を勤め人らしく整え、傷口のように赤い目を黒縁の眼鏡の奥に隠し、しなやかな長身痩躯を地味なスーツに包み、毎日毎日それは真面目に働いておりました。無遅刻無欠勤、飲み会ですら(公式のものについては)ほとんど全て出席しておりました。

 彼は悪魔ですので人間には決して出来ないような事が出来ました。その気になれば何もない空間に階段を作り出して月まで登っていく事も可能でした。それこそこの世界を滅ぼす事でさえも彼にとっては朝飯前でした。おおよそ人間の想像力の及ぶ全てを可能にする力を彼は持っておりました。

 そんな彼ですから様々な事を同僚達から気軽に頼まれて、やはり気軽に叶えてやりました。対価に魂を要求するどころか、今度奢れよ、の一言すらなく、お礼の言葉だけ貰って、あっさりと。

「馬場君、また頼んでごめんなんだけど出張の飛行機の半券なくしちゃってさ、このままだと出張費出せないって言われて……」

「あ、はい、どうぞ。半券です。これで合ってます?」

「合ってる、これだよ! 本当にいつもありがとね」

「馬場君、やばい、俺やっちゃったかも! これから始まる会議の資料のデータ家に置いてきちゃったよ。今すぐ必要なんだよ!」

「取ってくればいいんですね。はい」

 こんな具合に大抵は小規模で他愛のない頼みばかりでした。

 頼み事の内容があまりにも理不尽であったり、人を不幸にすると分かり切っていたりするようなものついては、馬場君は実に真っ当に渋りました。

 幸いにも峯田君の会社には並外れて悪い人間はおりませんでしたし、みんないい大人でしたから、そもそもそんな場合は頼む側も後ろ暗い思いを抱いているのがほとんどなので、皆の静かな非難の視線を浴びながらすごすごと頼みごとを引っ込めるのが常でした。

 それでも馬場君のこの行為は強大な悪魔の力を使って因果律を無視するものには違いなく、峯田君はそれを見るとなんだか酷く落ち着かない気持ちになるのでした。

 峯田君がもやもやした気分になってしまう原因は、馬場君の力がこの世の理を捻じ曲げるからではありません。

 指の一振り、時には瞬き一つで何でもこなしてみせる馬場君です。実際、彼はいくらその力を使っても疲れた様子を見せる事はありませんでしたし、どんな馬鹿々々しいお願いも嫌な顔一つせず叶えてくれます。

 けれど頼み事は頼み事です。しかも、誰にでも出来る訳ではない、彼にしか出来ない事をやってもらうのです。いくら親しい同僚とは言え、同じ会社の仲間とは言え、あまりにも気軽に、対価すら払わず彼をこき使うというのは峯田君にとってはあり得ない事でした。

 また、自分のミスの尻拭いを他人にさせる、そしてそれを大して恥もしないという同僚達の軟派な態度も彼を苛立たせました。馬場君への頼みごとの裏にはいつも誰かのミスがありました。

 ミス、つまりは未熟さだ、峯田君はそのように考えておりました。

 自分のミスの尻拭いを他人にさせてばかりいてはいつまでも成長出来ないのではなかろうか。馬場という悪魔、このあまりにも安易な解決方法を覚えてしまったら、どんなに気を引き締めているつもりでも、悪魔に頼めばどうせなんとかしてくれる、という甘えが心のどこかに芽生えてしまう。

 峯田君はマッチョな男でした。いろいろな意味でマッチョでした。働きながら夜間学校へ通い貯金をしてから大学で勉強して、一流企業へ就職し第一線で働いているという経歴もマッチョですし、どちらかというと小柄な人種が多いこの国には珍しく立派な体躯で、顔立ちも男らしくクルーカットが様になるという外見も実にマッチョでした。

 しかし、峯田君は己のマッチョさを少し恥じているようなところもありましたし、そのためか己のマッチョな考えを他人に押し付けたりはしないだけの慎みは持ち合わせておりました。

 ですので、峯田君は誰かが馬場君にしょうもない頼みごとをするたびに、太い眉をひそめ、普段から怖い顔をさらにもう少しだけ怖くして俯き、努めてそちらを見ないようにして黙っておりました。

 馬場君にも出来るだけ近寄らないようにしておりました。まかり間違って馬場君と親しくなり、酒の席で会話などしようものなら「お前はなんだって出来る悪魔だからいいかもしれないが、俺達人間はそうじゃないんだ。努力して成長していかなきゃいけないんだ。涼しい顔でみんなを甘やかしやがって。そんなのいい事だとでも思ってるのか! ダメになっちまうだけだろうが。なんでもほいほい引き受けるんじゃない。やるならせめて金を取れ! 飯でも奢らせろ! こき使われて馬鹿みたいじゃないか」とおせっかいじみた青臭い説教をしてしまいそうな気がしたからです。


 本来は人間を堕落させる存在であるはずの悪魔に……なんとも間抜けな話でした。


 そして気前の良過ぎるあの悪魔は、きっと少し困ったように美しく笑うだけなのだろうと峯田君には分かっておりました。

 ただ、自分にだけは「失敗しても決して安易に悪魔には頼らない」というルールを課し、それを頑なに守っておりました。


 そう、この日までは。


 出張の続いていた時期でした。峯田君はタフな男であったので峯田君の上司も彼ならば大丈夫だろうと踏んで多少無茶な日程を許しました。週末からはまた出張だというその束の間の出社、そんな時にそのミスは発覚しました。

 峯田君のグループはある大学と共同研究を行っており、ようやくその論文の査読が通ったばかりでした。筆頭著者になるのは初めてだったので峯田君は大変な思いをして論文を書き上げました。そして、その分野では国内最大級の学会で今度それを発表することになっていました。出張中に届いた分厚い抄録集をぱらぱらとめくり、峯田君は愕然としました。


 共同研究者の著名な大学教授の名前の文字が間違っていたのです。


 その大学教授の名前は一般的ではない珍しい漢字が使われており、もともとやや間違いやすい類の名前でした。またその教授は自分の名前にこだわりがあり、以前同じように自分の名前を間違って記載されてしまった時には、冊子を全て回収させ、新たに印刷しなおさせたという逸話が残っているくらいです。

 その逸話の真偽のほどは分かりませんが、教授の気難しさと名前に対するこだわりはそれほど有名でした。

 確認したはずでした。いや、確認しなかったのかもしれません。峯田君は論文が通った事に浮かれていました。出張が間近だったせいで気も急いていました。

ほんの小さなミスでした。その小ささゆえ余計に峯田君は落ち込みました。

 いまさらどんなに言い訳してもどうしようもありません。きっともう抄録は教授の元へも届いています。

 学会事務局へ連絡してなんとか抄録を差し止められないだろうか、いや、駄目だ。教授本人が言うのならともかく、俺が言っても……それにもう教授がこれを見ていたら無意味だ。

 学会当日にページ数と正誤が記載された訂正の用紙が千人以上の人間に配られるのを想像して峯田君は頭を抱えました。教授は学会の有名人です。名前に対するこだわりもまた有名です。みんな声を忍ばせ隣を肘で突き合って自分を笑うでしょう。

 けれど大勢に馬鹿にされる事などよりもずっと峯田君を苦しめたのは峯田君と教授の関係でした。教授は育ちの悪さや学のなさを体力で補って世の中を渡っていく人間を毛嫌いしていました。

 つまり自分のような人間だ、遅刻しない事や言われた事をきちんとやるだけが取り柄で、ひらめきや才能はない、峯田君はそう自らを評して苦く笑いました。

 しかし教授は好き嫌いを研究に持ち込むような事はしませんでした。根気良く最後まで峯田君を指導してくれました。自分の教え子でもない峯田君をです。論文が書き終えられたのは教授のおかげでした。峯田君は教授に深く感謝していました。尊敬もしていました。

 その教授にこの下らない小さなミスのせいで「体力馬鹿は恩知らずで困る」と失望されてしまうのかと思うと峯田君はすっかり悲しくなってしまいました。

 死にそうな顔をして黙り込む峯田君を隣の席の先輩が心配して声をかけました。

「峯田君、どうしたの? 何かあったの?」

「実は……」

 理由を話すと先輩はきれいに巻かれた栗色の髪の毛を揺らして手を叩きました。

「なあんだ! そんなの馬場君に頼めば一発じゃん」

「い、いや、俺はそんな」

「馬場君! ばーばーくーん!」

 この時、きっと普段の峯田君であればもっときっぱりと拒絶した事でしょう。けれど今、峯田君の心も体も弱っていました。峯田君の弱々しい制止を無視し、先輩は伸びあがると馬場君を大声で呼びました。

「はいはい、なんですか?」

 馬場君はすぐにやってきました。感じの良い笑顔を崩さず、丁寧に人を避けながら。

 先輩は気軽に馬場君に頼るうちの一人でした。馬場君はきっと今回も先輩の他愛ないお願いだと思ったのでしょう。沙汰を待つ罪人のように項垂れる大男、峯田君を見て馬場君は意外そうに目を見開きました。

 先輩は事のあらましを馬場君に伝えました。

 馬場君はその間、喋っている先輩ではなくてなぜか峯田君の方をじっと見つめていました。峯田君も吸い込まれそうな真っ赤な瞳から目が離せませんでした。

 峯田君は馬場君のありえないほど美しい顔を前に葛藤していたのでした。

 たった一言頼めば良いだけです。そうすればきっと気前の良い馬場君は一瞬で何もかも都合良く作り変えてくれるはず。

 いや、駄目だ、そんな事、図々しいだろ。何を言ってるんだ? 俺以外の奴はほとんどみんな馬場に助けられているじゃないか。どうして俺ばっかり馬鹿正直に律儀でいなくちゃいけないんだ? そうだ、今回だけ、今回だけだ……

「……ってわけでさ、馬場君、悪いんだけどこの学会の抄録集、全国に配られちゃってるやつを全部、ここんとこの字、直してくれないかな? たぶん今直しちゃえばこの教授がもしもうこれ見て怒ってたんだとしても『見間違いだったかも?』って思ってくれて丸く収まると思うんだよね。いつもみたいにちょちょいってやっちゃって」

 峯田君は先輩が代弁してくれた峯田君の希望を聞きながら唇を震わせました。それはあまりにも甘美な誘惑でした。断らなければと思うのにどうしても声が出ませんでした。

 そうだ、こいつが頷いてくれさえすれば、いつものようにあっさりと、それでなかった事に出来る……!

 苦しむ峯田君の顔に一瞬浮かんだのは紛れもない懇願の色でした。

 それを見ていつもほとんど笑顔を崩さない馬場君の顔から表情が消えました。

 その後に出た言葉は今までに一度も馬場君の口から聞いた事のないものでした。


「いいですよ。だけど……」


 だけど? その場に居るほとんど全員が驚きました。馬場君はこの手の頼みを渋った事などなかったからです。


「峯田君、その代わり僕のお願いも聞いてくれる?」


 峯田君の顔がみるみるうちに真っ赤になりました。

「や、やっぱり大丈夫だ! そんな事しなくていい。わざわざ来て貰って悪かった。先輩もすみません。お手数かけました」

 少し震える声で峯田君は叫びました。そして抄録集を掴んで逃げるようにその場を立ち去りました。

 同僚達に対しては「馬場に頼るのならば、せめてお礼として食事を奢るなどするべきだ」と考えていた事も忘れていました。馬場君が対価を要求した瞬間に自分の中の甘さ、何でも言う事を聞いてくれる馬場君への侮り、そんな薄汚い性根の全てが、ぱっと白日のもとに曝されてしまったように思えて、気が動転してしまったのです。交換条件を聞いて交渉する事も出来たはずですが、その時はそんな事は思い付きもしませんでした。

 恥ずかしい。

 峯田君は早足でロッカールームへと向かいながら目を閉じました。涙が滲んできそうでした。自分が惨めで、情けなくて。

 何を思い上がっていたのだろう。自分だけはあの悪魔をいいように使ったりはしないと息巻いて、気前の良さに憤っていたりもしたくせに、心のどこかできっと自分が頼みさえすれば頼みを聞いてくれるに違いないと思い込んでいた。

 そこでようやく、もしかして自分は逃げる事などなかったのではないか、馬場の頼みを聞いてやればそれで良かったのではないか、と思い至りましたが、峯田君は自嘲して軽く首を振りました。

 いいや、俺の頼みなど聞く気はないさ。無理難題を吹っ掛けられるだけだろう。他の奴は誰一人として馬場に交換条件を出されていない。それが答えだ。当たり前じゃないか。

 俺は一度だって馬場に何かしてやった事があったか? 挨拶はする仲だが、親しく話したことなんてない。それどころか自分勝手な理由で避けてすらいた。そんな奴の頼みなんて聞く道理がない。それでいざ追い詰められたら自分では口すら開かず、先輩に何もかも言わせてあいつを利用しようとした。一番安易にあいつを頼ろうとしたのは俺だった。

 馬場君はおっとりしているように見えても悪魔なので人間などよりよほど優れた頭脳を持っているという事を峯田君は思い出していました。

 それできっとあいつは俺のそういう汚さを見抜いたんだろう。

 自分のロッカーに頭を押し付け項垂れながら峯田君は観念したように携帯端末で連絡先を探し始めました。

 馬場、お前は正しいよ。俺はお前から何にも受け取る資格はないな。

 そして峯田君は姿勢を正して端末を握りなおしました。

「ご無沙汰しております。突然お電話してすみません……え、あ、はい。おかげさまで……そんな、全て先生のお陰です。ところでもう先生の方にも届いているかもしれないんですが、今度の学会の抄録集の事で……」

 それから峯田君は狭いロッカールームで何度も何度も頭を下げました。

 峯田君は峯田君の考え付く限り最も誠実な対応を選びました。教授に全て正直に話して謝りました。教授は怒りを露わにしたりはしませんでした。ただ、何度も名前を軽んじられてきた人に特有の諦めが電話口から伝わってきました。そして失望も。それは峯田君にとっては怒鳴られるよりもずっと堪える仕打ちでした。

 それから駄目元で学会事務局に抄録の刷り直しを掛け合ってみました。もちろん断られました。

 

 何もかも予想通り、駄目でした。

 

 これでいいんだ。失敗はもともとどうしようもないものなんだ。うちの会社が特別なだけだ。こうやって痛い目に遭って成長するんだってお前、前に言ってただろ? 峯田和也……お前が悪い。

 心の底まで見透かすような美し過ぎる赤い瞳が峯田君の脳裏にちらつくたびに峯田君の胸はきりきりと痛みました。


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