第五話 廃工場
平坂高校の生徒である岡野礼子は、電車の窓から夜の街を眺めていた。放課後に友人と遊んでいたら、帰りが遅くなってしまったのだ。
だが、礼子の表情が優れないのは、両親に怒られることを心配しているからではない。友人である城崎彩の身を案じているからだ。
「まもなく桃里橋、桃里橋です。お忘れ物なさいませんよう、ご注意ください」
車内にアナウンスが流れると、電車は減速を始め、桃里橋駅のホームに入る。
「足元にご注意ください。出口は左側です」
礼子は音を立て開いたドアからプラットホームに降りる。
もう十二時過ぎだ。礼子の他に電車を降りたのは、仕事帰りのサラリーマンや酔った大学生くらいだった。
友人と別れる前に怖い話をしたせいか、礼子は駅にまつわる噂を思い出してしまった。
十七年前、地下鉄で列車が脱線し、トンネルの一部が崩落する事故が起きた。消防隊が救助に向かったが、横転した列車内には生存者はなく、六八人の死体が発見された。奇妙なのは、搭乗者数が一〇四人だったことだ。消えた三六人がどうなったかは、現在でも不明である。噂によれば、三六人の搭乗者は死体の山を前にして正気を失い、今も地下鉄のどこかに隠れているという。また、事故以降、地下鉄のホームで人が消える事件が起きるようになり、三六人が連れ去っているのではないかと恐れられている。
でも、そんな噂はデタラメだ。不謹慎な誰かが、悲惨な事故を怖い噂に変えてしまっただけだ。
今回の事件もそうだ。行方不明になった彩のことを、学校のみんなは好き勝手に噂している。推理小説のような筋書きを口にする生徒、ホラー映画のような悲惨な殺され方を想像する生徒、今回の事件を学校の怪談話に結び付ける生徒までいる。
「くそ、どいつもこいつも……」
そんな連中に、礼子は腹を立てていた。消えた彼女を本気で心配している人間は多くない。さっきまで一緒にカラオケに行った清水と吉田も、彩の失踪について得意げに自説を語り、礼子は嫌悪感を隠して話を聞くしかなかった。
改札を出た礼子が、階段を降りている時、彼女の瞳から涙が零れた。
彩とは中学生の時からの友達だった。ずっと同じクラスだったが、平坂高校では違うクラスになった。そこで互いに新しい友達ができて、自然と二人は疎遠になった。それでも、礼子は彩を想って涙を流した。親友の身を心から案じていた。
礼子は涙を拭って、人気のない線路沿いの道を歩く。中学の頃は、彩と一緒にこの道を歩いて自分の家で遊んだが、今は礼子一人だ。
「どこに行っちゃったんだよ、彩……」
山田悟が城崎彩を殺して、どこかに死体を隠したのだと清水は言っていた。そんなの信じたくない。もう親友と会えないなんて、礼子は信じたくなかった。
礼子が涙目で歩いていると、前からスーツ姿の男と平坂高校の制服を着た女子が歩いてきた。こんな夜遅くに親と腕を組んで歩く女子高校生はいない。社会人と付き合っているか、もしくは援助交際か。礼子は横目で女子生徒の顔を盗み見る。
城崎彩だった。
礼子は呆然と彩の顔を見つめたが、彩は男と談笑しながら通り過ぎてしまった。
行方不明の友人が三十くらいの男と腕を組んで歩いている。訳が分からないが、放っておくわけにはいかない。とりあえず、声をかけようと思ったのだが――
「そろそろ教えてくれないかな。一体どこに連れて行く気なんだい?」
「焦らないで下さい、すぐそこです」
楽しげに話す二人を見て、礼子はあれが本当に彩なのか不安になってきた。彼女を心配するあまり、平坂高校の制服を着ている女を彩と見間違えたのかもしれない。
女子生徒と連れの男は、踏切近くにある廃工場の鉄門の前で立ち止まった。閉鎖された精肉工場だ。その門を女子生徒が開け、男の腕を引っ張って、工場の敷地に入る。やはり人違いだ。夜遅くに廃墟に忍び込むとなると、肝試しでもするのだろう。怖がりな彩がそんなことをするとは思えない。
だが、それは母親を目の前で殺される前の話だ。凄惨な事件に巻き込まれたせいで、彼女が正気を失ったとしても不思議はない。
勘違いなら謝れば済む話だ。礼子は鉄門まで走り、門を潜って廃工場に入る。
駐車場の先に二階建てのコンクリート建築が建っていた。そこが精肉工場だ。二人は見当たらないので、もう廃工場に入ったらしい。トラックの搬入口である二つのシャッターは閉じていたが、従業員が出入りしていた正面玄関のドアは開いたままになっていた。
ドアの向こうは真暗で何も見えない。その闇を礼子は見つめる。
ここで何百という牛が殺され、解体されたのだ。その怨念が闇の中で渦巻いているような気がする。だからといって、引き返すつもりはない。彩がいるかもしれないのだ。
礼子は携帯電話のライトを点けて、真暗な工場の中へと入っていった。
受付のカウンターの前を通り、机の並んだ事務室を横切って、廊下の突き当たりにある観音開きの扉を開ける。二つの更衣室があり、奥にはステンレス製の扉があった。その扉を開けると、微かに嫌な匂いがした。十七年たっても、匂いが消えなかったらしい。
床の至る所に排水溝があり、天井にはアルミのパネルが貼られ、天井にはレールが付いている。牛の死体を吊るしていたレールだ。
礼子はライトで周囲を照らしながら歩き始める。工場内にはベルトコンベアや、用途不明の機械が放置されていた。床や機械にこびり付いた黒い汚れは血の痕だろうか。しばらく歩くと挽肉機が姿を現した。人間でも楽々ミンチにできそうな巨大なものだ。
それを見た礼子は、従業員がミンチにされたという噂を思い出した。
精肉工場が閉鎖されたのは食品偽装が明るみになったことが原因だが、その一カ月前に一人の従業員が謎の失踪を遂げたらしい。彼は偽装を告発しようとしたが、社長に挽肉機の中に落とされてしまった。ミンチになった彼の死体は牛や豚の肉と混ぜられ、売捌かれたため、今でも死体が見つかっていない……という噂だ。そんな死に方だけはしたくないと思いながら、礼子はさらに奥へと進む。
それにしても、この匂いは何なのか。歩けば歩くほど、異臭は強くなっていく。十七年前の血や肉の匂いじゃない、腐った肉の匂いだ。
巨大な機械の間を通りぬけると、大きなスライドドアが現れた。左には何も置かれていない広い空間があり、その先にシャッターが二つある。トラックの搬入口だろう。ここが終点だ。もう行く場所はない。なのに二人は見つからない。
「まさか幽霊だったなんて言わないわよね……」
礼子は冗談のつもりで言ったが、彼女の声は震えていた。
もっとも工場の全てを探したわけではない。受付の隣には階段があったし、ここを通る途中にもいくつか部屋があった。それにスライドドアの向こうも探していない。
だが、なかなか開ける気にはなれなかった。異臭はスライドドアの僅かに開いた隙間から流れてくる。中で何かが腐っているようだ。
嫌な予感がする。だからこそ、調べなくてはならない。
礼子はスライドドアを開こうとしたが動かない。レールが錆びているようだ。仕方がないので、ドアの隙間に体をねじ込んで中に入った。
部屋の天井には大量のフックが吊るされていた。元は解体した肉を保存する冷凍庫のようだが、今はジメジメとして蒸し暑い。しかも異臭はさらに酷くなる。腐敗臭だけでなく、血や腸の匂いが混ざり合って、強烈な悪臭と化している。
礼子はハンカチで鼻を塞いで、ライトで足元を照らしながら部屋の奥へと進む。
「何あれ……」
しばらく行くと、ライトの光がビニールカーテンを照らし出した。半透明のカーテンの向こうに赤い影が見える。何かの肉が吊るされているようだ。牛にしては小さいし、豚にも見えない。一体何の肉なのか。礼子はカーテンを開いた。
吊るされていたのは人間の死体だった。
礼子は悲鳴も上げられなかった。目の前に死体がある現実を受け入れられない。皮を剥がされた女の死体は逆さ吊りにされ、流れ落ちた血が床に赤黒い水たまりを作っている。
異常者の犯行なのは明らかだ。そして、犯人は今も廃墟の中にいる。彩が危ない。早く警察に通報しなければ。見つかれば、殺されて、皮を――
背後で響いた金属音を聞き、礼子は我に返った。誰かがスライドドアを開けようとしている。これをやった奴だ。見つかれば、吊るされた女と同じ運命を辿ることになる。
冷凍庫を見回すと、壁際に棚が一つあった。礼子はその影に隠れ、携帯のライトを消す。
金属音が消え、何かを引きづるような音が近付いて来た。
殺人鬼がすぐ近くにいる。凄惨な死体を見たせいで麻痺していた恐怖が蘇る。体が震え、目からは涙が零れそうになる。両手で口を押させ、悲鳴を上げないよう耐える。
天井から釣り下がったフックが揺れる音がする。紙を裂くような音がして、すぐに大量の水をぶちまけたような音が響く。真暗で何も見えないが、何が起こっているのかは想像がつく。犯人が誰の皮を剥いでいるのだ。
バサバサとタオルを振るような音がした後、濡れた足音が遠ざかって行く。
犯人は礼子には気づかなかったようだ。だが、よかったと安堵はできない。まだ犯人は近くにいる。それに殺されたのは彩かもしれない。それを知るのが怖かったが、礼子は携帯のライトを点けて、二つ目の死体に近づいた。
「……彩じゃない」
血を流す皮のない死体は、男のものだった。彩の連れの男だ。彩はまだ生きている。
死体が口から血を吐いた。
礼子はひぃと息を吐いて後ずさった。
死体は血を吐き続け、体は電気を流されたように痙攣する。死後硬直化と思ったが違う。男はまだ生きていたのだ。
苦しみにのたうつ男に背を向けて、礼子は冷凍庫から逃げ出した。開いたままのスライドドアの向こうで膝をついて、携帯電話で警察に通報する。
「おかけになった電話は電波の入らない場所か――」
圏外だった。まずは、ここから出なければならない。だが、見つからずに行けるのか、見つかればあの男のように生きたまま皮を剥がされる。
それでも行くしかない。自分のためにも、そして彩のためにも。
母親を殺され、心を病み、中年親父と一緒に廃墟に忍び込んだあげく、殺人鬼に皮を生きたまま剥がされ殺される。たった一人の親友をそんな目に合せるわけにはいかない。
礼子は殺人鬼の潜む廃工場から脱出するべく歩き出した。窓から差し込む月明かりのおかげで、携帯のライトを点けなくても大丈夫だった。点ければ、すぐに見つかってしまう。
「でも、どうして犯人は見えたんだろ……」
礼子の脳裏に一つの疑問が浮かぶ。冷凍庫には窓がなく、真暗だった。にもかかわらず、犯人はライトもつけずに男の皮を剥いだ。暗視ゴーグルを持っているのかもしれない。
工場に広がる闇に殺人鬼が潜んでいるかもしれない、そう思うだけで体が震えた。怖くてたまらないが、足は止めない。彩と一緒に帰るんだ。幸いにも、工場には大型の機械がいくつも残っている。その影に隠れて進めば、そう簡単には見つからないはずだ。耳を澄まして異変がないか探りながら、足音を立てないように慎重に進む。
それは時間にすれば五分程度のことだったが、永遠に思える長い五分だった。
礼子はステンレス製のドアを開けて、更衣室を通り過ぎ、観音開きの扉から机の並ぶ事務室へ出る。あと少しで外だ。受付のカウンターの前を歩き、正面玄関から外へ。
「やった……生きて出られた……」
満月の浮かぶ空を見上げた時、安心したせいか膝から力が抜けそうになった。だが、まだやることがある。礼子は壁に寄りかかり、携帯で警察に通報した。
「はい、島根県警です。どうかなさいましたか?」
今度はかかった。礼子は大きく息を吸ってから、状況を説明し始めた。
「た、助けて下さい。人が、人が殺されたんです。彩が、彩がまだ中にいるんです」
冷静に話そうとしたが声は震え、目からは涙が零れ落ちた。
「落ち着いて、あなたは今どこにいるんですか?」
「廃工場です、十七年前に閉鎖された、精肉工場、桃里橋近くの、踏切があって……人の死体があって……男の人が皮を剥がされて……ねぇ、嘘じゃないよ、悪戯じゃない。殺されちゃうよ。彩がまだ中にいるの、助けてよ!」
信じてもらえなかったらどうしよう、そう思うと恐怖で声が大きくなった。
「安心してください。すぐにパトカーが向かいます」
「お願い、早く来て、お願い……」
礼子は携帯を握りしめたまま、その場にへたり込んだ。電話の相手である女性職員は、安心させようと話し続けているが、怯えきった礼子の耳には届かない。
「そこにいるの、礼子?」
だが、その女の声だけは、はっきりと聞こえた。
「彩、私よ、私はここにいるわ!」
声は正面玄関の中から聞こえた。礼子は声を張り上げたが、彩からの返事はない。
ようやく出られた廃工場に、礼子は迷わず飛び込んだ。再び圏外になり、警官との通話が途切れたが気にしていられない。携帯のライトを点けて辺りを見回す。でも、彩は見つからない。怖くて出てこれないのか。それとも、今のは幻聴なのか。
「どこにいるの、彩……安心して、もう大丈夫、警察がすぐに来てくれるから……」
「そっか、通報しちゃったか」
事務室を探していると背後から彩の声が聞こえ、礼子は振り返ろうとした。
後頭部に衝撃が走り、礼子は巨大な壁に激突した。その壁が床だと気づいた時には、視界が赤く染まっていた。誰かに後ろから殴られて倒れたんだ。でも、そんなのおかしいじゃないか。自分の後ろに立っていたのは――
礼子が首を捻って背後を見上げた瞬間、城崎彩は金槌を振り下ろした。
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