第四話 殺人事件
湯原絵里が見た悪夢は現実ではなく、城崎の見た化物は仮装にすぎないはずだった。
だが、城崎の見舞い行った翌日、絵里はそのことに自信が持てなくなった。そうなったのは、彼女だけではない。城崎が起こした騒動から四日が経っても、学園中の生徒が城崎のことを噂し合っている。それは、もう笑い話ではなくなっていた。
「山田って生徒さ、被害者の女の子が好きだったらしいよ。でも、肝試しで怖がらせすぎて嫌われちゃったんだって」
「それで、あんな事件を起こしたわけか。でも、人一人連れて二日も逃げ続けられるもんかね。高校生じゃ、金も車もないわけだし」
「それなんだけど、ちょっと面白い話があるんだよね。犯人がさ、歩く人体模型なんじゃないかって噂が立ってんのよ」
「何言ってんのよ、んなわけねーじゃん」
「まぁ、聞けって。行方不明になった城崎って子、事件の二日前に警察に通報してんだよね、旧校舎で歩く人体模型が友達を殺したって」
「その話なら聞いたよ。でも、警察が旧校舎調べたら、友達見つかったん……まさか、警察が見つけたのは、その生徒の皮を被った人体模型だって言いたいわけ?」
「アンタも言ってたじゃん。高校生が人一人連れて二日も逃げ続けられるわけがないって。でも、もし、城崎彩の母親を殺して、城崎を連れ去ったのが、山田悟の皮を被った人体模型だったとしたら……違う皮に着替えれば、もう見つからないわよ」
放課後の女子トイレでも、二人の女子生徒が事件のことを噂し合っていた。 トイレの個室に入っていた湯原絵里は、二人の会話を聞き、体を震わせていた。
彼女達の話の真偽はともかく、絵里が見舞いに行った日に、城崎彩の母親が何者かによって刺殺され、城崎が行方不明になり、警察が山田悟を探しているのは事実だ。さらには、森脇洋介と斉藤春香とも連絡が取れなくなっている。この事実が笑い話を怪談に変えたのだ。
城崎彩は本当のことを言っていたんじゃないか、誰もが冗談のように言いながら、心のどこかで恐れていた。だが、絵里は違う。心の全てが恐怖で塗りつぶされそうだった。
だからこそ、旧校舎に行かなければならない。悪夢を終わらせる方法は、もうそれしかない。
女子トイレを出た絵里は、そのまま西館校舎の裏に向かった。
校舎裏は日が差さず薄暗かった。放課後の喧騒が遠い所から聞こえる。
そんな静かな校舎裏を歩いて行くと、林道に続くフェンス扉が現れた。淡い期待を抱いて扉を押したが、やはり開かない。
「よじ登るしかないか……」
絵里はフェンスの頂上を不安そうに見上げる。
フェンスの高さは約二m。病弱だった絵里には、かなりの高さだ。それでも登るしかない。絵里はフェンスに指をかけ、落下の恐怖に怯えながら登り始めた。
「きゃあ!」
そして、落下した。フェンスを越えたまではよかったが、向かい側に降りる際に足を滑らせたのだ。だが、二mである。すぐに足が地面につき、絵里は胸を撫で下ろした。
林道は幅二m程の狭い道で、木々の葉が空を覆っているせいでかなり暗い。
「やっぱり気味悪いな……」
この林道の先に、数々の怖い噂の舞台になった旧校舎がある。怖がりな絵里には縁のない場所だったが、今日はそこに行かなければならない。
おっかなびっくり林道を歩いていくと道が左右に別れた。右か左か。ここは直感に頼ることにした。絵里は左に向かって歩く。
だが、道の先にあったのは旧校舎ではなく、お堂だった。誰かが管理しているのか、お堂の周りには雑草も生えていない。観音開きの扉を開けてみると、中には奇妙な木像が置いてあった。木造の右手には剣が握られ、額からは二本の角が生え、目だけが鮮やかな赤色で塗られている。神でも仏でもない鬼の像だ。
戸を閉めた絵里は、お堂の前に五円玉を置いて、手を二度叩き、この悪夢が早く終わるように祈った。鬼とはいえ祀られているのだから、少しはご利益があるはずだ。
祈願が済むと、絵里は来た道を引き返し、今度は右の道を進む。
こっちの道はさらに暗い。一歩進むごとに闇が深くなる。木々の向こうで音がした。葉が擦れ合う音に決まっているのに、絵里は小走りになった。
暗い。気味が悪い。怖い。
何かが後をつけてくるような気がするが、振り返って確かめる勇気はない。絵里は腕を振って走り出す。林道の先に光が見えた。絵里は転びそうになりながら、光の中へ飛び込んだ。
暗がりに慣れた視界が、強い日差しで真っ白に染まる。絵里は目を細める。徐々に光の中に巨大な影が浮かび上がっていく。
「これが旧校舎か……」
校庭の向こうに四階建ての旧校舎は建っていた。長年、雨風にさらされた壁は、黒く濁っている。校庭には草一本も生えていない。
旧校舎のどこかに鍵が壊れた窓があるはずだ。窓を一枚一枚調べながら裏に回ったところで、絵里は立ち止まった。右から四番目の窓が開いていたのだ。
城崎達が忍び込んだ時から開けっ放しだったとは考えにくい。事件の後、誰かがあの窓を開けて、旧校舎に入ったのだ。でも、一体誰が?
「落ち着け、私……化物なんていない」
絵里は自分に言い聞かせる。噂話は現実ではない。夢も現実ではない。化物なんていない。それを確かめに来たんだ。
絵里は勇気を振り絞り、窓を乗り越え、旧校舎の一階廊下に降り立った。
その瞬間、絵里は妙な感覚に囚われた。何かを忘れてしまったことだけを思い出したような感覚。だが、忘れていることなど何もないはずだ。ここに来るのは初めてなのだから。なのに、廊下に置かれた文化祭の看板やうず高く積まれたダンボール箱に見覚えがある。
そんな馬鹿なと思いながら、絵里は廊下を直進し、突き当りにある音楽室の戸を開ける。ここも見たことがあった。黒板の前に置かれたピアノも、壁際に積まれた机も、夢で見た通りの場所に置いてある。
音楽室を出た絵里は、覚束ない足取りで階段を上った。
彼女が旧校舎に来たのは、夢で見た旧校舎と現実の旧校舎の違いを確かめるためだ。旧校舎に入ったことがないのだから、夢で見た旧校舎は脳が作り出したイメージに過ぎないはずだ。しかし、今のところ夢と現実には全く違いがない。
夢は現実だったのか、城崎の話は事実だったのか、化物は実在するのか。
悪夢から逃れるために旧校舎に来たのに、より深く悪夢に入り込んでしまったようだった。
二階に上がった絵里は、理科室の戸の前で立ち止まる。ここで城崎は化物を目撃し、夢の中の化物は斉藤を襲っている。理科室を調べれば、もっと恐ろしいことを知ることになる、そんな不吉な予感があるが、もう引き返せない。
絵里は理科室の扉を開けた、そのままの姿勢で固まった。
夢の中で斉藤を襲った場所に、背の高い女子生徒が立っていたのだ。どうして、こんな場所に一人でいるのか。まさか、この人は――
「あれ、湯原さんだよね、何やってんの?」
「……城崎さんの噂が気になって、調べに来たんです」
理科室にいたのは同じクラスの滝沢加奈恵だった。少なくとも見た目はそうだ。
「そっか、私と同じだね。それで、ちょっと悪いんだけど……」
歩み寄ってきた加奈恵は、絵里の頬を抓った。絵里が仰天していると、加奈恵は苦笑した。
「よかった、人間ね」
絵里の頬から手を離した加奈恵は、今度は自分の頬を引っ張った。加奈恵も絵里がクラスメイトの皮を被った人体模型じゃないかと疑ったらしい。
「あのさ、実は見て欲しいものがあるんだ」
加奈恵は窓の前まで歩いた。絵里もついて行ったが、特に目につくものはない。
「何もないみたいですけど……」
「よく見て、床も机も埃一つないし、黒いシミがあちこちにある。誰かが何かをぶちまけて、それを拭き取ったんだ。たぶん、城崎が旧校舎に肝試しに来た日に」
「たぶん、斉藤さんの血です。彼女……血だらけだったみたいですから」
「……なんでそんなこと知ってるの?」
驚く加奈恵に、絵里は見舞いに行った時に城崎から聞いた話と、エントランスで山田悟とすれ違ったことを打ち明けた。加奈恵は真剣な表情で話を聞いた。
「山田さ、キャリーケースを持っていたでしょ?」
絵里の話が終わると、加奈恵はそう言った。だが、そのことは言っていない。
「ええ、持ってましたけど……どうして知ってるんですか?」
「昨日、城崎の住んでたマンションの管理人から話を聞いたんだ。悪いけど、部室に来てくれないかな。その時に録音したデータがあるんだ」
「分かりました、行きましょう」
こうして、絵里は加奈恵と二人で旧校舎を出て、西館校舎へ向かうこととなった。
正直に言うと、絵里は加奈恵に苦手意識があった。彼女は美人だが気が強く、背も高いので迫力があった。しかも、かなり怖い男友達がいる。その男友達の名前は牧村文平。二m近い長身に筋肉の鎧をまとった大男で、駅前で喧嘩をして停学になった不良である。
「湯原さん、先に行って」
その怖いはずの加奈恵は、フェンス扉の前までくると鍵を外して、扉を開けた。言われた通りに絵里が扉を潜ると、加奈恵は鍵を掛け直して、フェンスをよじ登った。
「あ、ありがとうございます」
「いいって、湯原さん、病み上がりなんだからさ」
ニッコリと微笑んだ加奈恵は、ポンポンと絵里の背中を叩いた。
今は仲良しの雪仁のことが、最初は怖かった。彼は整った顔立ちをしているが、背が高く、無口で無愛想だったからだ。でも、すぐに優しい人だと分かった。加奈恵も怖いのは見た目だけかもしれない。もっとも、雪仁に不良の友達はいないのだが。
絵里と加奈恵は西館校舎の四階に上がる。そこは文科系の部室が並んでいる場所だ。その一角にある郷土史研究会の部室に、絵里と加奈恵は入った。
部室の中央には長机が置かれ、窓際に学習机が一つあり、壁にはファイルや本が詰まった棚が並んでいる。絵里は長机を挟んで、加奈恵と向かい合って座った。
「ここって何をする部活なんですか?」
「街の歴史や伝承を調べて、文化祭の時とかに発表してるわ。せっかくだから、この街の歴史について少し話しましょうか。葦原市は三笠製薬の企業城下町として発展してきたけど、戦前は軍郷、つまり軍の基地があったの。そして、明治維新より前、葦原は鬱蒼とした森に囲まれた隠れ里のような場所だったそうよ」
「この街、そんな田舎だったんですか」
「今じゃ見る影もないけどね。それでさ、記録によると街で噂になった化物や怪人は、大昔から存在してるんだ。怪人ドロドロ、人面犬、蟷螂男、そして歩く人体模型もね」
「そんな昔に人体模型なんてなかったと思いますけど……」
「ええ、だから呼び名が違った。昔は土鬼と呼ばれていたわ。平安時代の末期に、皮のない化物が僧侶を殺して皮を奪って、その僧侶に成りすましたって伝承があるの」
「……滝沢さんは、化物の存在を信じているんですか?」
「どうかな。葦原市の都市伝説は、凄惨な事件や事故を伝承と結びつけたものだと、前は考えてたんだけどね。とりあえず、録音した管理人さんの話を聞いてもらおうかな」
加奈恵はボイスレコーダーを机に置く。事件について分かった奇妙なことが、それに録音されているらしい。少し怖いが、ここまできて聞かずに帰るわけにはいかない。
「城崎さんは気の毒だったね。いい人だったのに、こんなことになって残念だよ。ところで、どうして録音なんてするんだい?」
加奈恵が再生ボタンを押すと、スピーカーから男の声が流れてきた。管理人の声らしい。
「私の後輩に城崎さんの幼馴染がいるんですが、彼女すっかり落ち込んでしまって。それで、城崎さんの足取りが掴めないか情報を集めることにしたんです」
加奈恵の声だ。そんな事情があったのか。絵里が加奈恵を見ると、彼女は肩をすくめた。管理人から話を聞き出そうと、それらしい嘘をついたらしい。
「偉いなぁ、後輩想いのいい先輩じゃないか。そういうことなら話すけど、その後輩さん以外には言わないでくれないかな。警察にも口止めされててさ」
「もちろんです。それで城崎さんは無事なんですか?」
「うん、生きてるよ。防犯カメラに部屋から出るところが映ってたんだ」
「よかった……でも、彼女は今も行方不明ですよね?」
しばらく音声が途切れた後、スピーカーから管理人の声が再び流れ出す。
「実は妙なんだ。部屋から出て行ったのは、城崎さんの娘さんだけでね。廊下にある防犯カメラに映らずに部屋から出るのは難しいし、犯人はどこから逃げたのかなぁ」
「窓から逃げたんじゃないですか」
「う~ん、三階だから飛び降りれなくはないかもね。けどさ、入口から堂々と入ったのに、出る時だけ見つからないように窓から逃げるかな?」
「確かに変な話ですけど、殺人鬼の思考なんて普通じゃありませんし……」
「そりゃそうだけど妙なことは他にもあるんだ。犯人の少年が持っていたキャリーケースを、部屋から出てきた城崎さんの娘さんが持っていたんだよ」
その後、滝沢が通り一遍の挨拶をし、録音された会話は終了した。
驚くべきことに、城崎は自らの意志で行方を暗ませたらしい。だが、何故そんなことをしたのか、どうして山田が持っていたキャリーケースを持って行ったのか、キャリーケースには何が入っていたのか、そもそも本当に城崎なのか?
『アレは斉藤の皮を被った化物なのよ』
絵里の脳裏に、城崎彩が言った言葉がよぎる。もし、狂っているのが彼女ではなく、現実の方だとしたら――
窓の外に目を向けると、学校を囲う林の中にある旧校舎が見えた。雨風にさらされ続け黒く汚れた旧校舎は、巨大な化物の影のようにたたずんでいた。
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