第三話 最初の悪夢
灰色の空から降り注ぐ雨の音が、テレビの砂嵐のように絶え間なく響いている。
そんな雨の中を、深山雪仁と湯原絵里は歩いていた。彼等は平坂高校に通う高校二年生で、放課後にクラスメイトの城崎彩の見舞いに行く途中だった。
あの騒動から二日が経っても、城崎は学校に来なかった。悪ふざけで彼女を怖がらせた山田悟、森脇洋介、斉藤春香の三人も欠席している。あんな大騒ぎを起こしたから、皆に合わせる顔がないのだろう。
そんな時に見舞いに来られても迷惑だろうと雪仁は思っているが、絵里には城崎に会わなければならない理由があるらしい。
会話もなく雨の中を歩いて行くと、城崎の住むマンションに到着した。
エントランスに入った雪仁は、管理人室の隣にある来客用のインターフォンのボタンを、7、0、4、呼出の順で押した。すぐに応答があり、雪仁が要件を話すと、オートロックのドアが音もなく開いた。二人はドアを通り、エレベーターに乗って、城崎の住む七階に向かう。
そのエレベーターの中で、絵里は予防接種を待つ子供のような顔をしていた。
「……湯原さん、引き返したいなら無理することないよ」
エレベーターのドアが開いた時、雪仁は優しい口調でそう言った。
どんな事情かあるのか知らないが、クラスが同じだけの女の見舞いに、いやいや行く必要があるとは思えない。
「うんうん、大丈夫……心配かけてごめんね」
だが、絵里はエレベーターを降り、廊下を進んで、七〇四号室のドアをノックるする。すぐにドアが開き、城崎の母親が出迎えてくれた。
「お見舞いに来て下さって、本当にありがとうごいます」
どこか疲れた様子の城崎の母親は、雪仁と絵里をリビングに通し、二人がダイニングテーブルに座ると、お茶とお菓子を持ってきてくれた。
「どうぞ、遠慮なさらず召し上がってください」
向かい側に座った城崎の母親に促され、雪仁は紅茶の入ったカップを口に運ぶ。
「それで、城崎さんは、どんな様子なんですか?」
紅茶を一杯飲んだ後、雪仁がそう訊くと、城崎の母親は体を微かに震えさせた。
「彩は……その……動揺しているといいますか……」
城崎の母は気の毒なほど狼狽していた。無理もない。娘があんなことをしでかして、まだ二日しか経っていないのだ。雪仁は助け船を出すことにした。
「お話は伺っています。城崎さんは、旧校舎で友達に驚かされたせいでパニックになり、警察に通報してしまったんですよね」
「ええ……そうなんです。あの一件で娘はすっかり参ってしまいました。今も化物に襲われるって怯えて、部屋から一歩も出てこなくて……」
今度は雪仁が狼狽した。城崎が学校に来ないのは、騒動を起こしたことを恥じているからだと思っていた。しかし、彼女は本気で化物を恐れているという。
「でも、お友達が来て下さったんですもの。お二人の顔を見れば、彩もきっと元気になりますよね。娘は部屋いますから、どうか顔を見せてやって下さい」
無理に微笑んだ城崎の母親は、二人を連れてリビングを出て、廊下の突き当たりにある部屋の前まで行き、ドアを軽く叩いた。だが、返事はない。
「彩、寝ているの? お友達の深山君と湯原さんが着て下さったのよ」
「誰も入れるなって言っただろうが!」
ドアの向こうから聞こえた怒号に吹き飛ばされるように、城崎の母親が後ずさる。
予想通りの展開だ。城崎は化物に友人を殺されたと思い込んでいる。しかも、その化物は、人の皮を着ることで誰にでも成りすませる変幻自在の化物だ。そんな時に、親しくもないクラスメイトが尋ねてきたら不審に思うに決まっている。
「城崎さん、私達を部屋に入れなくていいから、何があったか話してくれないかな?」
それでも絵里は、ドアの向こうにいる城崎に話しかけた。
すぐに返事は返ってこなかったが、絵里はドアから目を逸らさない。
「二日前、私は山田君に誘われて、旧校舎に肝試しに行ったの」
一分が過ぎた頃、城崎は、旧校舎で体験した恐怖を、震える声で語り始めた。
外で待っていたら、斉藤の悲鳴が聞こえたが、それは城崎を驚かすための合図だと山田は言った。城崎を驚かすために、人体模型の仮装をした森脇が理科室で待ち構えていることも聞いた。だが、理科室にいたのは血だらけの斉藤と、本物の人体模型の化物だった。それを見た城崎は、山田も斉藤も見捨てて、一人で逃げてしまった。
そんな話を、城崎は嗚咽交じりに語った。友達を見捨てたことを後悔しているらしい。でも、気に病む必要はない。
「城崎さん……その後、君はすぐに警察を呼んだ。それでどうなった? 旧校舎に入った警察官が見たのは、人体模型の仮装をした斉藤だったんだろ?」
「違う、アレは斉藤じゃない、斉藤の皮を被った人体模型の化物よ!」
雪仁が突きつけた事実を、城崎は声を張り上げて否定した。
もう何を言っても無駄だろう。彼女に必要なのは同級生の見舞いではなく、病院に行って精神科医の治療を受けることだ。
雪仁と絵里は、七〇四号室を後にした。
何もできなかったのに、見送ってくれた城崎の母親は何度も二人に礼を言った。痛ましいその姿を前に、雪仁は城崎が正気に戻ることを祈った。
エレベーターで一階に下り、自動ドアを通ってエントランスに出る。
その時、平坂高校の制服を着た青年が入れ違いに中へ入った。山田悟だ。彼は大きなスーツーケースを持っており、濡れた車輪が床に透明の線を引いていく。
「おい、待て」
雪仁が呼び止めようとした時、自動ドアが閉まってしまった。オートロックだ。エントラス側からでは、前に立ってもドアは開かない。
ガラス張りのドアの向こうで、山田悟がエレベーターに乗って振り返る。嫌な目だ。彼は感情のない人形のような目で、雪仁と絵里を睨み付けている。
エレベーターのドアが閉まり、ドアの上に並んだ階を示す数字が左から右へ点滅を繰り返す。最後に光ったのは7。やはり城崎の見舞いに来たのだ。
無関係な二人にも怯えていたのに、あの場にいた男が会いに行ったら城崎はどうなってしまうのか。かなり心配だが、あの場にいたからこそ誤解を解けるかもしれない。顔の皮を引っ張れば、彼が本物の山田悟だと分かるだろう。
外は相変わらずの雨だ。傘をさしてマンションの前を歩いていると、雨音に交じって少女の悲鳴が聞こえた気がした。山田悟に会った城崎が悲鳴を上げたのか、それともただの空耳か。雪仁は耳を澄ましたが、もう雨音しか聞こえなかった。
不安は募るが、城崎は山田に任せることにした。雪仁には他にやることがある。
絵里と城崎は親しくない。それなのに、今日の放課後、一緒に彼女の見舞いに行ってくれと頼んできた。その理由を、雪仁はまだ絵里から聞いていない。
「ちょっと時間あるかな? 俺、喉渇いちゃって」
雪仁は見え透いた嘘をついた。城崎の家で紅茶を飲んだばかりである。
「うん、私も何か飲みたかったんだ」
少し間をおいてから、絵里は頷いた。彼女も相談したかったらしい。
二人はマンションの近くにあった寂れた喫茶店に入った。他に客はおらず、店員も初老の男が一人いるだけだ。アイスコーヒーを二つ注文すると、すぐに持ってきてくれた。
「今日は、付き合わせちゃってごめんね」
「気にしなくていいよ。それより、城崎の見舞いに行った理由を話してくれないかな。湯原さんは彼女が心配だって言ってたけど……他にも心配なことがあるんだろ?」
「深山君に隠し事はできないね。でも、そんなに大したことじゃないんだ。一昨日、見た夢が城崎さんの話と似ていただけなの」
「歩く人体模型に襲われる夢なら、俺も小学生の時に見たよ」
「違うの、襲われる夢じゃないんだ。ベッドに入った私は気が付くと……眠っているのに、そう言うのも変なんだけど、旧校舎の音楽室にいた。廊下から声が聞こえたから、私は音楽室から出たんだけど、ドアを開けた私の手には皮がなかった」
絵里が見たのは、彼女が人体模型になる夢だったのだ。そして、彼女が夢を見たのは一昨日の夜。彼女が何を恐れているのか見えてきた。
「驚いたし怖かったけど、脚は勝手に進んで、懐中電灯を点けて階段を上る二人組を見つけた。森脇君と斉藤さんだったわ。二人は階段を上って、女子トイレに入ってから、理科室に入った。私は、ドアを少し開けて、二人をジッと見つめていたの……」
絵里はコーヒーカップを口に運ぶ。その手が微かに震えている。
「しばらくすると、森脇君が準備室に入った。きっと一人になるのを待っていたのね。私は音を立てないようにドアを開けて、机に座っている斉藤さんに忍び寄った。けど、斉藤さんは気付いて、私の方を見た。そしたら彼女は悲鳴を上げて……そこで目が覚めたの」
絵里が不安になるのも無理はない。彼女が夢を見たのは、城崎が旧校舎に行った日だ。夢の内容も、城崎から聞いた話と類似点が多い。だが、全てが同じではない。
「城崎は部屋に入った時、斉藤は窓際に立っていたって言っていたじゃないか」
「でも、血だらけだったんだよ。化物に襲われて、怪我したのかもしれないよ」
「血塗れになるほど出血したら、立っていられないよ。今回のことは、山田達の悪趣味な悪戯に城崎がショックを受けすぎただけだ。湯原さんが似たような夢を見たのは、ただの偶然だよ。心配することはないさ、化物なんていないんだから」
「……そうだよね。ごめんね、変なこと言っちゃって」
俯いていた絵里が顔を上げた時、彼女は苦笑していた。
その後は夢の話なんか忘れて、学生らしい会話を楽しんだ。放課後に絵里と喫茶店で取り留めもない話をする、一カ月前なら想像もしなかったことだ。
一年生の頃から同じクラスだが、話すようになったのは最近のことだ。絵里は誰とも仲良くしようとせず、休み時間も一人で本を読んで過ごすような女の子だった。
そんな彼女が変わったのは、二週間前に病院を退院し、学校に来るようになってからだ。
「そういえば、前は眼鏡してたけどコンタクトにしたの?」
一カ月ぶりに学校に来た絵里は、眼鏡を外し、長かった髪もショートカットにしていた。あまりの変わりように、雪仁は転校生かと思ったほどだ。
「うんうん、病気が治ったら、視力もよくなって必要なくなったの。その影響で瞳が赤くなっちゃったんだけど……変かな?」
「いや、綺麗だと思うよ」
絵里の赤い瞳は、陽にかざしたルビーのように美しかった。誰が見たってそう思う。しかし、頬を赤らめた絵里を見て、雪仁は変なことを言ったのか不安になった。
「でもさ、湯原さん、本当に変わったよね。なんというか、その、元気だね」
取り繕うとして余計に変なことを言ってしまったが、絵里は嬉しそうだった。
「ありがと。私ね、生まれ変わったんだよ」
そう言って微笑む絵里は、キラキラと輝いて見えた。少し前まで病に苦しみ、世を儚んでいた少女と同一人物とは思えない変わりようだ。
そのことが嬉しいはずなのに、雪仁の胸は不安で一杯だった。今の絵里は、明るくて、綺麗で、輝いている。きっと誰にだって好かれるだろう。
そんな彼女が自分と一緒にいていいのか、雪仁は不安でたまらなかった。
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