第二話 旧校舎の怪
祖父が死んでから七年後の六月八日、平坂高校に通う高校二年生になった山田悟は、夜の旧校舎の前に立っていた。平坂高校の旧校舎は月明かりに照らされ、青白く輝いている。
悟は友達と旧校舎に肝試しに来たのだ。今は、先に旧校舎に入った森脇洋介と斉藤春香を、城崎彩と外で待っているところである。
「ねぇ、いくらなんでも帰りが遅すぎない?」
洋介達が旧校舎に入った二十分後、城崎は不安そうな顔で、そう言った。
「カメラを撮るのに夢中になってるだけだよ。洋介が心霊映像を撮るって張り切ってたから」
悟は素知らぬ顔で嘘をついた。撮影しているのは本当だが、帰りが遅いのは別の理由だ。今頃、洋介達は、城崎を驚かすための準備をしているはずだ。
「でも、この旧校舎って怖い噂がたくさんあるじゃない。音楽室の幽霊とか、怪人ドロドロとか、日本兵のゾンビとか……」
「そんなの迷信だよ。幽霊も化物も、この世にはいないんだ」
当たり前のことを言っても、城崎の顔は曇ったままだ。七年前、祖父から話を聞いた直後は、悟も同じ顔をしていた。でも、父親から真相を聞き、悪夢から解放されたのだ。あの時のことを話せば、城崎も何時もの笑顔を取り戻すだろう。
「一九四五年に、葦原市で集団失踪事件が起きたって知ってる?」
「き、聞いたことあるよ。何千人って人が、一夜にして街から消えちゃったんだよね」
そう話す城崎の声は震えていた。どうやら、あの噂を知っているらしい。
「あの日、霧に包まれた街で、死者が蘇って人を襲った。そして、霧が晴れた時、死者も、死者に殺された人々も消えてしまった……なんて噂があるけど、真っ赤な嘘だからね」
ゾンビが人を襲うなんて嘘に決まっている。でも、城崎は納得しない。
「でも、集団失踪事件が起きたのは事実よ。テレビで言ってたもの」
「たしかに事件は起きたよ。でも、ゾンビに喰われたわけじゃない。集団失踪事件が起きたのは、終戦から四日後だ。葦原市には軍の基地があったから、米軍が襲撃に来るってデマが流れたんだ。それを真に受けた住民が街から逃げ出した、それが集団失踪事件の真相だよ」
この話を父から聞いた時は、あまりの馬鹿らしさに呆れてしまったものだ。
「じゃ、じゃあ、蘇る死者に襲われたって話はデタラメなの?」
「うん、デタラメ。この街の伝承に、黄泉返りってのがあるんだ。死んだ人間が化物になって蘇る、要するにゾンビだよ。この伝承と集団失踪事件を結び付けて、オカルト雑誌が記事を書いたんだ、一九四五年の夏に消えた人々はゾンビに襲われたんだって」
この記事を祖父も読んでいたのだろう。それを意識が朦朧としていた祖父は、事実と思い込んでしまったのだ。おかげで、祖父は怯えながら死んでしまった。そんなの最悪じゃないか。
「この街の人はさ、怖い話が大好きなんだよ。だから、ちょっと変な事件が起きると、それを化物のせいだって噂するんだ。それを真に受けて、人を殺した奴までいる」
「ああ、うちの生徒が友達を焼き殺した事件のことだね。逮捕された女子生徒は、私が殺したのは、友達の皮を被った人体模型だって――」
旧校舎から女の悲鳴が聞こえてきた。
城崎は顔を引き攣らせ、悟は顔をしかめた。準備が終わったら、斉藤が悲鳴を上げる。そういう段取りになっていたが、いくらなんでも本気で叫びすぎだ。
「何かあったみたいだね、様子を見に行こう」
「な、何言ってんの、悲鳴が聞こえたんだよ。早く警察に行かなきゃ」
斉藤の迫真の演技のせいで、城崎はすっかり怯えてしまった。
「落ち着いて、たぶん転んで尻を打っただけだよ。ほら、行こうよ」
悟は旧校舎の開いたままの窓から中に入った。正面玄関のドアは施錠されているので、この鍵の壊れた窓から忍び込むのが学生たちの慣例になっている。
「大丈夫だって。警察なんて呼んだら、俺達、停学になっちゃうよ」
悟がそう言うと、城崎は窓をよじ登って、旧校舎に入った。
本当にこれでいいんだろうか。城崎の顔を見て、悟は不安になった。
城崎は眉間に皺を寄せ、目は涙で潤んでいる。怒っているようにも、怯えているようにも見える。少なくとも楽しそうには見えない。
「よし、まずは音楽室を探そうか」
悟が懐中電灯を手に廊下を歩き出すと、城崎は彼の背に隠れるように付いてきた。
旧校舎は倉庫代わりに使われており、廊下にもダンボールの山や文化祭で使った看板などが置いてある。その影を懐中電灯で照らしながら、悟は廊下の突き当たりにある音楽室に入る。
音楽室には、演劇部が使っていた劇の小道具や、紙製のUFOの模型、山積みになった机と椅子が置かれている。音楽室らしいものは、黒板の前に置かれた古いグランドピアノだけだ。誰かが掃除したのか、ピアノには埃も積もっておらず、鍵盤を押すと音もちゃんと出た。
「このピアノを弾く幽霊がいるって噂があるんだよね」
部活で帰りが遅くなった女子生徒が、旧校舎からピアノの演奏が聞こえたので音楽室の窓から中を覗きこんだ。しかし、ピアノの前には誰もいなかった、という話をしようと思ったのだが、やめた。城崎が泣きそうな顔で、ピアノを凝視していたからだ。
「斉藤達はいないみたいだし、次は女子トイレに行こうか」
悟は音楽室を出て、一階の女子トイレに向かう。城崎は黙って付いてきた。文句は山ほどあるだろうが、それを口にできないほど怯えているのだ。
吊り橋効果を見込んで、洋介は肝試しを企画してくれた。恐怖で胸がドキドキすると、人はそれを恋心と勘違いするらしい。
でも、それでいいのだろうか。怖い噂を利用して、城崎に自分を好きだと勘違いさせる。それじゃあ、金欲しさにデタラメの記事を書いたオカルト雑誌と変わらないじゃないか。
あの時の祖父と同じように、城崎は本気で怖がっている。いわくつきの旧校舎で友人が悲鳴を上げたのだから無理もない。こんな方法で彼女の愛を勝ち取ろうなんて、あまりにも卑怯じゃないか。
そんなことを考えながら、悟は一階の女子トイレに入る。ここも怖い噂のある場所だ。
十七年前、旧校舎に肝試しにきた女子生徒がいた。彼女は肝試しの途中で催してしまい、恋人を廊下に待たせて、右から三番目の個室に入った。そして、二度と出てくることはなかった。
『ドロドロが私の脚を』
個室に入った直後、彼女はそう叫んだ。意味を成す言葉は、それが最後だった。後は彼女の絶叫と、枯れ枝が折れるような音が、トイレに響いていたという。
駆けつけた恋人がドアを蹴破ったが、血が飛び散った個室の中に彼女はいなかった。
女子生徒は、化物によって、便器の中に引きづりこまれたと噂されている。その化物は、女子生徒が言い残した言葉にちなんで、怪人ドロドロと呼ばれるようになった。
「斉藤も、怪人ドロドロに連れて行かれちゃったのかな……」
女子生徒が消えた個室の便座を、城崎は呆けたように見つめていた。
「それはないな。斉藤の体型じゃ、便器の穴は通れないよ」
斉藤の体型をいじって笑いを取ろうとしたが、城崎はニコリともしない。彼女のこんな顔はもう見たくない。悟は城崎の笑顔が好きなのだ。
「ごめん、城崎さん。これは全部嘘なんだ」
悟は全てを白状した。斉藤が悲鳴を上げたのは演技だということも、理科室には人体模型の仮装をした森脇がいることも、全ては城崎を驚かすための計画だったことも打ち明けた。
「どうして……そんなことをしたの?」
城崎のその質問に、悟はすぐには答えられなかった。でも、もう言うしかない。
「城崎さんと仲良くなりたかったんだ。吊り橋効果ってやつだよ。でも、怖がらせて仲良くなろうなんて、ろくな考えじゃないよな。本当にごめん、ごめんなさい」
悟は深々と頭を下げた。
仲良くなりたい。それが友達としてという意味じゃないのは、城崎にも分かるはずだ。こんん形で告白することになるとは思わなかったが、仕方ない。全ては自分が蒔いた種だ。
「私は怖いの苦手なの。だから、こういのは二度としないでね」
「うん、分かってる。本当に反省してるよ」
「ならいいよ、許してあげる」
その言葉が信じられず、悟は顔を上げた。
「許すって……俺、あんなに怖がらせちゃったのに……」
「たしかに怖かったよ。でも、悪気があったわけじゃないんでしょ。それにね……山田君が肝試しに行こうって誘ってくれて……私、嬉しかったんだ」
そう言って微笑む城崎。その笑顔を見て、悟は彼女のことを心から好きになった。
「よし、じゃあ早く理科室に行こう。森脇君の仮装を拝みにね」
城崎が差し出した手を、悟は恥ずかしそうに握った。そして、二人は手を繋いで旧校舎の廊下を歩き始めた。こんな不気味な場所で、人生最高の体験をするとは思わなかった。
「今回のことは水に流すけど、次は楽しい場所に行きたいな」
城崎の質問に、悟は少し考えてから口を開いた。
「ちょっと気が早いけど、期末テストが終わったら、八尋湖に泳ぎに行くのはどうかな?」
八尋湖は日本で二番目に大きな湖で、葦原市民なら一度は行ったことがある観光名所だ。
「いいね。あ、でも、八尋湖にも恐い噂なかったっけ?」
「巨大怪魚が人を食い殺したってやつでしょ。さすがにリアリティがないと思うけどな」
「それは、そうなんだけど……巨大怪魚が噂になったのも、十七年前でしょ。歩く人体模型も、怪人ドロドロも噂になったのは十七年前だし、何かあったのかなって。それに、新校舎ができたのも十七年前だよね」
「言われてみると、たしかに変だね……」
戦後すぐに、平坂高校は坂上地区から桃里地区に移転している。その校舎が老朽化し、再び坂上に戻ってきたのが十七年前だ。旧校舎を建て壊して新校舎を建てる計画だったが、解体作業中に事故が相次いだため断念され、新校舎は旧校舎の隣に建てられた。
そして、新校舎が完成した最初の夏に、奇怪な事件が相次いだ。
歩く人体模型、怪人ドロドロ、八尋湖の巨大怪魚、不死の不良軍団グールズ、防空壕の悪魔、地下鉄の食人鬼、旧日本陸軍の幽霊、他にも色々な噂が十七年前の夏に産まれている。これは、ただの偶然なんだろうか、それとも――
「どうかしたの、山田君?」
城崎に声をかけられて、悟は我に返った。
「えっと……ネタバレしちゃったから、洋介が怒んないか心配でさ」
「大丈夫だよ、ちゃんとビックリするから」
微笑む城崎を見て、悟は馬鹿なことを考えるのをやめた。好きな女子と手を繋いでいるのだ。十七年前に何が起きたかなんて、どうだっていい。
悟と城崎は階段を上り、廊下を左に曲がって、理科室の戸の前に立った。
理科室には人体模型の仮装をした洋介が待ちかまているはずだ。悟は城崎に目配せしてから、戸を開けた。
理科室には、錆びた鉄のような匂いが漂っていた。
窓の前に、赤い人影が見えた。洋介だ。あんな堂々と突っ立っていたら、誰も怖がらない。悟は呆れ顔で、幼馴染に懐中電灯を向けた。
洋介じゃなかった。赤い塗料で全身を濡らした斉藤だった。
「な、なんだよ、斉藤、その恰好は……」
懐中電灯の光を浴びて赤く輝く斉藤は、よく見たら服を着ていなかった。
「おい、どうしたんだ? 何があったんだ? 洋介はどこにいるんだ?」
悟が何を聞いても、彼女は何も言わない。生気ないガラス玉のような目で、ジッと悟を見つめている。ライトの光を浴びながら、目を細めることすらしなかった。
何が何だか分からないが、女友達を全裸のまま放置するわけにはいかない。悟はシャツを脱ぎながら、彼女に歩み寄る。すると匂いが強くなった。理科室に漂う匂いの元は、どうやら彼女が被った赤い塗料らしい。まさか血じゃないだろうな。
悟は前のめりに倒れた。机の影に隠れていた誰がに足を掴まれたのだ。
犯人は分かっている。ぶつけた肘の痛みに耐えながら、悟は懐中電灯を自分の脚を掴む誰かに向ける。案の定、洋介だった。そう思った。
「ふざけんなよ、洋介、危ないだ……」
脚を掴んだのは、人体模型の仮装をした洋介だと最初は思った。でも、違う。ディスカウントストアで買った人体模型のタイツは、こんなにリアルじゃない。
理科室に城崎の悲鳴が木霊する。
悟の脚を掴んでいるのは、人体模型のように皮がなく筋繊維が剥き出しになった化物だった。
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