平坂高校怪異録

@aliens

歩く人体模型

第一話 死の匂い

 病室には死の匂いが漂っていた。

 その匂いを発しているのは、ベッドに横たわる痩せ衰えた老人だ。彼の枯れ枝のように細い腕には、何本ものチューブが刺さり、点滴や心音を図る機械と老人を繋いでいる。

 病室の椅子に座った小学生の山田悟は、そんな祖父の姿をぼんやりと見つめていた。彼の母親は診察室で医者と話をしているので、病室にいるのは悟と祖父だけだ。

 祖父は三カ月前に倒れ、それから一度も目を覚ましていない。母に連れられて何度か見舞いに来たが、悟が何を言っても、祖父は返事をすることはなかった。

 そして、今日、このまま眠るように死ぬんだろう。

 今日は平日なのに、悟は母に病院に連れてこられた。理由は教えてくれなかったが、察しはついている。祖父はもう死ぬ、その予感は病室に入った時、確信に変わった。

 二年前に祖母が死んだ時も、病室には同じ匂いが漂っていた。薬品の匂いに混ざる微かな腐臭のような匂い、それが死の間際に人間が発する匂いだ。

 今の祖父は、あの時の祖母と同じ匂いがする。終わりの匂い、死の匂いだ。

「そこにいるのは悟か?」

 だから、祖父が再び口を開いた時、悟は心臓が止まりそうになった。もう祖父の死は避けれれないことだと思い込んでいたのだ。

「う、うん、お爺ちゃん、僕だよ」

「いいか、悟、平坂高校には近づくなよ」

 祖父が何を言っているのか、悟には分からなかった。平坂高校のことは悟も知っている。怖い噂がたくさんある学校だ。でも、三カ月ぶりに目が覚めて、最初に話すこととは思えない。

「ちょっと待っててね。今、お母さんを呼びに――」

「私が子供の頃に、あの学校が建てられたんだが、普通の学校じゃなかった。出入りしているのは軍人ばかりで、子供なんて一人も見たことがない。囚人を乗せたトラックが、学校に入って行くのを見たって奴までいたよ。たぶん、あの学校は軍の研究所だったんだ」

 祖父は悟を無視して話し続けた。様子が変だ。看護婦を呼んだ方がいいかもしれない。

「学校が建てられてから、街に化物が現れるようになった。人面犬や河童、巨大な獣、天狗や土蜘蛛、防空壕の悪魔……嘘だと思うなら、図書館に行って、一九四五年の七月十四日から、八月二十日までの新聞を読んでみろ。私の話が本当だと分かるはずだ」

 河童や天狗と言われて、悟は笑ったが、すぐに真顔に戻った。朦朧としているはずの老人が、どうして新聞の日付を正確に覚えているのか。なんだか怖かった。

「けどな、本当に怖いのは、そいつ等じゃない。本当に恐ろしい化物は、千九百四十五年の八月十九日に、霧の向こうから現れたんだ。奴等に出会ったら最後、死ぬより恐ろしい目に……」

 祖父が苦しそうに咳をするのを見て、悟は看護婦を呼びに行こうと立ち上がった。だが、祖父に手を掴まれてしまった。行くな、祖父の手はそう言っていた。

「奴等がやって来たのは、蝉の声も聞こえない寒い夏の日の昼頃だった。母親と家にいた私は、半鐘の音を聞いて家から飛び出した。戦時中だったから、空襲かと思ったんだ」

 祖父は悟の手を掴んだまま話し続けた。

「けど、空を見上げても爆撃機は見当たらない。そのうち、東の方から霧が流れてきた。見張り番が霧を煙と勘違いしたんだろうと、俺達は家に戻った。あの時、逃げていればなぁ……」

 祖父の白く濁った瞳は、もう悟を見ていない。遠い昔、恐ろしい過去を見ていた。

「その後すぐに、外から悲鳴が聞こえてきた。様子を見に行こうと思って、俺と母さんが玄関に行くと、誰かが戸を叩いた。母さんが恐る恐る戸を開けると、外に父さんが立っていた。父さんの白い着物は土で汚れて、血の気のない肌には黒い斑点が浮き上がっていた。それに嫌な匂いがしたよ。父さんは、一カ月前に肺炎で死んだから、肉が腐っていたんだ」

 死んだはずの人間が家に帰って来る。まるでゲームに出てくるゾンビだ。

「腐った父さんに抱き着かれて、母さんは悲鳴を上げた。悲鳴はすぐに聞こえなくなって、かわりに血が雨みたいに降ってきた。父さんが母さんの首に噛み付いたんだ。俺は一人で逃げたよ、母さんを見捨てて、縁側から庭に出て、塀を飛び越えて、外に逃げたんだ」

 祖父の手が震えだした。

「あちこちから悲鳴が聞こえた。蘇ったのは、父さんだけじゃなかったんだ。俺は走ったよ。死体に襲われている人を見捨てて、走って、走って、走り続けて、街の外れまで来た時、地面が揺れたんだ。地下で爆発が起きたみたいな揺れだった」

 悟の腕を掴んでいた祖父の指が、一本ずつ剥がれ落ちていく。

「揺れが収まって、俺は辺りを見回した。そしたら、東の空に赤色が咲くのが見えた。赤い大きな花だ。霧に覆われているのに、その色だけは……よく見えた。いいか、あの花は……化物を霧に隠して連れてきた花は……枯れちゃいない……あの学校の地下に……隠れ……」

 祖父の腕がベッドに落ちた。

 ピーと耳鳴りのような音が病室に響く。

 すぐに看護婦が病室に駆け込んできて、ベッドの前に立っている悟を廊下に連れ出した。その時、悟は祖父の眼を見てしまった。

 その目は死してなお、死より恐ろしい過去に囚われたように、大きく見開かれていた。

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