第三話 抜擢
暮れ六ツ(六時)、御三卿(田安、清水、一橋)のひとり、一橋治済(ひとつばしはるさだ)の屋敷では、御三家の水戸、尾張、紀州藩の江戸詰家老たちが集まっていた。
治済が、口火を切った。
「江戸界隈では、打ち毀しが朝夕と関係なしに多発している。ご政道が危なくなってきておる。ここに集まっていただいたのは、この状況下で如何にご政道を守るか。水戸の治保様は、どのようなお考えかな」
水戸の家老が、言った。
「わが殿は、田沼殿に代わる器量の者は、松平定信、酒井忠貫、戸田氏教様の三人しかいないと言われております」
治済は、頷いた。
「どうであろうか、尾張の宗睦様のお考えは」
「殿は、松平定信様の白川藩の治政をかっております」
「治貞様は、如何仰せか」
紀州の家老が答えた。
「殿は、定信様の白川藩の数多くの実績は存じておりますが、将軍の縁者は難しかろうと言われており、酒井忠貫殿を押したらいかがと申されております」
「治貞様の言われるのも分かるが、幕府転覆かという時期に、過去の習いに従うこともありますまい。定信殿は、幼少期より聡明で知られており、そしていずれは第十代将軍家治の後継と目されていた。しかし、田沼を‘賄賂の権現’と批判したため存在を疎まれており、意次の権勢を恐れた一橋家当主の治済によって、久松松平家の庶流の白河藩第二代藩主松平定邦の養子とされてしまった。意次に怨みやつらみから、今までの田沼の政治を一変させてくれるだろう」
治済は、一息ついて続けた。
「定信殿自らも幕閣入りを狙って、意次に賄賂を贈っていたようだ。うまくいくかもわからん。まずは、定信殿に老中になってもらうよう大老の井伊直幸殿に進言したい旨、御三家の殿へ書に致すので、しばらくお待ちくだされ」
と言って、治済は席を立った。
しばらくすると、女中たちが、酒と肴を運んできた。
数日後の四ツ(朝十時)、江戸城本丸御用部屋では、水野忠友、鳥居忠意、 牧野貞長、 阿部正倫たち、老中四人が集まっていた。そこに、田沼意次はいなかった。
水野忠友が口火を切った。
「御三家、御三卿の方々から、松平定信様を老中に殿上申が出ていますが、各々方のご意見をお聞きしたい」
鳥居が答えた。
「将軍の縁者を幕政に参与させてはいけないとの家重様の上意があります。ここは、断固拒否しなければなりませんぞ」
「鳥居殿の言われるとおりでござる。お断り申され」
牧野が、続いた。
「某、大奥の滝川様に根回しをいたそう」
幕閣の田沼派によって、御三家らの定信擁立工作は頓挫してしまったが、翌年の天明七(一七八七)年の五月二十日、飢饉による米の値上がりに対しての憤懣のため、江戸府内のあちらこちらで、打ちこわしが始まった。
意次は、鎮静化するために二十万両を使い、暴徒たちを鎮静化させた。
しかし、幼い将軍家斉は、御三家の言うことを聞いて、意次たちに命じた。
「将軍の御膝元の江戸でなんということだ。威厳の失墜、お前たちは、責任を取れ」
と怒り心頭、田沼派の首領格、御側御用取次の本郷泰行(やすあき)と横田準松(のりとし)を解任、その三日後、田沼意次も、責任を取らされ罷免された。
そして、定信が、老中に抜擢されすぐに筆頭になった。定信は、今まで意次の重商主義を重農主義へと転換を図る事を急いだ。
定信、三十歳。
(意次の息のかかった連中を一掃しなければ)定信は、御三家、御三卿に根回しをした。さらに田沼派の連中たちへ御庭番を放ち、様子を探らせた。
夜も静まったころ、報告が届いた。定信は、縁に出た。
「殿様、老中松平康福(やすよし)様は老中を二十五年、自分の意見を主張することもないし、持ってもいないようです。ただ、温厚なので、世間から慕われているようです」
「ご苦労であった」
翌日には、次々と御庭番から、定信に報告された。
「水野様は、田沼様から養子を迎えたりして、昇進を重ねて行ったようです。勝手掛をお勤めの時、極度に財政を悪化させています」
「牧野様は、今のところ悪いうわさはありません」
定信は、熟慮を重ねて、やっと行動に出る性格であったため、結論を出すには時間がかかった。
御三家にも相談して、将軍補佐役としての座を得るように画策し、意外に早い時期に首座なることができ、それを機会に老中たちを次々と罷免した。
そして、新老中として、松平信明、松平乗完(のりさだ)、本田忠壽(ただかず)、戸田氏教(うじのり)が就任した。
天明八年(一七八八)十郎右衛門が徒組頭の役職についてから十年が経った。相も変わらず過度の潔癖症や正義感のため、上司であろうとだれであろうと正しいと思ったら、意を曲げないため、以前以上に、上司から疎んじられていた。
(わしは、この性格のままでは、隠居するまで御目見以下の番士のままか、せいぜい進物番ぐらいで終わるのであろうか。それもやむをえまい)と十郎右衛門は、達観しているかのように見えたが、酒を飲むと相手方に愚痴やうっぷんを晴らすような言動が多くなり、酒の席では、十郎右衛門から皆が遠ざかりたがるようになった。
家でも酒の飲み方が荒くなってきて、富子を困らせていた。
非番の日、十郎右衛門は、寝苦しい夜からやっと寝付いたと思ったら、二日酔いのむかつきと朝からの蝉の鳴き声ですぐに目を覚ました。
ため息をついた。(気分をかえて、釣りでも行くか)
起き上がって、煙管に煙草をつめた時、
「旦那様、お城からお使いの方が見えました」
富子の声が襖の向こうから聞こえた。
「何用だと」
「すぐに徒頭が登城するようにと言って帰られました。すぐにお支度を」
「分かった」
「お食事はどうしますか」
「いらん、すぐに登城する」
徒頭から、勘定奉行の久世広民が広間で待っていると伝えられた。
(一体何だろう)十郎右衛門が考える間もなく、
坊主が、すぐに十郎右衛門を久世の所に案内した。
「坂部十郎右衛門でございます」
「おぬしが坂部か」
「坂部十郎右衛門、勘定役を命ずる」
十郎右衛門は、はっはと床をこするほど低頭した。
十郎右衛門の役職の勘定役は、勝手方勘定奉行の配下である徴税および領地支配の中でも経済面に関する事務処理を担当する「取箇方」の勘定として配属され、直属の上司は、勘定組頭の広田朔太郎、そして勘定奉行は、久世広民であった。
十郎右衛門は、すぐに友人の立山に会いに行った。立山は、十郎右衛門の栄転祝いにと、山下と菅沼に声をかけ、隅田川のほとりの船宿で宴を設けた。
しばらくたつと、女将が用意できましたと菅沼に伝えに来た後、菅沼が立ち上がっていった。
「みんな、これから屋根船に乗って、大花火の見学と行くぞ」
船着き場の船の中に四人が腰をおろすとすぐに、辰巳の芸者が、屋根船の鴨居にちょいと手をかけて、膝から先に仰向けになってすべりこむように十郎右衛門たちのところに入ってきた。
「粋だね」菅沼が芸者に向かっていった。
十郎右衛門の不機嫌そうな顔を見ながら菅沼が盃に酒を注いでいった。
「今日は、この坂部の出世祝いだ。おねえさん、よろしく」
「はい、わかりました。あたしは千代といいます。よろしゅうお願いします。さあ、坂部様、一杯いかがですか」
十郎右衛門は、盃を持った。
「だんな、そんなしかめ面しないでくださいよ」
「坂部、飲め」
立山が笑いながらいった。
「坂部様はまじめな方」千代は十郎右衛門の朱に染まった顔を見た。
「千代さん、何か面白い話をしてもらえまいか」菅沼が、話を変えた。
「そうですね、昔の話になりますが。あの紀伊国屋文左衛門さんがこの隅田川で盃流しという遊びをやられたそうです。数千の朱塗りの盃を船から流したとのことです。その後、これをまねて、学者柳屋長右衛さんの息子鯉三郎さんが茶道具屋の娘さんを娶る前にやろうとしたところそれを知った長右衛さんが間一髪止めに入ったそうです」
「なぜ止めたのですか」山下が聞いた。
「それは大変お金がかかるだけでなく、御上から目をつけられたら大変なことになると思ったからではないでしょうか」
体中赤く染まった十郎右衛門は頷いた。
ドーン、ドーン、ドーン
「花火大会が始まりました」と千代がいいながら、体の向きかえて障子戸を開けた。
夏の夜空に大輪の花が咲き、川面にもそれが映し出された。
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