第37話「もう、なにもない」
~~~トワコさん~~~
「……うん?」
マリーさんが怪訝そうな顔をした。
「……え、なに?」
わたしも同時に、それを感じた。
風が吹いた。
ホームの中央を、軽やかに吹き抜けた。
わたしの前に、そいつを運んできた。
「シャボン玉……?」
ふわふわ透明な球体が、わたしの目の前にやってきた。
風に揺れ、今にも壊れそうな状態で、漂っている。
中になにかある。
わたしは目を凝らした。
何かの画像……?
病院の服を着た男性……?
ひょろりと背の高い、優しそうな……?
「あら……た……?」
わたしは無意識のうちに手を伸ばした。
シャボン玉はわたしの掌の上に乗ると、身じろぎするように大きく揺れた。
割れて弾けた。
奔流のように、無数の映像が溢れた。
立ち尽くすわたしの周りを取り巻いた。
新が話していた。
どこかの屋上で、病院服を着て。
──トワコさんがいなくなるだって⁉ なんでそんな……!
──誰もそんなこと教えてくれなかった! トワコさんも……なんで!
──謹慎⁉ 戻って来ない⁉ どうして……だって、彼女は……!
──どこへ行くって⁉ そんなの、連れ戻しに行くに決まってるでしょ!
誰かの言葉に、新は強く反発した。
──聞いてくれないかもしれない⁉ そんなの、わかんないじゃないですか! 言わなきゃ伝わんないことってあるんですよ!
──昔の俺がそうだった! 妹ひとり、幸せにしてあげられなかった! ただ恐れて、戸惑ってただけだった! 本当はもっとすべきことがあったのに! かけるべき言葉があったのに! 届かないって思い込んだ!
胸元を強く掴んだ。
真剣な面持ちで、言葉を発した。
──だからもう、悩まないって決めたんです! もう二度と、大好きな女の子を泣かせない! 思ったことを思ったままに言うって決めたんです!
──え⁉ そうですよ! そう言いましたよ! ああもう! 何度でも言ってやりますよ! 俺はですね! 彼女のことが……トワコさんのことが!
──好きなんだ! 愛してるんだ! だから連れ戻しに行くんだ! 文句ないでしょ⁉ うおおおおお! 待ってろトワコさーん!
──シュボウッ。
何かが燃える音がした。
何かが強く噴き出した。
それは白い煙だった。
物語が復元する時に生じる煙。
愛の炎から生まれ出づる煙。
それが大量に噴き出した。
わたしの足からだった。
霧ちゃんに切断された腱。
それが瞬く間にくっついた。
包帯を解くまでもなくわかった。
そこにはきっと、もう傷すらも残っていない。
「これって……これって……」
カチン、硬質の音が聞こえた。
マリーさんが隠し剣を日傘の中に納めた音だった。
「ちょっと、何やってるのよ! ビブリオバトルはまだ終わってないのよ⁉」
「……あー?」
マリーさんはめんどくさそうに耳の後ろをかいた。
「もう決着はついたじゃろうが。そなたの負けじゃよ」
「な……誰がいつ……!」
「……その顔」
「はあっ⁉」
「鏡で見てみい。そこに答えが映っとるから」
「なに言って……っ」
わたしは鞄を漁ると、あわてて手鏡を取り出した。
──本当は知ってた。見るまでもないって。
顔の火照り。
どきどきと脈打つ心臓。
すべてがひとつの答えを指し示してた。
愛してるって言ってくれた。
好きだって言ってくれた
新がわたしを受け入れてくれた。
それはたぶん、物語としてではなく。
ひとりの女の子として。
「ふあああああ……⁉」
手鏡を覗き込んで、わたしは愕然とした。
なんて顔してるの。
ダメだこんなの、どこにも出せない。
誰にも見せられない。
「──トワコさん!」
ドキンと、心臓が跳ねた。
「あ、あ、あ……?」
振り向くまでもなかった。
この声、聞き間違うはずがない。
愛しい人の声。
とろけるような、甘美な響き。
だけどよりによって、こんな時に──
「やった! 間に合った! きみに言いたいことがあるんだ!」
「ちょっとごめん! ごめんなさい! やめて! 近寄らないで!」
新が近寄るぶんだけ、わたしは逃げた。
顔だけは見られまいと、必死に隠した。
「なんでだよ! なんで逃げるんだよ! トワコさん!」
「なんでもないの! ホントになんでもないの! だからお願い! ひとりにして!」
「ひとりにしとけないよ! だってそしたら、きみはどこかに行っちゃうんだろ⁉」
「そうだけど……! 今はダメ! ホントにダメな状態なんだってば! 見せられる状態じゃないんだってば!」
不毛な追いかけっこは続いた。
「見せられないって何をだよ!」
「顔よ! 顔! とにかくひどい状態なのよ! ふた目と見られない! 目が潰れちゃうレベルよ!」
「そんなことないよ! きみはいつだって綺麗だよ!」
「ううううう……っ⁉」
「きみはいつだって俺の理想の! 素敵で可愛い女の子だ!」
「やめてやめてやめて! ダメだから! おかしくなっちゃうから!」
「好きだ!」
「ひゃあああああああっ⁉」
「愛してるんだ!」
「うひゅううううううっ⁉」
もう、立っていられない。
わたしはホームに倒れこんだ。
「やめて新……! 成人男性が泣き叫ぶ女子高生をホームで追い回すみたいな絵面になってるから! これもう完っ全に事案だから!」
「捕まえるなら捕まえればいいさ!」
「ダメよ! そしたらあなた、明日から無職よ⁉ 路頭に迷うのよ⁉」
「そしたらトワコさんが養ってくれればいいだろ⁉ 前にも言ってたじゃないか! クズニートになった俺を、きみが支えるって……!」
「きゃあああああっ⁉」
新がわたしを抱きしめた。
わたしは新に捕まった。
「わかった! わかったわよ! もう……! どうしたら許してくれるのよ!」
わたしが降参したのを確認すると。
新はわたしを解放し、へなへなと尻もちをついた。
病院からこっち、まっすぐ走り通しだったのだろう。
膝ががくがく震えてた。
肩で息をしながら、わたしを見た。
「……戻って来てくれよ」
「戻るって……どこへよ」
「俺のところへ。俺のいる街へ。あの日記の続きみたいに」
「……何年かかるかわからないのよ? 世界図書館の連中なんて、楽隠居した老人みたいなのばっかりで、気の長いやつしかいないんだから。本気で長い謹慎になるかもしれないのよ? その間、新は歳をとって、周りはどんどん結婚していって……寂しいひとり暮らしをおくることになるのよ? そんなの、わたしは……」
「それでも、だよ」
「新……」
「ねえトワコさん、書籍カード、貸してくれないか?」
「え? なんで?」
「いいから、あとペンも」
「ホントにわけわかんないんだから……もう」
ぶつぶつ言いながら、わたしは言われた通りにした。
新はペンをとると、書籍カードに何事かを書き込み始めた。
「ちょっと……なにやって……!」
慌てて奪い取ると、その文面が、わたしの瞳を射た。
タイトルが書き換えられていた。
ヤンデレ彼女が離してくれない。
に、
だからずっと、一緒に暮らす。
が、付け加えられていた。
「へへ。俺とってことだぜ? トワコさん」
そう言って、新は笑った。
いたずらっ子の少年みたいな顔だった。
「……っ」
突然、懐かしさがこみ上げた。
イノセントな子供の頃の新。
こっそり教科書の隅にわたしのことを描いては、ひとり悦に浸っていた新。
昔の新と、今の新が重なった。
ダブって見えた。
またわたしを、
「ねえトワコさん。戻ったらさ、俺と一緒になってくれないか? 結婚してほしいんだ」
「け……っ⁉ ケッコン⁉」
ものすごいド直球に、声が上ずった。
「ダ……メよ……っ」
体中が震え出した。
涙が止まらなくなった。
「だってわたしはこんなんで……。そんな風な関係になったら、もうおしまいよ? 新のすべてを監視して、すべてに報告を義務づけるわよ? 何時何分に学校に着いた。授業では誰と誰に当てた。お昼はどこで誰と食べた。GPS機能もフル活用で、常に居場所を確認するわよ? 今後一切、自由なんてなくなるのよ?」
「いいよ。どんどん縛ってくれ。俺みたいなふわふわ頼りないやつには、きみぐらいしっかりした人がいてくれないと困るんだ」
「き……霧ちゃんみたいに、新の大切な人を傷つけても? それでも新は、わたしを許せるの?」
「……許すとか許さないとかじゃないんだ。どこまでもお互いさまなんだ。作者として、物語として、俺たちは互いに譲れない問題を抱えてた。ただ折り合いの付け方が下手だったんだ。俺たちみんなさ。……それに霧とは、これで終わりってわけじゃないんだ。願えばまた会える。いくらでも機会はある。それを俺は、知ってるんだ」
「……歳すらとらないのよ? いつまでも若いままなのよ?」
「いいことじゃんか。世界中の女性がうらやむようなことだ」
「どこがよ。世間がほうっておかないわ。あいつ、いつまで経っても歳とらないなって。怪しむに決まってるわ。とてもじゃないけど、ひとつ所には住めないのよ?」
「だったらそのつど、移動すればいいさ。お金のことを気にしてるなら、さっきも言ったように、きみが俺のこと……」
「わたしにどれだけ負担をかける気なのよ……もうっ」
わたしが怒ってみせると、新は軽やかに笑った。
「そのこともさ、考えてはみたんだよ。俺が老い続けて、いつかきみより先に死んで……。きみがひとりになって……。そんなの寂しいじゃんかって。だったらいっそ、結ばれなきゃいいんじゃないかって」
「うん……」
「でも無理だった。どれだけ考えてみても、これからの俺の人生の、俺の物語に、きみがいないシーンなんて考えられない」
「新……」
「ねえトワコさん。俺は思ったんだ。俺がいつか死んで、きみがひとりになって。どこか遠い土地で司書になって。誰かの指導をして……。その時さ、もし誰かが、たとえば俺ときみの子供が。補助をしてあげられたらなって、思ったんだ……」
「なに言ってるの……。そんなこと出来るわけが……」
……いや、そうじゃない。
例外的な存在を、わたしは知ってる。
真理とマリーさん。
新が導いて結びつけた、あのふたり。
見えなくても、聞こえなくても、触れなくても。
コミュニケーションは通じるのだ。
そこにいると信じれば、叶うのだ。
「……っ」
もう、わたしの言い訳はなくなってしまった。
新とわたしの間を妨げるものは、なにもない。
「……ひとつだけ、条件があるの」
「なんだい?」
「──キスして」
わたしはまっすぐ、新を見た。
「今のあなたが昔と違うって言うんなら、その証拠を見せて? 死ぬまで続く、契約のキス。そしたらわたし、絶対あなたのところへ戻って来るから」
──あの日記の続きみたいに。
わたしはわずかに、顔を前に突き出した。
涙で歪む視界の中で、新が緊張したのがわかった。
昔の新だったら出来なかったこと。
照れるだけで、どうにかして避けようとしたこと。
だけど、今の新は違うんだ。
成長した。大人になった。
大いに照れながらも覚悟を決めて──
わたしの唇にキスをして──
頭をかきながら、微笑んだ──
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