きみがそこにいない。
第35話「きみがそこにいない」
~~~
病院のベッドの上で目を覚ました瞬間。
トワコさんの泣き顔が、目に飛び込んできた。
彼女は俺の首っ玉にかじりついて、泣いて、なじって……。
水差しの水を変えてくると言ったきり、戻ってこなかった。
それっきり。
一日、二日……。
見舞いに来た真理とマリーさんに訊ねたが、有用な返答は返ってこなかった。
世羅に訊ねても、血の眼に訪ねても、ヒゲさんに訊ねても、真田兄弟に訊ねても。
誰一人、答えを教えてはくれなかった。
退院の許可が出る前に、脱走するようにしてアパートに戻った。
やっぱりトワコさんはいなかった。
部屋は綺麗に掃除されていた。
隅々まで、大掃除でもしたみたいに綺麗だった。
今日は休日だ。
学校はないはずだ。
なのに彼女はどこへ行ったのか……。
学生鞄まで持って……。
座布団に座って考え込んでいたら、ヒゲさんが迎えにきた。
でっかい拳骨で殴られ、病院に連れ戻された。
縛り付けるようにベッドに寝かされた。
ヒゲさんがトイレに立った隙を見計らって脱出しようとしたら、突然その人物が目に入った。
病室の前の長椅子に、座ってた。
80、あるいは90歳ぐらいか、枯れ木のようにやせ細った老人だ。チャコールグレーのスーツに山高帽、烏頭のステッキという組み合わせは、いかにも昔の洒落者風。
屋上へ行くという老人のあとをついて行った。不思議な雰囲気の人だなと思ったら案の定、老人の姿は院内の誰にも見えないようだった。
話し声が聞こえない、触れることも出来ない。
つまり老人は、司書なのだ。
屋上には誰もいなかった。
青空の下、
「えっと……
「ええ、そうですな」
「世羅の……ってことで、よろしいんで?」
「ええ、そうですな」
「そりゃまたずいぶんと……」
「のんびりした話で、すいませんな」
「え、いや……俺はそんなこと……」
ほっほっ、服部さんは皺がれた声で笑った。
「いいんですよ、お若い方。そう気を使わんで。もっと楽にしてくださいな。たしかにその通りではあるんですよ。わたしたち司書は、物語の皆さんよりは、よっぽどのんびり出来とるんです」
「はあ……」
自分自身の物語を終えた経験のせいなのだろうか。
そういえばマリーさんも、見た目のわりには隠居老人みたいな雰囲気あるもんな。
「まあそれぐらいでなくてはね。とても務まりゃしませんのよ。物語、物語を失った作者、作者の周りの人のことまでケアしなければならんでしょう。だからのんびり、まったりね。わたしらはそんな風に出来とるんです」
「ケア……ですか……」
マリーさんを失ってからの真理の様子を頭に思い描いた──あのひどい状態の彼女もケアされていたはずなのだが、あまり効果があったようには思えないけれど。
「ケアの期間はいつまでなのかとか、聞いてもいいですか……?」
「三日三晩」
「それぐらいで……ケア出来るものなんでしょうか? 作者にとっての物語。おそらくは人生で一番大切なものを失った人物のケアが、その程度の期間で出来るもんなんでしょうか」
「難しいでしょうなあ。出来ないかもしれません」
「難しいって……」
あまりにあっさりとした服部さんの物言いに呆れていると、
「そんな簡単に出来るもんではございませんよ。何度経験しても難しい。どれだけ身を粉にしても、心を砕いてみても、人ひとりを動かすことなんて、なかなかなかなか」
「……何度も?」
服部さんは、過去を懐かしむように目を閉じた。
「明治の初めの生まれでございます。長い長い徳川さんの治世が終わって、世の中がばたばたと移り変わっていきました。わたしは教員として職を奉じました。寺子屋から尋常小学校へ、国民学校へ。油からガスへ、石油へ。便利でハイカラなご時世になっていくのをこの目で見てまいりました。……色んな生徒がおりましたよ。頭のいいやつ、はしっこいやつ、てんでバカなやつ、どうしようもない悪たれ。いろんなのがおりました。物語となり、作者を失い、司書として
「……」
「世羅の嬢ちゃんは、なかなかに強情な娘でしてな……」
寂しげに、服部さんはほほ笑む。
「わかっておったでしょうよ。霧の嬢ちゃんが復讐など望んでおらんことも。総合格闘技……とか言いましたかな。あのドタバタしたのを習い覚えてる時も、無駄な努力を感じておったことでしょうよ。この先を突き詰めても何もない。そんなことは重々承知で……でも、やめるわけにはいかんのですよ」
「……」
「ダメだとわかっていても果たさなければならない。間違っていてもなさなければならない。そういう時があるんですよ。あんた……あんたも教員なんでしたっけ。名を、なんと言いましたかな?」
「新堂新……です」
「新堂教員。そういった覚え、ありませんか?」
「……あります」
真理とマリーさんの行き違い。
トワコさんと霧の行き違い。
世羅の俺への執着。
あの戦い──
俺には何も、止められなかった。
俺には誰も、止められなかった。
嫌というほど、覚えがある。
──ねえ、もうやめてあげてよ! もう解放してあげてよ! 物語を、あなたの復讐の道具にしないでよ!
──わたしは悩んでた! 自分の存在こそが新の癌なんじゃないかって! いっそいないほうがいいんじゃないかって!
──新が好きなの! 大好きなの! 物語だからじゃなくって! 設定だからとかじゃなくって! 芯から好きなの! 好きになっちゃったの! トワコさんじゃなくって! 三条永遠子として好きになったの!
トワコさんの台詞を思い出した。
叫ぶように。
吼えるように。
彼女が語ったいくつものこと。
「……何と言っても、あんたたちはまだ若い」
服部さんは、凪いだ湖面のような目でわたしを見た。
「これから何度も挫折することでしょう。だけどその挫折を受け入れなさい。その都度どん底まで落ち込むんでなく、皆で寄り添い、支え合いなさい」
服部さんはステッキを手に取ると、トンと軽く屋上をつついた。
ふわりと、何かが下から湧きあがってきた。
それはシャボン玉に似ていた。
透明で弾力に富んだ、丸い球体。
それが無数に立ち上ってきた。
「これは……?」
「思い出、ですよ」と服部さん。
「わたしが教えた生徒たち。その日々の記憶──」
シャボン玉の中に、無数の映像が詰まっていた。
ちょんまげを結った男の子が泣いていた。着物に身を包んだ女の子が微笑んでいた。軍服を着た若者が敬礼していた。ボロボロの服を着込んだ子供たちが大笑いしていた──その時代の、その時々の、様々な子供たちの画像がそこここで弾けた。
「……くだらん能力でしょう。戦う力じゃない。作者の危機を守ることが出来ない。世羅の嬢ちゃんを思いとどまらせることすらも出来んかった」
自嘲するように、服部さんはほほ笑む。
何十人、何百人、何千人の子供たちの映像に、俺の目は釘付けになった。
「……全員のこと、覚えてるんですか?」
「そりゃそうでしょう。教員ですもの。それくらいしか、わたしに取り柄はござんせん」
画像は次々と切り替わり移り変わり、最後に世羅の像を結んだ。
まだ小さい頃だ。中学生になったばかりか、新調したセーラー服がまだまだ大きくてぶかぶかで、表情もあどけなくて……。
だけどそう──この映像があるということは、すでに服部さんは司書として世羅についていたのだ。つまり世羅は霧ちゃんと共に在って、俺への憎悪を育てていたはずだ。
「……っ」
俺は息を飲んだ。
なんと陽気に笑うのだろう。なんと澄んだ目で語るのだろう。走り踊り、全身で生命を謳歌していた──この時の世羅は、こんなにも屈託のない少女だった。
世羅と共に成長していく霧は、やはり幼げで、どこか病的な女の子だったけど、世羅へ向ける目だけはすごく優しかった。
ふたりはとても、仲良しだった。
霧はとても、幸せそうだった。
「……身代わりだろうがね。愛しいには変わらんのですよ。虚しくてもね、癒されはするんですよ。たとえいっときのことであれ。それはきっと、身代わり自身も」
服部さんはぼそりとつぶやき、シャボン玉をつつき、再び瞑目した。
つつかれたシャボン玉は自ら意志を持つように宙を舞い、青い空へと舞い上がっていった。
目を閉じたまま、服部さんは俺に呼びかけた。
「新堂教員。あんたもまあ、背負いこむ
「掟……破り……?」
「おや、ご存知ない? そいつは驚きましたな。あんたの物語はね。トワコさんはね。あの子は……」
今日、世界図書館へ連行される予定なんです──
服部さんはそう言った。
~~~服部老人~~~
「おやおやまあまあ……」
勢いよく屋上を飛び出していった新堂教員を、わたしはまぶしい気持ちで見送りました。
「ずいぶんとまっしぐらに駆けて行ったもので……。まあそれも、若さというものですかね……」
わたしはひとりごちました。
「けっこう、出立までには時間があるんですがね。そこまで教えてさしあげはしませんでしたど……」
内心ぺろりと、舌を出しました。
空の彼方へ目をやります。
遠く飛び去るシャボン玉を見送ります。
ねえ、新堂教員。
教える暇もありませんでしたがね、これらの向かう先は決まってるんですよ。
かつてわたしが教えた生徒たちのもとへ。
彼らが、彼女らが人生に行き詰った時、何か指標が欲しいと思った時、教えて導いてあげるために。
遥かな過去が、過ぎ去りし日々が、共に過ごした時が。過ちのように見えたそれらがすべて、決して無駄ではなかったことを教えてあげるために。
──シャボン玉飛んだ。屋根まで飛んだ。
──屋根まで飛んで、壊れて消えた。
自然と、歌が口をつきました。
野口雨情のシャボン玉。
在りし日を物語る、包み運ぶ、魔法の球体の歌。
──シャボン玉消えた、飛ばずに消えた。
──産まれてすぐに、壊れて消えた。
頑固で意固地な、あの子のもとに届きますよう。
あの子が道を違えず、すくすくと育ちますよう。
わたしは心をこめて歌いました。
ねえ、新堂教員。
あんたにあとは、任せましたよ。
わたしには出来なかったこと。
やりたくても、果たせなかったこと。
……迷惑かもしれませんがね。
それでもあんたは、生きてるわけですし。
それに何より、わたしたちは教員なんですから、ね。
おや……もう、お時間のようで。
わたしは目を細め、まばゆい空を仰ぎました。
なぁに、たいしたことじゃござんせん。
いつものことでございます。
──風、風、吹くな、シャボン玉飛ばそ。
教員というのはね。
唱歌を別れの挨拶として。
いずこかへと、去るものでございます。
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