第33話「破綻」
~~~トワコさん~~~
「やめろ! ──もうやめてくれ!」
新が叫んだ。
手を拡げて、わたしと霧ちゃんの間に割り込んだ。
「頼む! トワコさん! もうやめてくれ! 霧も! ……もういいだろう! いいかげんにしてくれ! 頼むから、これ以上誰も傷つけないでくれ!」
新は霧ちゃんの前に立ちはだかった。
「ええ……? お兄ちゃーん?」
霧ちゃんはわけがわからないという風に首を傾げた。
「どうしよ……? 舞子ちゃん?」
世羅と新を交互に見て、どうしたらいいか悩んでいるようだった。
「霧……っ」
新は迷わず、霧ちゃんを抱きしめた。
「ふぇえええ……⁉」
霧ちゃんの顔に動揺が広がった。
「……ごめんな。俺が悪かった。おまえをひとりにして、自分だけの世界に没入して……。おまえがそんなに苦しんでるとは知らなかった。あの時の俺はただ、自分のことだけしか考えてなくて……。ただ逃げてたんだ……。お兄ちゃんだからって何かをさせられるのが嫌だった。生まれ順だけで損してるみたいなのが嫌だった。お兄ちゃんだから……お兄ちゃんのくせに……っ。決めつけられるのが嫌だった。だからちょっと、ほんのちょっと……逃げる場所が欲しくて……。だからトワコさんを創った……」
「おにい……ちゃん?」
霧ちゃんは戸惑いながら、でも新を突き放そうとはしなかった。
ぎこちない動きで、背に手を回した。
「……でもさ。勘違いしないでくれよ? おまえのことをどうでもいいと思っていたわけじゃないんだ。この世でたったひとりの、大切な妹だ。でも、あの時の俺は子供で……どうしようもないバカで……。おまえのことを思っていながら、きちんと気持ちを表せなかった。俺のはっきりしない態度が、おまえを不安にさせた。その結果があの火事で……。俺は……夢にも思わなかったんだ。林間学校の日の朝以降会えなくなるなんて、そんなの……想像もできなかった……っ」
はあぁ……っ、新の吐く息が震えた。
「後悔しか出てこねえよ……自責の念しか出てこねえよ……どうお詫びしていいのかわかんねえよ……。なあ霧……」
新は霧ちゃんの汚れた頬を自らの袖で拭った。
優しく柔らかく、玉でも磨くみたいに拭いてあげた。
「……お兄……ちゃん?」
霧ちゃんは目元と口元を歪ませた。怒っているのか、笑っているのか、泣いているのかわからない。複雑な感情の入り混じったような顔をしてた。
「霧……大きくなったな。綺麗になった。お兄ちゃん、びっくりしちゃったよ」
言うまでもないことだが、霧ちゃんは泥だらけだった。
体中傷だらけで、足を引き摺ってて。服もところどころ擦り切れていて、とにかくひどい状態だった。
かといってお世辞でもないのだ。
新は本当にそう思って言っていた。
紛れもない慈愛の瞳で、最愛の妹を見る目で、霧ちゃんを見てた。
「そうだよな……おまえは昔から、可愛い可愛いってみんなに褒められてたもんな。将来はきっと美人さんになるねーってさ。はは、今だから言うけどさ、お兄ちゃんにとっても、おまえは自慢の妹だったんだぜ? なあ、霧。……あ、そうだ。これを言うのを忘れてた」
新は恥ずかしそうに頭をかいた。
「ただいま……霧。お兄ちゃん、今帰ったよ……」
それはなんでもない言葉だった。
ただの帰宅の挨拶だった。
だけどその瞬間──魔法の呪文でも聞いたかのように。
明らかに、霧ちゃんの様子が変わった。
「お……兄ぃ……ちゃ……?」
声を震わせた。
しゃくりあげるように喉を動かした。
胸の奥から何らかの感情がこみあげてきている。それがありありと見て取れた。
「──霧ちゃん!」
焦ったように、世羅が叫んだ。
「そんなやつの言うこと聞かなくていいよ! どうせまた、耳に心地のいい言葉を選んでるだけなんだから!」
「舞子……ちゃん……?」
霧ちゃんが、頭痛でもこらえるように顔をしかめた。
「考えてもみなよ! そいつが今までしてきたことを! 霧ちゃんを傷つけて! 追い込んで! 死んじゃったあとも逃げて! 忘れて! 他の女のことばかり見て! 今さらでしょ⁉ ふざけんなでしょ⁉ まったくどの
「うううぅ……⁉」
霧ちゃんが新を突き放した。逃れるように離れ、痛みに耐えかねたようにうずくまった。
「痛い……痛いよう……っ」
「霧……?」
「──霧ちゃん!」
新の声に被せるように、世羅が発した。
「そんなやつの言うこと聞かなくていいよ! そいつがかける言葉も、優しさも! 全部全部! 嘘なんだから! トワコさんを守ろうとして、情に訴えてるだけなんだから!」
「嘘……? 嘘なの……?」
「そうよ! 今さら迷わないでよ! 霧ちゃん! トワコさんを殺すのよ! 壊して! 燃やして! そうすれば……すべてが終わるんだよ!」
「やめてくれ霧! もう誰も傷つけないでくれ!」
「うるさいよ! 黙れよシン兄ぃ!」
「世羅……! 頼むよ!」
「うるさい! 霧ちゃん、いいからやっちゃえ!」
「うう……ううううっ」
愛するふたりに挟まれて。板挟みになって。
霧ちゃんは、しゃがみこんで頭を抱えていた。
震えて、泣いていた。
「やめてよう……。壊れちゃうよう……。霧……霧……っ、バラバラになっちゃうよう……」
わたしの足は、自然に動いた。
「──やめてよ!」
わたしは世羅と霧ちゃんの間に割って入った。
「やめなさいよ! 昔の話でしょ⁉ 恨んでたのも、憎んでたのも! 今の霧ちゃんは、本当にそんなことを望んでるの⁉ 亡くなって、骨になってお墓の中にいて! 彼女が今なにを考えてるのか、あなたにわかるの⁉ ただの想像でしょ⁉ ただの妄想でしょ⁉ 今の霧ちゃんがこんな姿をしてるのも! 新を殴ろうとしたのも! わたしを殺そうとしたのも! 全部全部……あなたが考えたことじゃない! あなたが霧ちゃんをこんな風にしたんじゃない!」
言葉は勝手に口をついた。
なぜかはわからない。どうしてかは説明できない。
だけどわたしは霧ちゃんを庇おうと思った。
命を賭してまで殺そうと思っていた相手が、打ちひしがれている。
ただそれだけの話なのに、放っておくことができなかった。
「霧ちゃんの姿を見なさいよ! こんなに苦しんでるじゃない! 新が好きで! あなたが好きで! なのにあなたが新を貶すから! 嘘つき呼ばわりするから! 命令と設定に矛盾が生じてるのよ! 心が、体が、ぎしぎし軋んでるのよ! これって死ぬほど痛いんだから! ねえ、もうやめてあげてよ! もう解放してあげてよ! 物語を、あなたの復讐の道具にしないでよ!」
「トワコさん……」
新の声。愛しい声──
「わたしは悩んでた! 自分の存在こそが新の癌なんじゃないかって! いっそいないほうがいいんじゃないかって! 霧ちゃんだって同じなんじゃないの⁉ 世羅が自分自身の人生をおくれていない! 文芸部に関わる人をいじめて! 辞めさせて! ついには廃部にまで追い込む! 大切な青春を、復讐のためだけに浪費する! そんなのむなしいじゃない! そんなの悲しいじゃない! いっそ自分がいなければって思うのよ! 思っちゃうのよ! わたしたちは……! あなたたちのことが……!」
「うあああああああぁああああああああああああぁああああああー!」
今までで一番大きい声だった。
霧ちゃんは天に向かって吼えたてた。
「うるさいよ! どいつもこいつもこいつもどいつも!」
「霧……?」
「霧ちゃん……?」
「霧のことを勝手に決めないでよ! 霧は霧だよ! 他の誰でもないんだよ! あれこれ指図しないでよ! 放っておいてよ! お兄ちゃんは霧のもので! 霧はお兄ちゃんのもので! 他には何もいらない! 舞子ちゃんも! お姉ちゃんも! みんなみんな大っ嫌い! あんたらなんか、全員、いなくなっちゃえばいいんだ!」
「──ね、お兄ちゃん?」
新を見る霧ちゃんの目に、炎の色が燃えている。
攻撃衝動を表す鮮紅色ではない。
もっとずっと熱い、純粋な、青い炎──
「
総毛立った。
物語の破滅の行き先は、
作者の求めに応じられなかった。
設定を無視し続けた。
矛盾が積み重なると、自我の崩壊を引き起こすことがある。
そうなった物語には、もう手がつけられない。
この世のすべてを敵と見なし、破壊衝動のままに暴れ回る。
愛する人すら、その手からは逃れられない。
「死んで? ね、死のうよお兄ちゃん。霧と一緒にさ、あっちの世界で一緒に暮らそう? そしたら楽になれるんだよ。舞子ちゃんに振り回されずに済むし、お姉ちゃんに殴られずに済む。ね、霧はさ。痛いのも悲しいのももうたくさん。熱いのも苦しいのもやなんだよ。ね? いいよね? お兄ちゃん。死んでよ。本気で悪いと思ってるなら、霧と一緒に死んでちょうだい?」
泣き笑いみたいな顔で、霧ちゃんは新の首に手をかけた。
「霧……」
新は逃げなかった。
躱そうともしなかった。
ただ皮肉に顔を歪め、霧ちゃんを受け入れた。
「嘘……なんで……っ?」
突然の霧ちゃんの破綻に、世羅は呆然と立ち尽くしている。
「やめなさい!」
わたしは慌てて霧ちゃんの側頭部に掌底を入れた。
だが止まらなかった。
脇腹への鉤突き。レバーブロー。鎖骨への鉄槌打ち。
どれも決め手にならなかった。
膝を壊されているせいだ。すべての当て身が威力を持たない。手打ちにしかなっていない。
「邪魔……しないでよ……。霧はこれから……幸せになるんだから……」
霧ちゃんはぎりぎりと手に力をこめ、あくまで新の息の根を止めようとする。
「大丈夫だよ? すぐに霧もあとを追うからね? 全然寂しくなんかないんだよ? だって今度こそ……霧たちはずっと……一緒で……」
「バカ……! やめてよ! やめなさいよ!」
わたしは必死になって攻撃を加えた。
水月、人中、脾臓、心臓──あらゆる急所という急所に当て身を加えた。それでも霧ちゃんは止まらない。
根付いた霧ちゃんを投げ飛ばすには、あまりに膂力の差がありすぎた。新の首を絞めることだけに全力を傾けている彼女に、付け入る隙がない。
「が……あっ!」
新が苦しそうに最後の息を吐き出した。
涙混じりの目でわたしを見た。
「ごめ……ト……ワ……」
言葉になっていなかった。ただ謝罪していることだけが伝わってきた。
「どくのじゃ! わらわに任せろ!」
遅れてやって来たマリーさんが、隠し剣を抜いて駆けてきた。
切っ先を、肋骨の間に突き込んだ。
──だけど止まらない。
「やめなさい! 命令よ!」
言葉とは裏腹、悲鳴のような声で世羅が叫んだ。
「やめてよ! 殺さないでよ! 脅すだけでいいんだってば! 懲らしめるだけでいいんだってば! トワコさんさえいなくなれば、すべて解決するから! シン兄ぃは昔のシン兄ぃに戻るから! だからやめてよ! ねえ霧ちゃん! ダメだよ! ダメなんだってば! シン兄ぃは……! あたしの……初恋の人で……! 今でも好きで……! わかってるでしょ⁉ わかってたでしょ⁉ ごめん……ごめんってば! 利用して悪かったよ! 謝るから……! 何度でも謝るから……! だからねえ……!」
世羅の告白も、懺悔も、霧ちゃんを止めるには至らない。
霧ちゃんは頑なに、新の首を絞め続ける。
「──やめてよ! お願いよ!」
わたしは叫んだ。
「新を殺さないで! なんでもするから! 死ねというなら死ぬから! 出て行けというなら行くから! わたしのことなんかどうでもいいの! ごめんなさい! 許してよ! 新はわたしのすべてなのよ!」
すでに新は目を閉じている。鬱血したような青い顔で、全身から力が抜けている。
わたしは全力で霧ちゃんにしがみついた。全体重をかけて、もてるあらゆる技術を使って、新から引き離そうと試みた。
でも動かなかった。がっしりと、
「──新が好きなの! 大好きなの! 物語だからじゃなくって! 設定だからとかじゃなくって! 芯から好きなの! 好きになっちゃったの! トワコさんじゃなくって! 三条永遠子として好きになったの! 何言ってるのかわからないって⁉ わたしにもわかんないわよ! ……でもそうなの! そうとしか言いようがないの! 新のことを考えると、不思議な気分になるの! 切ない気分になるの! もどかしくてどうしようもなくて……でも幸せなの! 生きててよかったって、心の底から思えるの! ねえ、お願い! あなたも物語ならわかるでしょ⁉ そういう気持ち! 理屈じゃないのよ! ここまでしておいて何を言ってるのかって⁉ そうよね、わたしもそう思う! でも必死なのよ! わたしは今、必死なの! ……お願い! お願いだから……っ、わたしの好きな人を……っ、殺さないでっ!」
──い。
「……え?」
誰かが言った。
──らい。
「世羅……?」
世羅が顔を両手で覆っている。
──か、嫌い。
指の隙間から、大量の涙が零れてた。
地面に膝をつき、しゃくりあげるようにしながら──でもはっきりと、世羅はこうつぶやいた。
──霧ちゃんなんか、大嫌い。
「あ……」
霧ちゃんは新を解放した。
ゆっくりと後ずさって、錆びついたようなぎこちない動きで世羅を見た。
その目からはすでに、青い炎は消えていた。
「ああ……」
尻もちをついて、自分の手のひらを見つめた。
散り散りになっていく。細胞ひとつひとつの結合が崩れ、ただの黒い塵になって、雨上がりの風に吹かれて散っていく。
「舞子ちゃん……」
霧ちゃんの顔に驚きはなかった。静かな諦観だけがあった。
己の命が失われゆく様を眺めながら、霧ちゃんは気が抜けたように座り込んでいた。
「──うわあああああああっ!」
世羅が霧ちゃんに跳びついた。
抱き寄せようとする端から霧ちゃんの体が崩れていくことにショックを受け、絶叫した。
「いやあああああああああああああっ⁉」
それでも崩壊は止まらなかった。霧ちゃんはただ掟を厳粛に受け止め、無くなっていく。
掟──作者の愛を失えば、物語は生きていけない。
「──嘘よ! ごめん! 嘘なんだってば! ただ止めたかっただけなの! 大好きな霧ちゃんに、人殺しをさせたくなかったの! 大好きなシン兄ぃを殺してほしくなかったの! 消えて欲しいなんて思ってなかったの! ──知ってる! 霧ちゃんは最初からシン兄ぃを恨んでなんかいなかった! あたしが無理やりそう仕向けただけ! 自分で納得したかっただけ! ──本当はずっと悔やんでた! あの時どうして霧ちゃんを止められなかったんだろうって! もっと本気で止めていれば、霧ちゃんは死ななかったかもしれないのにって! ……だからやめてよ! また死ぬなんてやめてよ! 悪いのはずっとずっと……このあたしなんだから! 殺すならあたしを殺してよ! お願い! 誰かっ、誰かあぁ──!」
だけどその声は届かなかった。思いは実らなかった。
霧ちゃんは運命に従い、塵となって消えた。
霧ちゃんは、最後に何事かをつぶやいた。
誰にも聞き取れないようなか細い声。
でもその形はたぶん……。
──ごめんね、バイバイ。
そう言ってた──
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