第30話「そこにはもうない」

 ~~~新堂新しんどうあらた~~~




 閑静な住宅街の端っこの、ちょうど一軒分が空地になっていた。

 土地管理会社の看板と、雑草が生い茂っている他は何もなかった。

 門も壁も柱も、家の名残りをとどめるものは何もなかった。


 だけど何かが強烈に、俺のシナプスを刺激した。

 ここにあったはずの家の形、住んでいた人たちの顔、声──すべて脳裏に思い描くことができた。

 まるで最近あった出来事のように、匂いや温度、感触すらも正確に思い出すことができた。

 それらが怒涛のように、洪水のようにフラッシュバックした。俺の身を責めさいなんだ。


「おーい、新。今日も家で霧の面倒、見てやってくれよー?」

「もう、お父さんっ。言わなくてもわかってるわよ。この子は頭のいい子なんだから。ね? 新。いい子だもんね、新は。なんでも出来るもんね?」

「お兄ちゃん! 霧ねー、霧はねー。大きくなったらお兄ちゃんの嫁さんになるのー! ほら指切りげーんまんっ、嘘ついたら針千本飲ーますっ♪」



「あ……ああ……ああ……っ?」


 うめき声が口から漏れる。

 うまく呼吸ができない。

 苦しくて胸をかきむしった。


 たまらなくなって走り出した。

 方角の見当もつけずに突っ走った。


 呼吸はやがて続かなくなって、身を折るようにしてしゃがみこんだ。

 臑が、水溜りに浸かった。


 ──雨が降ってる。


 そのことに、今さらながら気がついた。

 どこをどうしてこうなったのか覚えていない。

 なんのためにここにいるのか覚えていない。

 あたりはすっかり夜で、服はぐっしょりと濡れていた。

 ジーンズが太腿に張り付いているのが気持ち悪かった。




「新……⁉」


 傘を放り出すようにして、トワコさんが駆け寄ってきた。


「やっと見つけた……! ホントにここにいた……!」


 抱きついてきた。


「なんで……こんな……っ?」


 俺の体がすっかり濡れそぼっていることに驚いた。


「ト……ワコさ……?」


「傘もささずに何やってるのよ! もう! 風邪引いちゃうじゃない!」


「ああうん……ごめん……」


 トワコさんに肩を貸してもらって立ち上がった。


「どうして……ここが……?」


「ヒゲさんが教えてくれたの……。新の家を中心にして、あとは手分けして探そうって……。たぶん、その辺にいると思うわ」


 穏やかな表情で、トワコさんは答えた。


「そっか……。さっすがヒゲさん……」


「うん、そうね……ヒゲさんはさすがよね……。ずっと新のことを待ってたんだもん……」


 そう言って、トワコさんは唇を噛みしめた。


 体が冷え切っていて、細かく全身が震えていて、もう歩くことは出来そうになかった。 

 ヒゲさんに連絡をとって迎えに来てもらうことにした。

 到着するまでの間、近くの公園で休んでた。

 屋根のある東屋のベンチに座らされた。


「新はここに座ってて。わたし、何か温かいもの買ってくるから……」


 トワコさんが自販機に走って行こうとするのを、手を掴んで引き止めた。


「ちょっとなんでっ……ふぁああああ⁉」


 トワコさんをぐいと引っぱった。柔らかくいい匂いのする肉体が、倒れ込むように俺の胸に飛び込んできた。

 長い髪に手を差し入れ、もう片方は腰に当てて引き寄せた。


「ふぅぁああああああああ⁉」


 トワコさんが変な声を出した。


「この時期に温かい飲み物とか売ってないよ。コンビニもなさそうだし、このままこうしてたほうが……さ」


「うううううううう……っ⁉ そ、そう⁉ そんなものなの⁉」


 動揺しているのか、彼女は激しく上擦った声を出した。


「じゃ、じゃあしょうがないわよね⁉ そうね、合法よね⁉ 誰にも責められる筋合いはないわよね⁉」


 誰に対してのなんの弁解なのかわからないが、トワコさんはしきりに喋った。


「それにほら、よくあるものね⁉ 山小屋でふたり、裸で体を温め合うみたいな……はっ……はだっ……はだか⁉」


 トワコさんの体は燃えるように熱い。


「ち、違うの! そういうことを言おうとしてるんじゃないの! 別に意識してるとかそういうわけじゃなくて!」


 わたわたわたわた、慌てるトワコさんは可愛い。


「……ありがとうトワコさん。迎えに来てくれて」 


「そ、そそそそそ、そんなの当たり前じゃない! 決まってるでしょ⁉ わ、わわわわたしと新の仲だもの! あ……新がピンチに陥ってたら、たとえこの世にどこにいたって、わたしは探し当てるわよ!」


「……ありがとう。助けてくれて」


 感謝の念をこめ、力いっぱい抱きしめた。


「──!」


 トワコさんはピィンと体を硬直させ、一瞬呼吸を止めた。

 ゆっくりとゆっくりと、壊れ物でも扱ってるみたいに息を吐き出した。


「だめ……鼻血出そう……」


 トワコさんは蚊の鳴くような声でつぶやき、俺の腕の中で力を抜いて大人しくなった。


 そうしてどれぐらいの間抱き合っていただろうか。

 互いの熱を交換して体が温まってきたところで、俺はトワコさんを解放した。

 トワコさんは顔を赤らめながら身を離し、東屋のベンチの端と端に別れて座った。

 自らの体を抱きしめるようにしながら、ちらちらとこちらに視線を送ってくる。


「その……誤解の無いように言っておくけど。……ちょっと今のわたし、変だったじゃない? でもそれは緊張してただけだから……。こういうの……わたし、嫌いじゃないから……。むしろその……。こ、この前のことだってね? ほら、あのおでこへの……あの時ね? あれだって、全然嫌なんかじゃなかったの。わたしはとても嬉しくて……その……」


「──思い出したんだ」


 トワコさんは、はっと緊張したような顔になった。


「すべて、全部、思い出した。あそこにあったのは俺の家だ。父さんと母さんと、霧。犬のジュリー。俺も含めて4人と1匹。みんなであそこに住んでた」


「新……」


 トワコさんは気づかわしげな目で俺を見た。

 俺はゆっくりと立ち上がり、拳を握った。


「大丈夫。俺はもう逃げない。なあ、世羅。待たせたな……」


 いつの間にか雨は上がっていた。

 夜の公園に、3人揃った。

 俺とトワコさん、そして世羅。


「……ずいぶん時間がかかったね」


 世羅はフード付きのウインドブレーカー上下にスニーカーという、ジョギング途中みたいな恰好をしてた。

 外灯の真下に立ち、フードの下から強い目をこちらに向けてくる。


「お帰り、といったほうがいいのかな? ねえ、シンぃ」


「……ただいま、世羅」


 ふん、世羅は鼻で笑った。

 フードを脱ぎ、首を横に振った。

 濡れたツインテールが、重たげに左右に揺れた。


「簡単に言うじゃない。全部思い出しておいて、よく平気でそんなことが言えるよね」


「そうだな……その通りだと思う。ごめん。謝るよ。でも簡単に言ってるつもりはないんだ。簡単に許してもらえるとも思ってなくて。でも……」


「……許す?」


 世羅は憤然とした様子で俺に近づいてきた。

 俺の胸倉を掴み、睨みつけてくる。


「許すわけないでしょ⁉ あんた、あれだけのことをしておいて……! あげく忘れて! 東京なんかに逃げやがって! ほとぼりが冷めた頃に戻ってきて……ごめん⁉ 忘れてた⁉ バカ言わないでよ!」


 世羅の怒りは止まらない。


「時間が経てば許すと思った⁉ ちょっとは薄らいでるだろうとでも思った⁉ お生憎様! 昨日のことのように覚えてるわよ! あんたとそこの女のせいでっ、霧ちゃんは死んだんだ!」


「わたしの……?」


「世羅……違う。それは俺が……」


 突然矛先が自分に向いたことに驚き、トワコさんは棒立になった。


「霧ちゃんはいつも言ってたじゃない! 霧だけのお兄ちゃんだからねって! 学校終わったらまっすぐ帰って来てねって! 他の女には目もくれないでねって! いつもいつも聞かされてたでしょ⁉ なのになんであんたは……! 何が足りなくて、あんなもの・ ・ ・ ・ ・を創り出したのよ!」


 世羅はトワコさんを指さす。


「妄想の塊! リビドーの具現化! 気持ち悪いったらないわ! 霧ちゃんが知らないとでも思った⁉ 隠れてこそこそ書いてれば見つからないとでも思ったの⁉」


「あいつ……知ってたのか……日記のこと……」


 俺は呆然とつぶやいた。


「知ってたわよ! その上で言ってたわ! 燃やしてやるって! あんたが家にいない時を見計らってって!」


 ……林間学校の夜、俺の家は燃えた。

 家族全員、助からなかった。


「火を使うのは危ないからやめなって言ったんだ! あたしたちは子供なんだから、万が一があったら死んじゃうよって! でも霧ちゃんはやめてくれなくて……たぶん、そのまま……!」


 世羅の目から一筋の涙がこぼれた。


「あんたたちが……霧ちゃんを殺した!」


「わたしのせいで死んだ……?」


 ぽつりと、トワコさんがつぶやいた。


「わたしのせいで霧ちゃんはいなくなった……?」


「トワコさん。違う……っ」


 俺は世羅の手を振り切ると、トワコさんのところへ歩み寄った。


「違う……! きみは何も悪くない!」


「違わないわよ……」


 俺の説得もむなしく、トワコさんは焦点の合わない目でつぶやきつづける。


「わたしが新の時間を食いつぶした。わたしが新の関心を独り占めにした。結果として霧ちゃんは死んだ。わたしがいなければ何も起きなかった。みんな幸せでいられた……」


 細い肩が震え出した。 


「そうよ……わたし、ずっと疑問だったの。わたしがいることで、新は本当に幸せなれるんだろうかって。いつだって自分のことしか言わない。わたしを見て。わたしに触れて。力いっぱい抱きしめて。口を開けば要求ばかり。そりゃあめんどくさい女だと思うわよね。いま一歩、踏み込んできてくれないのも当たり前よ……」


 自嘲するように、彼女は笑う。


「簡単な話よ。わたしがいなければよかったのよ。ずっとあの日記の中にいれば、文字列や描線のままでいれば、新にこんな思いをさせなかった……」


「……そんなことない。トワコさん、聞いてくれ……」 


 トワコさんの肩を抱いた。胸元に抱え込むように頭を引き寄せた。


「新は優しいね……」


 幸せそうに俺の胸に頭を寄せるトワコさん。

 だけど自虐は止まらない。


「でもね、新。素直にわたしのこと、嫌いって言ってくれていいのよ? いなくなれって言ってくれてていいのよ? そうしたら、わたしは消えられるから。新も楽になれるから……」


「……出来るわけないだろ! そんなこと!」




「あーあ。やってらんない」


 目の端に浮いた涙を拭うと、世羅は憎々しげに吐き捨てた。


「三文芝居、見てらんない。傷ついたフリして、苦しんだフリして誤魔化してるだけでしょ?」


「世羅……」


「シン兄ぃもさ。その女に騙されてるだけよ。ほだされちゃいけないよ。なんだかんだ言って、そいつがいなくなるわけないじゃない。それが存在意義なんだもん。手放せるわけないじゃない。リストカッターみたいなもんよ。死ぬ死ぬ詐欺。口ではなんだかんだ言って、いつまでもぬるま湯に浸かってたいのが本音でしょ? ぐずぐず言って、慰めてもらいたいだけなんでしょ? はっきりそう言いなよ」


「わたし……そんな……」


「──じゃあ消えなよ!」


 トワコさんの台詞をかき消すように、世羅が大声を上げた。


「そこまで言うなら消えればいいでしょ⁉ 悪いと思うならそうしなよ! シン兄ぃに頼らず、自分で勝手にどこかへ行けばいいじゃない! ……いや、ダメだね。消えたフリして一瞬だけ姿を消して、また戻って来る気なんでしょ? 他の街に家を借りて、あたしの見えないところで愛人みたいに囲われるつもりなんでしょ? あんたなんて、全然信用できない」


 世羅は何かの合図のように指を鳴らした。


「もうやめた。そいつの破綻ブレイクダウンを待つなんてまどろっこしいこと。やっぱり殺さなきゃダメなんだ。そしたらすべて解決するんだ。その女がいなくなって、文芸部も無くなって、シン兄ぃはまた、霧ちゃんだけのものになる……」


「何言ってるんだ、世羅……? 霧はもう……」


 世羅は憐れむように俺を見た。双眸に、鮮紅色の光が灯っている。


「シン兄ぃ。……いるんだよ。いたんだよ霧ちゃんは。ほら、ここにずっと──」


 世羅の体から生えるように、何かが出てきた。

 影……といえばイメージとしては正しいだろうか。黒い霧を凝縮したような人型の影。

 そいつが世羅から分離して動き出した。

 爪先から頭のてっぺんまで真っ黒。

 髪型と体型からすると、女の子だろうか。

 世羅と同い年ぐらいの女の子。

 霧が成長していたら、こうなっていたんじゃないかというシルエット……。


 どきりと心臓が跳ねた。


「おまえ……それは……」


もう一度・ ・ ・ ・、その女を殺して燃やす。今度こそ、徹底的に。……ね、霧ちゃん・ ・ ・ ・?」


 世羅は親しげに、影に向かって語りかけた。


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