第29話「あの夏の日からずっと」
~~~トワコさん~~~
……いつの間に梅雨に入っていたのだろうか。
車窓を流れ落ちる雨の雫を眺めながら、わたしはそんなことを考えた。
夜を間近に控えた空は暗く、生温かい雨がぼとぼとと降り落ちてくる。
部室での決闘が終わってからずっと、それは降りやもうとしない。
みんなで手分けしたにも関わらず、新は見つからなかった。
ヒゲさんにお願いして心当たりを聞いて、ついでに車も出してもらうことにした。
真田兄弟はそのまま部室に残って連絡待ち。
真理とマリーさんはアパートで待機。
わたしとヒゲさんだけが、新を探しに出ていた。
深緑色のSUVで、雨の中を疾駆する。
ヒゲさんは少し早めのクールビズで、半袖の開襟シャツを着ていた。
鍛え上げられた腕の筋肉で、シャツの袖が破けそうに見える。
ごつい指が、車のハンドルを苛立たし気に叩いている。
「ちっ……抜かったぜ……」
ヒゲさんが舌打ちした。
「まさかそんなことになってるとは思わなかった……。物語……? 司書……? 世界図書館……? ……ったく、なんだってんだよ……!」
「……」
わたしはヒゲさんにすべてを話した。
すべてを理解したうえで、新がいそうな場所を考えて欲しかったからだ。
一般人に自分たちの秘密を明かすことは、厳重なる処罰の対象となる……たとえそれでも。
「世羅と霧ちゃんが仲がいいのは知ってた。だからオレは新に文芸部を担当させて、ついでにあいつのあやふやな記憶をなんとかしようと思ったんだ。ちょっとした荒療治くらいのつもりでな……。それがこんな風に転んじまうとは……くそ!」
「……」
「……あ? ああ……霧ちゃんてのは、新の妹でな……」
ぽつりぽつりと、ヒゲさんは語り出した。
古傷を
「綺麗な女の子だったよ……髪が長くて、色が白くてなあ……。
頭もよくて運動神経もよくて優しくて、非の打ちどころのない女の子だった。
……でも男の趣味はちょっと悪くてな。
ダメな兄貴のことが好きで好きで……あのコはいつも、新堂の傍にいたよ。
弁当はきちんと食べたか、授業は眠らず受けてたか、誰かにイジメられちゃいないか。学校終わったら一緒に帰ろう?
……笑っちまうほど、いつもべったりさ。
高校の敷地に入ってきても、だぁれも注意なんかしなかったよ。
だってそこには、好意しかなかったんだ。お兄ちゃんが好き、大好き。あのコにはそれしかなかったんだ。誰が責められるよ。
だけど問題もあってなあ……。
霧ちゃんは、あまりに新堂のことが好きすぎたんだ。
自分がお兄ちゃんの太陽になる。お嫁さんになる。
自信を持ってそう誓ってたのにも関わらず、高校って環境には他の女の子がたくさんいすぎたんだ。
しかもどいつもこいつも大人びてて、新堂自身もなんせ、思春期のガキ真っ盛りだろ?
さすがの自信もなくなっちまった。
お兄ちゃんに近づく女はすべて敵。
そんな病をこじらせちまった霧ちゃんは、ある日事件を起こしたんだ。
同じクラスに、新堂とわりと親しくしていた女の子がいてな、こいつが新堂に話しかけた。
話が盛り上がって、女の子のほうからハグするみたいな格好になったんだ。
そこへ間の悪いことに、霧ちゃんが通りがかった。
……悪いタイミングってのは重なるもんでな。
男子は技術、女子は家庭科の教室から戻って来たとこだった。
霧ちゃんの手近の机の上には、男子が置きっぱなしにしてたカッターナイフがあってなあ……。
幸い、怪我は軽くで済んだ。
でっかい絆創膏で済む程度の傷だった。
女の子も翌日には登校してきたよ。
いいコでな……。
子供のお痛なんだから問題にはしないでくださいって、笑ってくれた。
……だけど霧ちゃんは、登校拒否になったんだ。
毎日家にいて、新堂の帰りを待つようになった。
両親が何を言っても聞こうとしない。
新堂が言ってもダメ。
反省がおかしなところに入っちまったんだろうな。
とにかくひたすら、病的なまでの熱心さで新堂を見てた。
寝る時ももちろん一緒。接着剤でくっつけたように傍にいた。
トイレが別になる程度のことですら、火がついたように泣き出した。
ずっとずっと……そんな生活を続けてて……」
──そして死んだ。
ヒゲさんの呼吸が、少し乱れた。
「林間学校の夜だった。蒸し暑い夏の日だった。新堂がいない日に火事が起きた。
全焼。全員死亡。新堂はひとりになった……。
事件直後の新堂は、そりゃあひどい落ち込みようでな。
何も喉を通らないし、寝ようとすらしないし……このまま即身仏になって家族の後を追うんじゃないかとすら思えた。
周りのみんなも辛抱強く面倒を見てはいたけど……それが慰めになってるようには見えなかった。
……だけどなあ。ある時を境に、あいつ……別人みたいに明るくなったんだよ。
元気よく挨拶して、もりもり食べて、遊んで……。
失ったものを取り戻すみたいに
みんなはこう思ってた。
新堂はわざと明るく振る舞おうとしてるんだって。
ひとりで気丈に生きようとしてるんだって。
──だけど違った。忘れてたんだ。
家が焼けたことは覚えてるのに、家族がいたことも覚えてるのに、肝心のディティールを覚えていない。
親父がどんな顔だったか、お袋がどんな顔だったか、妹がいたのかいないのか。
大切に想っていたすべてを忘れることで、あいつは危うい均衡を保ってた……」
極度のストレスを与えられた人間が起こす防衛反応のひとつだとか。
「卒業する前に、あいつはふらりといなくなった。ホテル暮らしをやめて東京の親戚のもとに身を寄せた。オレですら、それを知ったのは事後の話だった──」
新の家の前で、ヒゲさんは車を止めた。
新はいなかった。傘が一本、道に落ちてた。
わたしたちはふたり、手分けして周囲を探すことにした。
「……なあ、三条」
傘を拾ったわたしに、ヒゲさんが声をかけた。
「……オレはよ、後悔してんだ」
その表情は、いつになく険しい。
「あの時新堂を救えなかったこと。そのまま行かせちまったこと……。本当なら、追いかけるべきだった。追いかけて、真意を確かめるべきだった。それをしなかったのはオレの怠惰だ。怠惰で、惰弱だ」
ヒゲさんは眉をしかめ、ひたすら自分を責めた。
「恐かったんだ。力及ばないことが。オレの想像のつかないとこにあいつはいて……それがどうにも出来ないことが。だから、個人の家庭の事情、そんな都合のいい言い訳に飛びついた。みんなはオレのこと人情派の教師なんていうけどな、とんでもない話だ。
なあ三条。頼むよ。あいつは……新堂は、まだ帰って来ていないんだ。あの日から……あの夏の日からずっと、迷子のままなんだ……」
ヒゲさんはわたしに頭を下げて──
「頼む、あいつを……連れて帰ってくれ……」
血を吐くような声で、わたしに懇願した。
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