第28話「もうひとりいたんだよ!」

 ~~~新堂新しんどうあらた~~~




 悄然と部室を去った世羅のことが気になって、俺は慌てて後を追った。

 屋上への扉を開いたところで追いついた。

 このまま自殺でもしやしないかと不安になって、焦って手首を掴んだ。


「……おい、世羅!」


 振り向いた世羅は、暗い顔で俺を見上げた。


「なんだ。シンぃか……」


 弱々しい顔で笑った。

 向こう気の強い少女の面影は、今はどこにもない。


「……負け犬を笑いに来たの? 自分の得意な分野で挑んだにも関わらず、実は相手のほうが得意で圧倒されて。切羽詰まってあんな卑怯な真似してまで負けて。ざまあだって? いい気味だって? ……趣味悪いよ。シン兄ぃ」


「そんなことするわけないだろ! 教師が生徒を笑うなんて……!」


 世羅は一瞬驚いたように目を見開いて──すぐに、泣きそうな顔で笑った。


「教師が……生徒を……? うん……そう、そうだね……はははっ」


 屋上は事故防止のために高い金網で外周を覆われている。

 その金網にもたれかかり、世羅は笑った。


「……シン兄ぃ。本当に教師になったんだもんね。んで、本当に文芸部の顧問になったんだ。昔冗談で言ってた通り。ははっ……なんだか笑っちゃうね」


 本当に教師になった? 昔言ってた通り? やはり世羅は……。


「……あのさ、世羅。……その、やっぱり俺たち……昔、会ってるんだよな?」


 ポケットに入れてあった写真を取り出して、世羅に見せた。


「これ……おまえだろ?」


 それは古い写真だった。

 ガラクタだらけの部室を引っかき回して、ようやく見つけた一枚。


 場所は部室。何人かの若者が写っている。

 学際向けの部誌を作っている最中なのか、皆、真剣な顔で原稿に取り組んでいる。

 奥の方に、若かりし日の俺もいた。

 青白い顔なのは、たぶん睡眠不足だからだろう。

 傍らにユンケルを置いて、無理やり覚醒しながら作業を続けている。

 

 手前に女の子がふたりいた。

 どちらも、高校生には見えなかった。

 年の頃なら11歳か12歳ぐらいだろうか。

 片方はおそらく世羅だろう。

 色素の薄い髪をツインテールにした女の子。勝気な目元がそっくりだ。

 もうひとりの子と腕を組んで、楽し気に笑っている。


「おまえ……俺と知り合いだったんだな。だからひさしぶりって……だけど、どうして俺を破滅させるだなんて……。俺、おまえにいったい何かしたのか? もし俺が何か悪いことをしてて、それでおまえを悲しませたんだとしたら……」


「…………………………知り合い・ ・ ・ ・?」


 世羅は何かに打たれたような顔になった。

 棒立ちになって、目を見開いた。


「……まさかシン兄ぃ、覚えてないの?」


 ああ、そうか。

 先にそのことを話さないとな。


「俺……実は昔のことを覚えてないんだ。

 解離性健忘かいりせいけんぼうって、医者には言われてる。

 精神的苦痛のあまり、忘れてしまったんでしょうって。

 たぶん火事のせいなんだ。

 日常生活には支障をきたさないくらいのものではあるんだけどさ、特定の過去を思い出そうとしても出来ないんだ。

 俺の昔のこと。

 この街で暮らして、この学校に通ってて……その当時の記憶がさ。

 うっすらと曖昧な、輪郭だけになっちまってるんだ。

 人の名前は……まあなんとかってところだ。

 ヒゲさんとか、当時からいた先生の名前は覚えてる。

 同窓会にいった時も、なんとなく人の顔と名前は一致した。

 でも、一緒に何をしたかとか、どんな話をしたかとかはほとんど覚えてないんだ。

 あれほど通った文芸部のことですら、きちんと覚えてないんだ。

 こうして写真を見ても、いまいちでさ。

 ……ははっ、笑っちゃうよな?」


「……家のことは?」


「へ?」


「実家のことは……覚えてないの?」


 硬い口調で、世羅が聞いてきた。


「実家……?」


「今はどこに住んでるのよ」


「アパートだけど……だって実家は……」


「燃えたんでしょ⁉ 知ってるよ! だけど聞きたいのはそういうことじゃないんだよ!」


 世羅は爆発するように激しく叫んだ。

 震えるほどに強く拳を握った。


「どこにあるか覚えてる⁉ どんな人と暮らしてたか覚えてる⁉ あたしはそういうことを聞いてるんだよ!」


「え……え……?」


 世羅の剣幕にびびった俺は、必死に思い出そうとした。


「親父とお袋……はいたはずだ。平凡な男性と、平凡な女性と。小市民を絵に描いたような一家でさ、犬が一匹。あとは俺と……あと……あと……」


「……ちゃん……のことは?」


 世羅の声はくぐもっていて、よく聞き取れなかった。


「え?」


 聞き返すと、世羅は大きな声で言い直した。


きりちゃんのことは⁉」


 涙の溜まった目で俺を見た。


「まだ思い出せないの⁉ あれから何年経ったと思ってるの⁉ 精神的苦痛のあまり忘れた⁉ いったい何年痛がってるつもりよ! ねえシン兄ぃ! いいかげんにしてよ! 忘れていいことじゃないでしょ⁉ そんなに簡単なことじゃないでしょ⁉ あたしたち、ずっと一緒にいたじゃない! シン兄ぃと、あたしと! ──霧ちゃんと!」


 俺の腕を掴み、全身で訴えかけるように、世羅は叫んだ。


「き……り……?」


「思い出してよ! もうひとりいたんだよ! ねえ! 新堂霧ちゃんよ⁉ 他でもないシン兄ぃの妹じゃない! ブラコンまっしぐらの妹! 6つも離れてるお兄ちゃんのことが心配で、毎日毎日高校まで様子見に来てくれてた妹! あんなに仲良かったのに……ひどいよ! どうして忘れられるのよ! 辛かったから忘れた⁉ 悲しかったから忘れた⁉ そんなの……そんなの……! 霧ちゃんの痛みに比べたら、どの程度のものだったって言うんだよ!」


 ──ズキン。何者かに掴まれたかのように、こめかみが痛んだ。


 ゆらり……世羅の姿が二重にブレて見えた。


 ──ジジ……ジッ。


 頭の中をノイズのような不協和音にかき乱された。


「あ……あ……っ?」


 寒気がした。

 全身に力が入らなくなって、たまらずしゃがみこんだ。


 世羅が俺を見下ろしている。何か言ってる。

 だけど何を言っているのかわからない。頭に入って来ない。

 遠く離れた異星の言葉のようで、どうしても理解できない。


 ──光が見える。


 鮮紅色の炎が、世羅の瞳に灯っている。


 世羅自身が物語……?

 ……いや違う、何かがいる。世羅の中にもうひとりいる。そいつが俺を見てる。


「──そこにいるでしょ!? にっこり笑ってるじゃない! それ見てもまだ思い出せないの!?」


 その言葉だけが、はっきり聞こえた。


「え……?」


 いつの間にか握り締めていた写真に目を落とした。

 手前に写っているふたりの女の子。

 片方は世羅で、もう片方は……。


 髪の長い女の子。

 顔の綺麗な女の子。

 俺のことが大好きで、いつでも傍にいて……。

 そうだ、いつだったかせがまれて、額にキスしたことがあったっけ……。

 たしか……名前は……。


「き……り……?」


 






 しばらくしてから気がついた。

 場所は変わらず屋上。 

 世羅はすでにいなかった。


 うつぶせになって気絶していたらしい。

 変な体勢だったせいか、体の節々が痛い。


 スマホにはトワコさんからの何十回ものコールとメール。

 よほど心配されていたらしい。

 そりゃそうか。ふらりと部室を出たきり、何十分も戻って来ないんだもんな……。


「帰らなきゃ……」


 立ち上がり、服についた砂を叩き──ふと気づいた。

 どこへ帰ろうっていうんだ……? 俺は──


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