18章
2016年2月16日8時45分頃、正平は鹿島神宮駅にいた。駅から鹿島神宮までの急な坂を一気に登っていくと、参道の店が開店準備をしていた。そんな忙しい中でも、正平を見かけると誰もが「おはようございます」と挨拶をしてくれた。もちろん商売人だからということもあるかもしれないけど、それ以上にこの土地に根付いている伝統とか文化とかそういったものを受け継いで自然と挨拶をしている感じで、反射的に挨拶を返すしかできない正平だったけど清々しい気持ちで鹿島神宮さまを参拝して要石を見物しながら抜けて国道51号線をひたすら北上するという今日の旅を始めた。
まずは、先月末に行政書士試験の合格通知が届いたお礼を鹿島神宮さまにした。正平の自己採点ではマークシートを使う択一式と多岐選択式の合計で176点、合格点の180点に僅かに足りなかった。あとは一問20点と高配点の記述式の3問が頼みの綱だったけど、一問は講師の先生が言われたように捨て問題にして時間を稼いだほうがいいぐらいにわけがわからない問題だった。残りの2問中1問は要件を間違えて1問は効果を間違えたので、部分点がどれだけもらえるのかが合格への鍵だった。そこに大きな問題が一つ。択一式で没問があり全員正解になったので合格者数との調整で記述式が厳しく採点される可能性があり、3問の合計で0点と厳しく評価されても文句を言えるような解答を正平はしていなかったのだった。そんな合格か不合格かの微妙なバランスに揺られながら過ごした2か月半は、いま目の前にある鹿島神宮さんと去年の11月に見た富士山と筑波山の同時拝観のご利益に間違いないと思うぐらいに180点の合格基準点をはるかに上回る210点で合格した。心配の種だった記述式は26点で正解キーワードは全て採点していただいたようだった。択一式のプラス8点は自己採点か解答の書き写しかマークシートの記入ミスが考えられるけど、合格通知を手にしてしまった正平は鹿島神宮さんと富士山さんと筑波山さんのご利益としてまとめてしまった。そのあたりが中途半端な人生の原因だと自分でもわかりきってはいるのに、正平は楽な方へと流れていった。
本殿の参拝を終えて要石の方に向かった正平は鹿島神宮を包み込む木々の高さと太さに歴史の重さに威圧されながら、踏みしめる砂利の音さえはばかられるような荘厳な空気に伝統の厚さを感じながら歩いていると、ふと「さざれ石」の看板が気になった。あの君が代に謳われている「さざれ石」だとは思うけどどんなものなのかは知らなかった正平は、歴史と伝統が醸し出した雰囲気に動かされたかのように看板に示された矢印の方に向かった。さざれ石。色、形、大きさ、向き、さまざまな石がかろうじてくっついて一つの大きくて強固な岩を作り出している、そんな自然の造形美はそこはかとない感動的なものがあった。その美しさに日本人の素朴で正直な気風を重ねて和歌に詠んだ古人の高い美意識にも、正平はただただ尊敬するしかできなかった。現代では、君が代というと歌うの歌わないのだのが議論になったりするけど、古人が詠んだ本来の意味はもっと高いところにあるような気がしながら要石へと向かって歩いていった。
正平は、いつという記憶ははっきりとはしないけど日本列島の下には大きなナマズがいて、頭を鹿島神宮が尻尾を橿原神宮が押さえているという言い伝えを聞いたときから、大ナマズの頭を押さえている石として鹿島神宮の要石のことを知っていた。それに東日本大震災で津波の被害にあった沿岸の距離と鹿島神宮と橿原神宮までの距離が似ているので、昔の人も大地震や大津波のあとに誰かが歩いていたのではないかという気がしていたところだったので、この旅の中で是非とも見ておきたかった石だった。思いのほか見えているところは小さかった。まぁネジでも釘でも見えているところが重要なのではなく中が重要なものだし、それは参道で出会った人々の見えている以上に感じる奥深さに通じるものがあるような気がして、清々しい重々しさを感じながら国道51号線を目指した。
鹿島神宮の広い境内では、犬の散歩をしている人やウォーキングをしている人と時折すれ違った。そのたびに向こうから「おはようございます」と挨拶をされて、やたらと気持ちがよかった。人の町にお邪魔しているのだからと遠慮がちに歩いていた正平も、その気持ちよさに誘われるように自分から「おはようございます」と挨拶をしてみた。すると「おはようございます」と返されてさらに気持ちがよくなった。なるほど、挨拶すると気持ちがよくなるものだし人の町だから自分からはしないとかいう遠慮はいらないものなのだということに気がついた正平は、これからは積極的に自分から挨拶をしていこうと心に決めた。それから鹿島神宮を出るまでに正平から挨拶をして変な顔をされたのは、たったの1人だけだった。国道51号線に出るとじきにカシマスタジアムが見えてきた。歴史と伝統の重みを感じながら鹿島神宮を歩いてきた正平には急に表れた近代的な建造物に妙な違和感を覚えたけど、これからこの町に歴史と伝統を刻んでいくというサッカーチームの象徴でもあるような気はした。
この旅の中で最近の自分の流行になっている小腹が空いたらコンビニでおにぎりなりパンなりを買って食べてエネルギー切れを防ぎながら目的地まで行く、ということのためにコンビニでおにぎりを買って食べていたら、いつものことなのだろうかいい天気だったからなのだろうか、片方の手は力が入らない感じで下ろしながらもう片方の手で杖をついてリハビリを兼ねたウォーキングをしている感じの初老の男性に声をかけられた。おそらく、さっき正平が「おはようございます」と声をかけて追い抜いた人だと思われる彼は、正平の両ストックに関心を持ったらしくやたらと使い勝手を聞いてきた。脳疾患の後遺症だと思われる片麻痺があっても両ストックを使ってもいいものなのか、その方がADLやQOLの向上に向けたリハビリにつながるのか、使うとしたらどういったことが注意点となるのか、そんな具体的な専門的知識をまったく備えていない正平は、主治医かリハビリの先生に相談してから考えた方がいいのではないかと一応は言ったけれども彼はよほどストックが気に入ったみたいで、今日明日にでも購入して今以上にリハビリを頑張るようなことを正平に宣言していた。見ず知らずの人のやる気を引き出したのはなんとなく嬉しかったけど、そこから生じてくるであろうリスクには責任が持てないという狭間の中で、正平にはこれ以上のことはどうすることもできなかったので先を急ぐことにした。
やがて道はゆっくりと曲がりながら下っていった。国道51号線はガードレールに守られた歩道もあって、通行量の割には歩きやすかった。今日は最短で臨海大洗鹿島線の大洋駅を想定していて、それを超えていくようだと線路と海沿いの道が離れてしまうので再び線路が近づいてくる20キロぐらい先の大洗駅まで行かないと帰れないという極端に幅のある計画だったぶん、ここから先に進むと戻れないというあたりでの選択に正平は悩んでいた。天気もいいし足の痛みもないから大洗まで行こうと思えば行けたけど夕方ごろの到着になりそうだし、今日も照明器具を忘れたので先の街灯の状況が分からないままで進んで銚子の二の舞になってはいけないと思い、少し早い気もしたけど大洋駅で終わることにした。大洋駅に着くと、あと1~2分で列車が来るようだったので急いで跨線橋を渡った。ホームに着いたとたんに2両編成の列車が滑り込んで来たのはいいけど、跨線橋を降りたところにあった後ろの車両のドアは自動では開かなかったので、これは手動式に違いないと思い押したり引いたりしてみたけど開かなくて困ってしまった。中にいた数人の男子高校生が窓をたたきながら正平を呼んで、1両目の先頭のドアまで行ってから乗り込めという感じで前の方を指差して教えてくれた。それなら跨線橋の下に先頭のドアを合わせてくれれば楽に乗れるのにと思い、少しだけ恨めしかった。
今日はストックがポイントの日らしかった。車内に両ストックを持った黒っぽい茶色で地味な色だけど高そうな生地であつらえた着物をまとった初老の女性がいて、歩いてきた流れて一気に車内に乗り込んだ正平が両ストックを格納している姿を興味深そうに見ていた。やがて正平と目が合いお互いに会釈しあうと同時に彼女は正平の隣へと席を移動してきて、使い心地を聞いてきた。彼女のストックのほうがどう見ても正平のものよりもいいものに見えるけど、女性のストックは道が凍結すると滑るけど正平のものはどうかとか、2~3年ごとに各地を転々としながら暮らしていて鹿島に住んで2年になるとか、駅前の坂は急だけど毎日海が見えるのは気持ちがいいとか、鹿島は大きい町だから車がなくても買い物には困らないとか、そんな話を聞いているうちに列車は鹿島神宮駅に着いた。少しだけフーテン寅さんに似た雰囲気がある女性は鹿島神宮駅からJR線に乗り換えて鹿島の町に買い物に行くとのことなのでホームで別れて、正平は高速バス「かしま号」に乗り込んだ。それにしても今日は、色々な人とのふれ合いがあって楽しい旅路だった。これは鹿島神宮さんのご利益なのか挨拶の効果なのか、まぁその両方なのだろうと正平らしく大雑把にまとめながらの家路だった。
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