第36話 ナデナデ
「ナデナデしてあげるヨ」
「は?」
「子猫ちゃんで人生を強制終了されたっきりなら、ナデナデされた記憶、あんまないダロ? だからおれが教えてあげるヨ」
キャシーは記憶をさかのぼってみます。殺されたとき、虐待されたときを思い出すのはとても恐ろしく、苦しいものでした。でもそれに耐えて、きょうだいたちといた頃、ママと過ごした頃は――だめでした。あまりにもおぼろげすぎて、彼女の記憶にはなにも浮かんでこなかったのです。獣天界に戻り、怒りを胸に秘めたまま過ごしてきた時間が長すぎたせいもあるのでしょう。
「とはいえ、いくらおれでも、こんな水槽みたいな中に入ったままじゃナデナデできないゾ。出してくれないかナー?」
まるで金魚を飼う水槽にフェレットを無理矢理詰め込んだような状態なので、ガジュの灰色の毛は乱れ、真っ白い下毛がのぞいています。
キャシーは無表情でそれを見つめていました。けれども、いったいどういう仕組みになっているのか、ガジュを閉じ込める見えない壁の一部に、ごくわずかな隙間ができました。ぎりぎり、フェレットの前脚が通るくらいの大きさです。
「うへへ。ありがとうナ、キャシー」そこから右の前脚をにゅっと突き出して「あ、もうチョイ寄って。おれ、あんまウデ長くないんだ」
真っ黒で、五本の指すべてから長い爪が生えている手に近づくのは愚かなことだ――キャシーの理性はそう警告しています。だってそうでしょう、その気になれば、目玉をえぐり出すことなど雑作もないはずですから。
あのピンクの手のひらは、そんなに怖くないんじゃないか――理性ではないなにかが反論します。確かにガジュの言動を思い起こしてみると、騙し討ちのようなまねをするキャラではなかった気がしてきます。
「オイデ、子猫ちゃん」
結論。最大級に警戒しつつ――超へっぴり腰でガジュの間合いに入り、少しでも不審な動きがあれば緊急離脱する。頭を低くし、少しずつ距離を縮めていきます。
「うはは! キャシー、背中がギザギザになってるゾ」
「うるさいわね。敵に近づくんだから、慎重になるのは当たり前でしょう」
「おれ敵かよー! じゃあ、食べちゃうゾ、がおー」
「なによ、がおーって」
「だってさ、フェレットって鳴き声ないんだもん」
自分の立場が理解できていないはずがない――と思いたい――ガジュですが、本人もいっていたとおり、本当にただ狭い箱に入る遊びでもしているように楽しげでした。弾む声はもちろん、つやつやと輝く瞳は嘘をつけませんから。
ため息をつきながら、半ばやけっぱちで、キャシーが頭を差し出しました。
「おっ、イイコイイコ」
思わずびくりと下げたキャシーの頭に、ガジュ右前脚がふわりと乗ります。立派な三角耳の間を、柔らかく押すように、前後左右に滑らせるように。長く鋭い爪が当たらないように、そっとそっと。「どうよ、おれのナデナデは?」
問われたキャシー、正直悪くないとは思ったのですが、ガジュの顔のドヤっぷりに腹が立ったので、わざと冷ややかな声を出します。
「別に。ただ毛並みを乱されているだけじゃない。こんなののどこがいいわけ?」
「あっれー? おかしいナー、やっぱウデの動く範囲が狭いからダメなのかナ」
「そういって、出してもらおうってつもりなんでしょ」
「エー、チガウって。ああ、それじゃチョット、上向いてみ」
「こう?」
ついつい素直に上を見上げたキャシーは、無防備なのどをガジュの爪の前へさらすことになり、「しまった」と身構えました。が――白いのどに押し当てられたのは硬く鋭い武器ではなく、ピンク色でぷよぷよした手のひらでした。
「んー、んー」
狭い隙間から精一杯前脚を伸ばし、できる限りやさしく、愛情を込めて、今までなでられる喜びを知らずに生きてきたネコを慰めようとしています。
「ココ、ネコ族のイイトコロだって聞いたんだけどナ。気持ちいいダロ? ゴロゴロいってみ?」
「なによゴロゴロって」
「おまえ、イイコだなあ。ヒドい目に遭わされたなら、もっと恨んでさっきのガラス板の人たちを焚きつけて、簡単に復讐できたハズなのに、思いとどまってくれたんだナ」
無意識にですが、キャシーは差し出されたガジュの前脚に頬を寄せていました。
「別に。レクーの計画を知っていて黙っていたことには変わりないわ。共謀罪かしらね」
「テンチョーには、おれも一緒に謝ってやるヨ。償いが済んだら、地上勤務を申請するんだ。絶対にかわいがってくれるソウルマスターを探して、今度こそ愛される子猫ちゃんになるんだゼ」
顔からこぼれ落ちそうに大きいグリーンの目が、見えない箱にぎゅうぎゅう詰めにされている憐れな獣に注がれています。ガラス玉のような目には、なんの感情もこもっていません。喜びも、悲しみも、怒りさえ。
――と。唐突に壁が消えました。折りたたまれていたガジュの体が、透明な床にペタンと音を立てて広がります。彼は目の前で無表情にたたずむキャシーをじっと見つめていましたが、やがて鼻先をウニのようにして、そのお髭センサーで彼女のすべてを感じ取ろうとしました。それから、お腹をつけて寝そべった体勢から一挙動で立ち上がり、ジャンプして飛びつき、嫌がられました。
「キャシー!」
「ちょっと、鼻水つけないでよ汚いわね」
ロシアンブルー・ハイブリッドは、両前脚を突っ張らせて拒否のポーズ。セーブル・フェレットは顎と胸を仰け反らせて阻まれてしまいます。でも、うれしそうです。
「ありがとうナ!」
「人間でもソウルマスターでも、勝手に助けに行けばいいでしょう」
「ウンウン。おれはスーパーヒーロー、セリアン・アッシュ! 助けを求める者の味方だ!」
「だったらさっさと――」
「ソウルマスターは無事だし、この後スグに助けられるゾ。だから」牙を覗かせていてもとびきりの笑顔で「今は、泣いている子猫ちゃんの味方だ」
「目潰しでもされたの? されたいの? ワタシ、泣いてなんかいないのだけれど」
「ちょっと待ってろ」
聞いちゃいない正義の味方。キャシーから二、三歩後ずさってから宙返りを決め、天使形態を取りました。ただでさえ大きな目を、こぼれんばかりに見開いているネコを驚かせないように、ゆっくり静かに屈み込みます。
「おれじゃソウルマスターに比べて感動は薄いだろうが、ナデナデされる練習相手にならなってやれるヨ。だからオイデ、子猫ちゃん」
そういって差し出された、少しゴツゴツした手に、キャシーは今度こそ自分から、頭をすり寄せてみました。ガジュはもちろん、ただでさえ笑っている口元をいっそうニッコリさせて迎えてくれました。サングラスに遮られて見えませんが、きっと目でも微笑んでくれているはずです。
「イイゾイイゾ、その調子。そしたら次は、カワイイ声で『愛はいりませんかー?』って、鳴いてみ?」
「……ャー……」
「うへへ、ウン、最初はそれでイイ。でもナ、カワイイ声すぎても人間には聞き取れないんだ。もうちょい、声張って」
「ニャ……」
「そうそう。子猫ちゃんはキレーな声してるんだから、自信持てヨ」
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