第30話 カーラの叫び

「くれぐれも、犯人を刺激しないで。人質の命がかかっているんだからね」


 セリアン・アッシュは返事の代わりに、旋回を続けて高度を維持します。今はまだ、飛び出していくのは適切ではなさそうですからね。そうこうしているうち、下で動きがありました。

 残留思念にへばりつかれたまま、ナイフ所持の男性が警官隊に向けて何かを言い始めたようです。


「1、2、3……9。太陽、水星、座標、軍神、木星、土星、天王星、海王星、冥王星。こんにちは。こんにちは。こんにちは。ご無沙汰した、こっっにちわ。わたしは脊椎動物。食肉目。イヌ科。イエイヌ。みなさん、よくもさまざまな、仕打ちを、ありがとう黒魔術。お礼に、拉致します。過去形。これからも、お礼に、悔い改めよ。この人は、ただし私です、大丈夫です痛みはありません、無意味」


 個性的なスピーチですが、とにかく犯人が警官隊へと向き直り、倒れている女性が死角になったので、セリアン・アッシュは頭を下に向けて急降下しました。

 地面ギリギリまで翼を開かず、着地の衝撃は全身をバネにして体で受け止めました。それでも内臓と脳味噌が液体になるのではないかというダメージを受けましたが、何より倒れている人が大事です。外傷があることを確認し、ぐったりとした体を両腕に軽々と抱き抱えると、そのまま駆け出します。野次馬の人たちが言葉を失って目を見開く間を割るようにして、警察か救急の手に委ねようとしたのです。でも――。


「はじめまして家畜。わたたしは、カースト制度がバラモンバラモン、あなたも。そうしよう、ご不明な点はサポートセンターまでご連絡ください。わたくしが浮き足立つための氷菓子等を、所持運搬。行き先ボタン、している最中です。警察を呼んでください」


 あえて呼ばずともすでに、大勢の警察官に取り囲まれている状況で、この男性――に取り憑いている残留思念は何を言っているんでしょうね。

 ボケには寛容なセリアン・アッシュも、さすがに問い詰めたい気持ちに駆られましたが、今はとにかく負傷者の容態が心配です。いつ攻撃されても保護した女性に被害が及ばないように、犯人に背を向けたまま対峙しました。

 そこへ、キャシーが降りてきて耳寄りかもしれない情報をもたらしてくれました。


「あいつ、アナタが人質を救出しに来たとは思っていないみたい。どちらかと言うと、どさくさに紛れて獲物をかっぱらいに来た乱入者だとみなしているわ」

「コノ状況でか?」

「そう」


 常識人であるキャシーよりだいぶ感覚がズレているセリアン・アッシュをして首をひねらせる、残留思念の桁違いなぶっ飛びように、カーラを含めた三匹が首を傾げて目を見交わします。


「じゃあとりあえず、敵サンには見つかったが、人質は無事ってコトだナ?」

「今のところは、ね」


 一方、人間サイドは緊張度合いが俄然高まりました。人質を取った犯人の説得中に、どこからともなく現れた謎の男が勝手に負傷者を救出しようとしたのだから、無理もありません。しかも残留思念は、憑依した男性を盾にするかたちで警官隊側に向けており、これが問題をいっそうややこしくしています。


「同志になれよう。返却してください。今はまだスタートライン。早急に。早急に。早急に……」

「キャシー、コレはなんて言ってるんだ?」


 「早急に」をいまだ繰り返す残留思念の頭部が、少しずつ形を変えていきます。顔の中央が前へと迫り出てきて、何かの動物を思わせるようです。

 キャシーはあいかわらず生真面目な表情のまま少し沈黙した後、慎重そうな口振りでこう言いました。


「自分とワタシたちの目的は一緒のはずだから、その女性を早く返しなさい。今ならまだ間に合う……といったところかしら」

「よくわかんないけど、残留思念ってもっとこう、『悔しい』とか『忘れないで』とか、そういう想いが形になったものじゃないのー? こんな複雑な想いって、あるのかなー」

「『残留思念』は、ミスマッチします。脊椎動物の、イヌ科は、遺失物かつ御使い。人類みな黒魔術、丑の刻参り」


 支離滅裂な残留思念の言葉を受けて、キャシーは黙り込みました。口を開きかけて、また閉じる――なんだか落ち着きません。モンロー眼鏡の下で、表情が明らかに強ばっています。


「キャシー。今の、意味わかったのか?」


 後ろを振り向けないセリアン・アッシュは、キャシーに沈黙されると、背後で何が起こっているのかと気が気ではなくなります。「キャシー?」と声をかけながらよく彼女を観察すると、ネコ族特有の鋭い眼差しは自分ではなく、その横にいるカーラへと注がれていることに気づきました。


「……残留思念じゃなかった。そいつは、堕ちたイヌ族の獣天使よ」

「落ちたって、ドコからだ?」


 カーラは何かを叫びそうになるのを堪えるように両手で口を覆いながら、大きな目をさらに見開いて、残留思念――同胞の変わり果てた姿を見つめていました。


「人間に復讐したい……そう言っているみたい」

「そんなはずないよー! みんな、お友だちだった犬はみんな、人間が大好きなんだよ。復讐なんて、しないよー!」

「アナタのように、幸せいっぱいでいられたイヌばかりではないの。ただの商品として扱われ、生き物としての尊厳を奪われた者や、虐待を受けて人を信じられなくなったイヌだって少なくないわ。彼らの一部が人間を恨んだとして、何の不思議もない……」

「そんなのって、ないよ……」


 ひーちゃんたちと暮らしていたとき、ダメだと言われていたのにおいしそうな匂いにつられ、ついテーブルに前足をかけてしまったことがありました。そのときは鼻を指でピンと弾かれ、ちょっと痛かった記憶がありましたが、「テーブルに前足をかけない」という約束を先に破ったのは自分だとわかっていたので、怒られたことが理解できたものです。「ごめんなさい」という気持ちにはなっても、彼女が「恨んでやる」なんて思うはずがないのです。なぜなら――


「なあなあ、『ウランダ』って何だ?」


 セリアン・アッシュはそれを、ウガンダの親戚くらいに考えているのでしょうか。イタチ族のように、元々ポジティブシンキングの種族は、そもそも「恨む」というのがどういうことなのか知らないのです。


「とにかく、人間の仕打ちに腹を立てて、制裁を加えようとしている一部のイヌ族がいたということよ」

「そんなはず、ない!」ハシバミ色の目にいっぱい涙をためて、カーラが悲鳴に近い叫び声をあげます。「イヌは裏切らない!」

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