第18話 翼を失った獣天使
「そのとおり! おれの焼死体だ!」
「ひいっ……」
ふさふさの尻尾を完全に後ろ足の間に挟み込んで、カーラはさらに後退しました。そのかかとを前足で押しとどめ、キャシーが相変わらず冷静な声で言います。
「焼け死ぬ前後のことは、どの程度覚えているのかしら?」
「そうだな……多分、夕方だったと思う。唯ちゃんは、まだ学校から帰っていなかった。それで……唯ちゃんのママンはいたような気がする。たしか、晩ご飯を作っていたゾ」
「それなら、キッチンが出火元である確率が高そうね。どこかしら」
「キッチンは、たぶんこっちだよー」
すべてが焼き尽くされた中でも、イヌ族のカーラは特徴的なスパイスの残り香を頼りに、二人をキッチンへと導きました。確かに、焼け残った中華鍋や柄のない包丁といった金物類や、割れた瀬戸物などが散乱しているそこは、台所と考えて間違いなさそうです。
ガジュも、ケージのある場所から位置関係を思い出し、カーラの示す場所がキッチンだと断定しました。
「おいしそうな音がしていたナ。そうだ、ママンは揚げ物の準備をしていたゾ」
「見えてきたわね。ママさんは揚げ物用の油を火にかけたまま、キッチンから離れたんじゃないかしら?」ちょっと人間ぽく、あごに片手を添えながらキャシーが小首をかしげて見せます。「電話やインターホンが鳴ったのを聞いてない?」
「いいや、聞いていない。それに電話や玄関へは、おれのケージの前をとおらなないと行けないヨ。いくらなんでも気づかないハズないだろう」
一つ一つ思い出すように話しながら、ガジュはキッチンと思しき空間に沿って歩いてみました。それほど広くはありません。少なくとも、台所の中にいる限り、油から火が出ているのに気づけないほどの広さはなさそうです。
キャシーも逆回りにキッチンを一周してから、ふと足を止めました。
「ここの家、勝手口はないのね」
「ウム。わりと最近建てた家だから、ないっぽい」
「でも、そうするといよいよ困ったことになるわ」二人の視線が集中するのを受けながら、キャシーの瞳が妖しく輝きます。「唯ちゃんのママさんは、揚げ物の油から出火しているのに、キッチンを動いていないことになるんだから」
さすがにガジュも言葉を失いました。カーラはひどく慌てた様子でその場をくるくると周り、次いで鼻をうごめかせます。
「でもでもっ、人がその……焼けた匂いはしないよー。ここで焼け死んだのは、ええと……その中の、ガジュだけだよ」
「アレレ、ワケがわかんなくなってきたゾ」
「そうね。だとすると、謎がいっそう深まるわね。出火の前か後かはわからないけど、ママさんは、遺体も残さず忽然と消え失せたって考えないといけないもの」
おかしなことになってきました。アドベントベルで唯ちゃんの存在が「圏外」と表示されることに、何か関係があるのでしょうか。
長い胴体を背中にたわませた状態で、ガジュはしばらくヒゲをうごめかせていましたが、急に後ろ足で頭をガリガリとかきむしったかと思うと、おもむろに言いました。
「ヨシ、今日はもう寝よう」
「ええっ、いきなりー?」
抗議の声を上げたのはカーラです。「おすわり」をしたまま前足を何度も踏み換えるさまは、大好きなボールを取り上げられたイヌそのもの。かわいそうになって、ついもう一度ボールを投げてあげたくなるところですが、ガジュは長い首をきっぱりとうなずかせました。
「ウム。ここでこうしていても、これ以上はナニがどうなったのかわからないだろう。だから朝になるのを待って、この辺の人間に話を聞こうと思う」
「ワタシも賛成。明日呼ばれたときまでに、聞き込みをしても不審に思われない服をいくつかピックアップしておくわ」それからカーラに向き直って言います。「じゃあ、戻るわよ」
結局、鶴の一声となったのはキャシーの宣言でした。彼女を先頭に、次にカーラが空へと舞い上がります。言い出しっぺのガジュは……なぜかまだ地上にいました。ジャンプしながら翼を忙しなく動かしていますが、ホバリングするだけで一向に上昇しません。
「アレ? アレレ?」
ガジュ本人も不思議そうです――それでもどこか楽しそうではありますが。その様子を上空から見下ろし、カーラが首を傾げました。
「ガジュ、ひょっとして飛べなくなっちゃったのー?」
「どうもそうらしいナ。うはは、マイッタ!」
まったく参ったように見えないガジュの横に、キャシーが音もなく舞い降りてきます。その表情はチタン合金のように硬く、身にまとう雰囲気は雷雲を思わせる迫力が感じられました。
どうやらこの事態、彼女にとっては非常に都合が悪いようです。かすかに動く口元からは、謎の呪文が聞こえてくるではありませんか。
「――翼の面積の個人差を無視した場合平均値を二平方メートルとして一度の羽ばたきによる空気抵抗を算出これにより押しのけられる大気の容積をXとし飛翔に必要な合力が求まるが獣天使が通常の飛行を行う際には先に求めた合力にマヌフをかけて数値を小さく見積もることが可能これは個人差が大きい数値ではあるが最小値を一、二と見積もったとしても十分な効果が期待できるしかしこの変数が一、〇三を下回る場合――」
「キャシー、ドウシタ? 背中に粘着テープでも貼られたのか?」
「もー、ガジュったら、今そんなことする人いないでしょー」後輩獣天使はあきれたように首を振り振り言ってから、我らがブレーンへ向き直ります。「ねえキャシー、ガジュが飛べなくなっちゃった原因がわかったんだよね?」
「ええ、当然よ。マヌフを計算に入れていなかったという現実があるの」
清々しいほど当たり前な顔で言い切られても、ガジュとカーラにはよくわかりません。
「マヌフって、なにかなー?」
「魂が発揮する、エネルギーの一種よ。これのおかげでワタシたち獣天使は、飛行する条件を満たさない大きさの翼であっても空を飛ぶことができるの」
「ほー。じゃあ今は、そのマヌフとやらがたりないのかナ?」
「肉体がある場合、マヌフは発揮されないわ。そして獣天使の翼は、マヌフ抜きで飛行するには小さすぎるのよ」
乾いた音を立てて動いていたガジュの翼が、しんと沈黙しました。どうやら――どれだけ頑張って羽ばたいても、セリアン・アッシュとして地上活動用の肉体を得たガジュには、飛び立つことはできないようです。
「んじゃ移動は当分、歩きになるな! うはは、イタチのお散歩だ!」
愉快そうにステップを踏んで、ガジュはゴキゲンにダンスを始めました。驚いたのはキャシーです。モンロー眼鏡の中で、まなじりの鋭い目が大きく見開かれます。
「ちょっとアナタ、何か言うことはないわけ?」
「ん? ああ、お疲れサマー! おれは今夜ココで寝るから、二人は獣天界に帰ってイイゾ」
「そうじゃなくて!」クールなネコ族のキャシーが、ここへきて初めて声を荒げます。「ワタシは計算ミスしたのよ? それも、毛玉作戦の遂行にとって致命的なミスじゃない。責められて然るべきなのに、どうして、どうしてそんな……笑っていられるわけ?」
「おれもミスするからなあ。それにおまえのコトだから、何か方法を考えてくれるんだろう?」
「それは、当然じゃない」
泳ぎがちだったグリーンの目が、ガジュ一点に定まり、力強い輝きを帯び始めました。これでようやく、元通りのキャシーです。カーラはなんだかほっとして、ガジュも心なしかうれしそうに見えます。
「肉体のある状態で飛行を可能にするのは難しいかもしれないけれど、代替え案は必ず出すわ。獣天界に戻る方法も、絶対開発する。だから、少しだけ時間をちょうだい」
「ウン。待ってるヨ」
朗らかに頷いて、ガジュはその場にぺたんと座りました。別に急がないから焦らなくていいよ――という、イタチ流の気遣いです。それから、金髪のお嬢さんを伴って天へ昇っていくクールビューティーに、笑顔で手を振り別れを告げました。
二匹がいなくなったあと、焼け跡にガジュは一人です。少しおなかが空いてきましたが、フェレットフードをたらふく食べさせてくれる食堂は、はるか彼方。こうなったらもう、寝るしかありません。
座ったままでんぐり返ってフェレットの姿に戻ると、燃え残った茂みに顔を突っ込んでみます。翼がつっかえるので引っ込め、穴を掘ろうか少し考えてから、その場に丸まりました。自前の毛皮があれば、場所なんて関係ありません。どこでもステキな寝床です。
ピンクの斑入りの鼻面が背中に触れるか触れないかというところで、セリアン・アッシュことガジュは眠りに落ちました。
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