第34話 惨劇の始まり

 俺とジルさんの間には殺伐とした一触触発の空気が流れていた。俺の彼は二十メートル近く離れていて表情なんてはっきりとは見えないはずなのに、目の前にいるように彼の顔が想像できた。きっと彼は、俺が横顔でしか見たことのない、あの悪に向ける無表情にも見える表情をしていふのだろう。その事実に不思議と頬が緩みそうになるのをなんとか抑える。

 彼は悪に対して誠実だ。あの表情は彼が悪と認めたものにしか見せない。彼の中で悪だからとなんでもしていいという考えはなかった。自分と対極にある存在だからこそ、全力を持って、誠心誠意に殺しつくすのだ。

 だからこそ今の俺は悪として認められているということであり、それがたまらなく嬉しかった。


「そうか……どかないのか」

「ええ、どきません」


 俺もジルさんも衛兵たちも誰も動かない。ただお互いに睨み合うだけだった。

 最初に動いたのはジルさんだった。俺の返答に、そうかとだけいって踵を返す。そして衛兵たちの後ろへと歩いていった。

 ーー殺せと、ただそれだけを命じて。


 ジルさんの命令に呼応し、各々が剣を抜いた。シャリンと金属同士が擦れ合う音がそこら中で聞こえる。手入れの行き届いた彼らの剣が月光を反射してキラキラと光っていた。


「「うぉおおお!!」」


 そして彼らは雄叫びをあげながらこちらに走ってくる。総勢八十あまりの屈強な男たちが一斉に押し寄せてくるのは圧巻だ。何かとてつもなく大きな怪物を前にしているかのように錯覚しそうになる。

 だが逃げ出すなんてことはしなかった。できるわけもなかった。俺も剣を抜き彼らを睨みつける。


「すまないが、俺らのために死んでくれ」


 いつものセリフを呟き、一歩二歩と段々とピッチをあげながら彼らに向かって足を動かす。

 あまりにも無謀と側から見えるこの構図でも、なぜだか俺の心中は落ち着いていた。要するに殺せばいいのだ。いや、少なくとも動けないようにすればいい。それが痛み故だろうが足が切られた故だろうが何によってでもいいが、とにかく彼らを地に這いつくばらせることができればいいのだ。そんなやつらを殺すのはいつだってできる。

 彼らと衝突するのに時間はかからなかった。


 ガキィッ! と先頭列の真ん中にいたやつの剣と俺の剣が交わり、大きな金属音が辺りに響き渡る。ギリギリとお互いに力任せに押し合い、剣同士の間に火花が散る。


(ん? なんだ?)


 ふと、ここで違和感が湧き上がった。それは彼の剣に、表情に、そしてその剣筋に。

 彼は幾度か訓練で手合わせしたことがあるが、さすがカーテディアで厳しい訓練を受けているだけあって弱くはない。いやむしろ強い部類に入るだろう。その時は俺が勝ったが。

 だが、今のこいつにはあの時より格段に弱くなった気がした。力も弱くなっている気がした。そして何より剣筋に勢いがない。気持ちが載っていない。これではまるで腑抜けだ。

 そんな違和感は彼の、そして他の衛兵の顔を見てスッキリ消えた。


(ああ、なんだ。そんなことか)


 彼らの顔は厳しく歪んでいた。自分の内の何かと戦っているような、何かに耐えているような、そんな表情。

 結局ジルさんが異常だっただけなのだ。彼らは結局あまりにも普通だっただけだった。

 彼らは未だに迷っているのだ。覚悟を決めきれていないのだ。

 俺は結構訓練に混じっていたりと、普通の衛兵たちとの交流もしていた。だからこの場にも知った顔も多い。

 ジルさんは俺のことはよく知っているが、悪だからと割り切った。俺もジルさん、そして彼らのことを知っているが、アイラのためと割り切った。俺たちが異常なのだ。衛兵たちは未だに割り切れていない。俺と戦うことに、殺すことに迷っている。

 ああ、だからこんなにも弱く感じるのかと、思わず心の内でほくそ笑む。


(これは嬉しい誤算だな……っと)


 ギリギリと鍔迫り合いをしているところで真横で剣が振り下ろされる気配。目の前の男を蹴り飛ばし左からの剣を受け流し、剣同士が擦れてギャリギャリと心地よくはない音がなる。


 俺自身死ぬだろうと思っていたが、もしかしたらいけるかもしれないと小さな希望が湧き上がった。しかし弱くなっているとしてもこの人数。気を抜けるはずもなかった。


 そんなことを考えながら、次々と襲い掛かってくる剣をさばいていく。


(思考を止めるな。常に考え続けろ。誰がどこにいるのか、常に位置情報を更新し続けろ)


 自分で自分にそう言い聞かせた。


 大勢で一人を倒す時、何人も一気に攻撃してはダメだと訓練で教えられている。味方に自分の攻撃が当たるかもしれないし、その一人の敵自体が自分の攻撃を利用して味方を殺すかもしれないからだ。だからなるべく一対一に持っていく。そして傷を負わないうちに下がり、また次のやつがいく。そうやって相手に休ませないように、絶え間なく襲い掛かっていく。そんなやり方。

 普通のやつならすぐに追いつけなくなって殺される。全員が前からならまだいいかもしれないが、次のやつが前後左右どこからくるかわからない。しかもすぐに下がるから人数も減らせず精神的にも焦りが生じる。敵に傷を与えることができたと思ってもすぐに下がって無傷の元気なやつが出てくることにイライラとする。

 そう、普通のやつなら。

 だがあいにく俺は元悪鬼隊だ。これくらい捌ける。


(そろそろ動くか)


 体勢を低くし、たったいま剣を振り下ろそうとしているやつに向かって走り出す。そして振り下ろされた剣をまさに紙一重でかわし懐に潜り込みーー


ザシュッ! と、奴の首を一刀両断した。


 ゴトリと何か重いものが落ちたような音に続いてドサリと背後で音がした。そして、頭上から冷んやりとした緋色の雨が降る。まさに血の雨だった。彼の命が俺を、そして近くにいた衛兵たちを染め上げる。


(……へぇ)


 俺は少し驚いていた。

 あまりにも軽すぎるのだ。人がまるで紙切れのように軽く切れたことに、俺は驚きを感じていた。

 きっと今までと俺は躊躇っていたのだろう。悪と割り切っても、人を殺すことに少しは後ろめたさを感じていたのだろう。それが悪になって変わった。


 ただ剣を避けるだけだった俺が、初めて攻撃に転じた。

 あからさまに周りの奴らに動揺が走る。彼らの攻撃の手は完全に止まってしまった。

全く情けないと、思わず溜息が漏れる。


「なんだ? まさか俺が殺さないなんて、そう思っていたのか?」

「「ーーッッ!!」」


 図星だったのか、わかりやすく彼らの顔が歪んだ。


「わかってないお前らに言っておいてやる。俺は悪だ。だからお前らを殺す。お前らは正義だ。だからお前らもーーせいぜい俺を殺してみせろ」


 それだけ言って俺は走り出し、再び剣を振る。動揺故かそいつは全く反応できずに、無様に首が飛んだ。また一つ命が散った。

 それを見てさすがに状況を実感したのか、ようやく彼らの表情が引き締まる。だが泣きそうになるのを必死に抑えるような、そんな表情は消えていなかった。

 だが剣に力がこもり始めたのは確かだ。と言っても、もはやがむしゃらに近い。思った以上に彼らの中で俺の存在は大きかったようだと、初めて実感する。半分冷静さを失った奴らの攻撃なんざ避けるのは簡単だ。そもそも無傷でいる必要もない。致命傷を避けれればそれでいいのだ。だから俺は紙一重でかわし、自分の剣で弾いていく。時々頬や腕を擦り、生々しい緋色の筋が俺の肌に走った。

 簡単に攻撃を避けることができるとなるとこちらか攻撃するのも簡単なわけで、俺は着実に人数を減らしていった。


 前後左右からほぼ同時に四人が襲いかかろうとしていた。だが俺はあわてない。落ち着いて対策方法を頭の中で組み立てる。

 ほぼ同時に見えるが、わずかな時間差で前、後ろ、左、右と俺のもとに到着することがわかる。

 一秒とかからない間に動きを組み立て終わる。


 俺はまず前からのやつの方へ向かい、振り下ろされた剣を自分の剣に滑らせるように受け流し背後に回る。そしてその背中を蹴り、後ろから来ていたやつにぶつけた。結構強めに蹴ったから彼らは揃って倒れる。

 そのまま左からきていたやつの方に向かい、切り上げをかわして彼の手首から手を切り落とす。ぎゃぁあああ! と、聞くに耐えない叫び声を彼はあげる。

 そして空中に飛んだ彼の剣を彼の手ごと掴み、回転し遠心力を利用して右からきていたやつに投擲。その剣はまっすぐ飛んで彼の胸に突き刺さった。彼はゴボゴボと血を吐きながら倒れた。

 そしてやっと起き上がった彼らを背中から剣を突き立てる。その剣は一人を貫通し、そのまま勢いを緩めることなくもう一人にも突き刺さる。


「次」


 短く俺はそう周りに言った。だが皆が怖気付いてこちらにこなかった。

 あまりの腑抜けさに、俺はため息を禁じ得ない。たとえ相手が強くても、戦意喪失なんてしてはいけないというのに。


「ユルトォォオオ!!」


 だがそこでひときわ大きな声をあげながら俺に攻撃するやつがいた。俺はそれを難なく受け止める。


(ああ、こいつか)


 そいつは俺の同期だった。一緒に訓練し、その辛さに一緒に耐え、夜には厳しい教官の愚痴を言い合ったりした。アイラ、メア、ジルさんほどではないが、以前の俺の中でまあまあ深くまで関わっていた青年だ。

 彼は他の奴らとは違う。はっきりとした殺意をその瞳に、そして彼の剣に宿していた。


「なぜこんなことをしたんだ! なぜ悪になんてなったりした! お前はそんなことしないやつだと信じていたのに!」

「……」


 その声は怒りに満ちていた。瞳の奥では炎が燃えたぎり、怒涛の剣戟を俺に浴びせてくる。

 その剣筋には確かに気持ちががこもっていて、威力が重い。次々と繰り出される攻撃を俺は冷めた目で、何も言わずに彼を見ながらさばいていく。


「これ以上お前を悪に走らせないためにーー俺はお前を殺す!」


 彼はこれで終わりだとばかりに、思い切り剣を突き出した。彼の想いの全てを込めるように、力強く勢いを持って突き出した。

 それはまるで物語の主人公のようだった。悪に走った友人を止めるため、全力を尽くす。ああ、何て素晴らしい。皮肉ではなく、心からそう思う。物語ならここで俺は殺され、ハッピーエンドとなるだろう。


 ーーだがそんな茶番に付き合う必要が、どこにある?


「え?」


 彼の突きを避けると、彼はなんとも情けない声を出す。

 なんてことはない。ただ一歩横にずれただけだ。特別な技術なんてなにもない、誰にでもできること。なに、簡単なことだ。結局こいつは悪鬼隊にいない時点で俺より弱かった。ただそれだけ。物語で主人公が悪を倒すことができるのは、そいつが強いからだ。力がなければなにもできない今この場でそれができるのは、ジルさんだけだ。

 彼はあまりにも力強く突き出しすぎたのか、そのまま前のめりになった。俺は回転しながら彼の背後に回る。

 彼は確かに俺の中で小さくはない存在だ。短くはない時間を共有もした。悪鬼隊を除けば一番親密だったとも言える。


 ーーでも殺す。


「じゃあな」


 彼に届いたかは知らない。俺はただそれだけ言って剣を振り下ろした。彼は醜く叫び声をあげて地に倒れた。俺はそれに見向きもせずこちらに向かってくる次のやつに視線を戻す。

 結局彼も今の俺にとってはこの八十人のうちの一人なのだ。



 次に前から切り掛かってきたやつの覚えがある男だった。たまに話すくらいだが。この前次男が生まれたと、幸せそうに俺に話してきたのを俺は覚えている。


「ぎゃああ!!」


 ーーだが殺すのだ。



 次に後ろからきたやつは何度か一緒に酒を飲んだことがあるやつだった。泥酔してしまって家まで送り、美人な彼の奥さんから何度も頭を下げられた。それから仲良くなり、こいつとその奥さんと俺とで何度か食事をした。


「ギィッ!」


 ーーしかし殺すのだ。



 次に左からきたやつは最近入ったやつだ。俺が指導したこともある。まだ衛兵になって日は浅いというのに、確固とした芯を持っていて、こいつは強くなると俺は確信していた。


「だ、だずげ…」


 ーーだが殺さねばならない。



 再び左からきたやつはメアを狙っていたやつだった。俺に紹介してくれと言ってきたので紹介したら、彼女の辛辣な言い方に沈んでいた。だというのにめげずにアタックしては沈められているのを、俺は何度も目撃した。


「ぐぁぁああ!!」


 ーー殺す以外に道はない。



 次に前から切り掛かってきたのは、俺も前からお世話になった男だった。我が家の状況を不憫に思い、野菜とかをくれたりいろいろとよくしてくれた。俺もアイラも彼には感謝している。


「ぐはっ!」


 ーーだがやはり俺は殺すのだ。



 次のやつはーー

 こいつはーー

 彼もーー



 一人、また一人と切るごとに、そいつについての思い出が頭をよぎる。俺はそれをそいつ自身と一緒に切り捨てていく。その度に体が軽くなるような、そんな感覚を覚えた。それが心地いい。俺が悪になっていると、アイラを守ることができていると実感できて。


 だというのになぜだろうか。


 チクチクと心になにかが突き刺さるような気持ちになるのは、なぜだろうか。


 俺は彼らの目を見た。

 そこにはもう、さっきのような勇気溢れる光は灯っていない。

 そこにあるのは、ただ恐怖のみ。


 ーーやめてくれ。


 また一人衛兵を殺しながら、俺は心の中でそう呟く。


 ーーやめてくれ


「ギャァアアア」

「やめ! やめてくれ!」

「クソォォオオ!!」


 まるで怪物を見るようなーー


「ーーそんな目で、俺を見ないでくれ……」


 ポツリと口から漏れたその言葉は衛兵たちの野太い叫び声にかき消された。


 頬に感じた生暖かい液体が涙が、それともただの返り血か、俺には分からなかった。

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