第33話 再会の約束
ーー置いていかれる人間の気持ちを一切考えていない!
メアが必死に伝えた彼女の本心。それが別れて少しした今でも頭の中で反響するようだった。なんども響く。が、不思議と頭が、そして自分の心が揺れているわけではなかった。
俺に置いていかれる人間とは誰だろうかと、その時ふと考えた。考えた結果、アイラしか思い浮かばなかった。
悪になり、正義を捨てた。衛兵を捨てた。悪鬼隊を捨てた。カーテディアを捨てた。その住人を捨てた。
メアもさっき捨ててしまった。捨てられてしまった。
だから俺に残っているのはアイラだけなんだ。悪に染まった俺の瞳は、アイラしか映さなくなった。他のものを映さなくなった。
だからこそ俺はなんでもできる。どこまでも進んでいけると、そう思い込んだ。
家までの帰り道。ふと空を見上げた。
散りばめられた幾多の星々は、こんな俺でも泣きそうになるくらいに綺麗に思えて。なぜかそれが無性に嬉しくて、自然と口元をほころばせてしまう。
ジルさんが住人に知らせたのか、通りには人一人いない。立ち並ぶ家々からも声一つ聞こえない。その静けさがこの夜の神秘さを際立たせる。
そんな不思議な空間で一人、俺は呟いた。
「ああ。今日は綺麗な満月だ」
「お兄ちゃん。大丈夫?」
アイラは壁に座ってもたれかかり地面を睨みつけていた俺にそう言った。
家に着いてから俺はずっとこんな調子だ。地面に座り込み壁に背中を預け、剣を抱きかかえるようにしていた。そしてまだ見ぬ敵を睨みつけるように地面に鋭い視線を向けていた。
「ああ、大丈夫だ。お前こそ大丈夫なのか?」
「私は大丈夫だよ。私は……ただ逃げるだけだもん」
ただ逃げるだけと言っても全ての衛兵が俺に回されるわけじゃない。街にも少数だが散在しているだろう。だから安全とはいいきれない。
だというのに彼女は俺だけを危険な目に合わせるのが申し訳ないと言った調子で、後ろめたそうにそう吐き捨てる。
俺はこっちに来いと、アイラに向かって手招きをした。するとアイラは首を傾げ俺に近づき、腰を下ろして俺と同じ視線になった。
「そんなこというな。お前だって危険なんだ。だから心の準備をして置いても、無駄なんてことはない」
「お兄ちゃん……」
俺は彼女の左頬を撫でた。アイラはくすぐったそうに目を細め、身をよじる。俺はそれが微笑ましくて、こんな状況だというのに笑みがこぼれるのを感じた。
「お兄ちゃんに比べたら……私の危険なんてなんてことないよ。わたしだって、いざとなったらーー」
「それはダメだ」
俺は彼女の言葉を遮って、そう言った。
左頬を撫でるのをやめ、逆に右頬を撫でる。左とは違った硬くザラザラとした触り心地なんて全く良くないハンニバルの肌。それを俺は愛しむように丁寧に撫でる。
「それは本当にピンチになった時だけだ。お前は……とにかく必死に逃げろ」
「うん……わかった」
そこで会話は途切れた。最後になるかもしれない相手を自分の目に、脳に刻み付けるように俺たちは見つめ合っていた。
だが少しして、アイラは耐えきれないといったふうに俺に抱きついた。俺からは何度かしたことがあるが、アイラからは今まで一度もない。そういう意味では俺は驚きを感じている。
彼女の温もりが俺の肌に伝わってくるようだった。俺も彼女を抱きしめ返す。お互いの存在を確かめ合うように強く、強く。
ねえ、おにいちゃん……と、彼女は耳元で俺に語りかけた。
「お兄ちゃん。死んじゃ……死んじゃ嫌だよ? お兄ちゃんが死んだらーー」
ーーわたしも死ぬから。
彼女は弱々しく、だがそれでいてはっきりとした強さを持った声でそういった。
アイラは俺の命を、アイラという存在に縛り付けたのだ。
なんで残酷な、なんてひどいことなんだろう。これじゃあ……死ぬに死ねないじゃないか。
「はは……それじゃあ俺も死ねないな」
俺は軽い調子でそう返す。アイラの俺を抱きしめる力が強くなった気がした。
「……俺と衛兵が戦い始めたら、お前は裏口から出てカーテディアから出ろ。広い道、明るい道は通るなよ。人目につかないように、隠れて動け。もし見つかったら必死で逃げろ」
「そのあとは?」
「そうだな……じゃああの場所で落ち合おう。俺たちにとって始まりの場所で。あの森の湖で」
「……うん」
そこまでいって、俺は彼女から離れた。彼女の温もりが消えてしまい、どことなく物足りなく感じる。彼女もそんな感じの表情だった。
だがそんな感情に左右される時間はないと、その感情を振り払った。
「もし、もし俺が朝までにそっちに行かなかったら……俺は死んだってことだ。お前一人で逃げろ」
「死んだってことって……もしそうならわたしもーー」
「ダメだ。お前は……お前の命は俺が今まで殺した219の死体の上にある。そう軽々と命を捨てちゃダメだ」
「そんな……」
彼女の足元には多くの死体が転がっている。俺がこの街で作った、他の街で作った、多大な犠牲の上で、彼女の生がある。
俺も彼女をこの世に縛り付けたのだ。アイラは絶望したような表情をしていた。残酷だっていい。なんだっていいんだ。彼女を守れるなら。
もちろん俺だって死ぬつもりはないと、そう付け足して俺は彼女の頭を撫でた。
「俺は死なない。だからお前も死ぬな。次会うときは……二人で笑えるようにしよう」
「……うん!」
アイラは笑った。少しも無理をしていない、俺を頼りにした笑顔だった。それがどれだけ俺に力を与えてくれることだろうか。
よしと俺は彼女に笑いかけ、立ち上がる。
外がガヤガヤと騒がしい。やつらが来たのだ。彼女も気がついたようで、心配そうに玄関の方を見つめていた。
「……いってくる」
「うん……いってらっしゃい」
俺は最後にアイラの頭を安心させようとポンと叩き、玄関に向かって歩き出す。
「じゃあ、また後でな」
「うん、また後で」
さよならなんて言わない。俺たちはまたと、再会の約束を交わした。
今日で最後になんだろうドアを開け、外に出た。その瞬間、身体中に突き刺さる大量の視線を感じた。
俺の家の前は、ちょっとした広場になっている。丸い形の少し広めのスペースの円周に並ぶ家の一つが、俺の家だった。
そこにいたのはやはりというべきか、たくさんの衛兵たち。メアの情報が正しければ八十人らしいが、ここまでくると数えるのも面倒になる。
彼らは揃いも揃って浮かない表情をしていた。明らかにまだ心の整理ができていないといった調子だ。多少動揺するのは仕方がないとは思うが、まだ整理ができていないとは元衛兵としてため息が出そうになる。彼らが腑抜けなのか、それとも思いの外彼らにとって俺の存在が大きかったのか。それはわからない。
「首はどうした? ユルト」
聞き覚えのある声と共に、ジルさんは姿を現した。
衛兵の集団の後ろから、彼らが動いて道が開きそこを歩いて前に出て来た。
ジルさんは軽く笑っていた。
「俺がどうするかなんて分かっているでしょう」
それに対し、俺もニヒルに笑ってみせる。なんてことない、無意味な抵抗だ。
「まあ、な……。ということは、いいんだな? 俺はお前が悪と認識してーーいいんだな?」
そこまでいって彼の雰囲気が激変した。全身全霊の殺気を俺に放つ。彼が悪と認めたものにだけ放つ圧倒的な覇気のようなもの。
俺は剣を抜き構える。冷や汗が頬を伝った気がした。剣を握る手のひらに汗がにじみ出ている気がした。俺の体が恐怖を感じていると、すぐに分かった。
だが俺は屈しない。屈してたまるかと彼を睨み返す。その口元に鋭い笑みを浮かべながら。
「わかってると思うが、一応言っておく。そこをどけ」
「わかってると思いますが、一応言っておきますーーどくわけねえだろうが」
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